銀の歌
第34話
湯船の中で柔らかい乙女の肌が揺れ動く。湯をすくうように手を伸ばしてみれば、手のひらから湯はこぼれ落ち、湯がはられた大きな浴槽の中に、ちゃぽちゃぽと音を立てて落ちていく。
「ほわぁ〜」
誰がその声を出したのか一瞬疑った。魂が消えるような、うっとりとした、艶のある声。自分が発したものだと気づくまでには、相当の時間がかかった。人を安寧させるのと同時に、堕落させていく魔性のもの。
……これがお風呂か。最初この浴槽に入っている液体を水かと思ってたけど、そうじゃない。温かい水ーー湯なんだ。
なんだか色々考えなくちゃいけないことがあった気がするけれど、この湯に浸かっていたら、全てどうでも良いことのように思えて来た。今はただこの気持ちよさに身を委ねていたい。
「はぁふぅぅー」
わたしは再度消え入るような声を漏らす。心の底から温まるとはこういうことか。考えながら。
ここまで自分がどれほど、湯に癒されているかを確認した訳だが、実はそれは完全ではない。ゆっくり心地よさを味わおうとしても、ついつい視界に入れてしまうし、聞こえてくるのだ。彼らの争い? 多分争いが……。
「アスハ副剣士長……そこはノートじゃないですよ?」
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えっ? うっそまじで……真っ平らすぎて気づかなかった……。悪いな笑
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【湯船の中で】アスハさんに髪を洗ってもらっているトーロスさん。彼女の髪はわしゃわしゃといじられるたびに泡立っていく。なかなかに不思議な現象だ。なんでもそういう髪を洗うためのものがあるのだとか。※
※トーロスさんに教えてもらった。
ここだけをみれば、湯船の中で……という若干のおかしさはあるものの、アスハさんは大変部下思いである。
しかしアスハ副剣士長さんは、トーロスさんに膝立ちを強要して、彼女の髪にある泡を使って、あろうことか彼女の胸に、白い泡で文字を書いているのである。そして泡で書いた文字は湯をかけることで、綺麗さっぱり落ちていく。紙に文字を書くよりもよっぽど手っ取り早い。なんとも画期的なことだ。
アスハさんが筆談で会話をするのは知っていた。なので自分の口を動かさないでいることに、ある程度納得していたのだが、この行動には流石に驚いた。
紙を使えない時には、人のまな板に文字を書くんですね。斬新すぎる……!
なんて馬鹿なことを考えている間にも、彼女達の言い争いは続く。まぁ主にアスハさんによる一方的ないじめなのだが……。
「悪いと思うなら笑わないで欲しいんですが……それに先ほどのつるはしはなんですか? 流石に非常識です」
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お前なぁ……好きな人の裸体が壁一つ向こうにあったら普通覗くだろう……? あとこの行為をやめるのはすまんが無理だ。私が会話できなくなる。ちっ! 腕が疲れてきたな。おい、ラックル代われ。
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トーロスさんの訴えを軽くあしらうと、アスハさんは、豊かな胸を携えるラックルさんを呼ぶ。
「えっ? あっ、はい。副剣士長!!」
アスハさんに呼ばれると、嬉しそうにラックルさんは浴槽の中を歩いて、彼女の元へと駆け寄る。
というかこの人女だったんだよなぁ。意外な事実。
ラックルさんはアスハさんの代わりにトーロスさんの髪をわしゃわしゃと洗い始めた。浴槽の中で……。
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悪いなぁ。ラックル。私の代わりに立たせてしまって。せっかくの風呂だというのに、湯船に浸からせてやれなくて。
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心底申し訳なさそうに、アスハさんは真っ平らな胸に泡で文字を書いていく。膝立ちをさせられ、お腹の部分までしか湯に浸かれていないトーロスさんの胸に。
「いえいえ! アスハ副剣士長の頼みとあれば。私は構いませんとも」
ラックルさんは恍惚とした表情で、アスハさんの言葉に返す。彼女の赤い瞳の中に、ハートマークが見えたのは気のせいだと信じたい。
「はぁ……。その優しさを少しでも私に分けてくれませんかね」
トーロスさんは切なげに呟く。
ああ、そんなことを言ったら、またアスハさんにいびられますよ。トーロスさんのことを案じていると、案の定アスハさんは、彼女の髪から泡を取り、嬉々として文字を書こうとする。
が! アスハさんが何か書くまでもなく、トーロスさんは心にダメージを負うこととなる。
「だまれ……クソ◯ッチ……。アスハ様に気安く文句言ってんじゃねぇよ……」
「「ふぁ!!??」」
わたしとトーロスさんの声は重なる。そしてこの言葉を発したのが、アスハさんじゃなくて、ラックルさんだという事実がさらにわたし達を驚かす。
第三者のわたしだって、かなり衝撃を受けているんだ。直接耳元で囁かれたトーロスさんの衝撃といったら。
「ぐふぅ。後輩にまさかそんなことを言われるとは」
ああ。ほらやっぱり。
ラックルさんはアスハさんのことが好きなんだから、誰かが何か文句を言ったら、一緒になって攻撃してくるんですよね。
ラックルさんはアスハさんが大好きですから、いつも従順で……あれ? でも二人とも女性ですよね。
そこまで考えて、わたしは考えるのをやめた。時には考えなくて良いこともあるのだ。いつか向い合う時は来るかもしれないが、それはきっと今ではない。
意識を無理矢理変えるために、チャポチャポと目の前のお湯をいじくる。なにか良い話題はないかな〜と考えながら。
そんな時。不意に誰かが言った。
「そういえばアルトくんはどこにいっちゃったの? セアちー」
トーロスさんとアスハさんが睨み合っている中、ミーちゃんが口を開いた。
「……わたしですか?」
彼女達のいがみ合いに気をとられて、自分に話が振られたのをしばらく気づけなかった。
「ああ〜アルトさんですか……。アルトさん、アルトさん?」
ミーちゃんに話を振られて、慌てて考える。そういえばどこにいるんだろうと。
「えっと。その……あぁ〜」
歯切れの悪さを気に留めたのだろうか、トーロスさんがアスハさんから視線を逸らして尋ねてくる。
「……もしかして、知らなかったり……するの?」
そんなことはないと、アルトさんの言ったことを思い出すが、どこをどう探っても、彼の現在地は分からなかった。どころか、集合場所すらも記憶にない。
そのことに気がついて、間抜け面を晒す。ぽかんと口を開けてしまった。
「……ああ。そうなの」
トーロスさんは察したらしい。彼女は眉を寄せて、困ったように水面を見つめていた。ただそれは彼女だけではない。周りの聖騎士団の方々も、同じように困惑した表情を浮かべている。
またわたしは何かやらかしたのか。そしてついつい皆から顔を背けてしまう。
「そうなのね。あぁ……ごめんなさいね。気づいてあげられなくて。保護者がいない時点で、記憶喪失の子が一人でいる時点で、気づくべきだった……」
トーロスさんは申し訳なさそうに謝って来る。そしてその後ブツブツと呟いた。
「聞いてもいいかな? セアちゃん」
意を決したような表情で尋ねてきた。
「は、はい。何でしょうか?」
おどおどとした態度で言う。その態度をみたトーロスさんは、またも悲しそうな顔をした。
「セアちゃんとアルトさん……はどういう関係なの? それ次第では、あなたの身柄を引き受ける必要が出てくるのだけど」
言った意味が分からなかった。けれど緊迫した雰囲気が辺りに漂っているということだけは理解できた。
「えっ……わたしとアルトさんですか?」
「ええ。そう」
少し考え込む。そしてしばらく時間が経った後、わたしは答えた。
「なんだろう……分かんない……」
「えぇ……」
トーロスさんは顔を引きつらせた。
✳︎
「はぁ。それじゃあ、会ってからまだ数日しか経ってないって言うの?」
わたしは自分達のこれまでの経歴を聖騎士団の皆さんに話していた。
トーロスさんが代表で言葉を返してくれているわけだけど。彼女の反応には、呆れと戸惑いと……色々なものが複雑に混ざりあっているように見えた。
「そうなりますね」
トーロスさんの発言を肯定すると、彼女はまた、深くため息をついて、独り言のように喋り出した。
「はぁ。そう。つまりあなた達はスズノ山で出会って、山を降りて、私達に出会って、私達と戦って、逃げ出して、推理をして、街について、殺人鬼を見つけて、捕まえようとした……と」
「はい」
長い沈黙が訪れる。
「最後にもう一度確認だけど、あなたとアルトさんは二、三日一緒にいただけの赤の他人なのよね?」
「そう……ですね。記憶がないのでなんとも言えませんが、アルトさんの反応から考えるに……まぁ初対面かなと」
それだけ聞くとトーロスさんは顔に手を当て。「ああぁ」と嘆いた。
「ごめんね。本当に、本当に。ごめんね」
今日は色んな人の謝罪を見た日だったけど、今見るこれが一番沈痛だった。トーロスさんの心根が綺麗な分、彼女の謝罪の裏にある、真摯な感情が目に見えすぎる。嘘偽りなく心の底から、謝罪しているのだ。行きすぎた礼の尽し方は、わたしにとっては最早、拷問だ。自分のせいで誰かが苦しむのは嫌だ。
トーロスさんの謝罪から逃げるように、周りに視線を移せば、アスハさんも頭を下げているのが分かった。
ミーちゃんは我関せずといった風で、ラックルさんにいたっては、頭を下げる上司の髪を泡立てていたが。
この異様な光景を前にして、まず最初に思ったのは、アスハさんの対応である。一番頭を下げなさそうな性格に見える彼女が、頭を下げているのには驚きがあった。
だが少し考えた後に、その疑念は自分の中で消化させた。こういう風に反応に差が出るのは、責任の重さからなんだろうと思ったからだ。
彼女達二人ー主にアスハさんーはふざけているように見えてとても大人……。いわゆるできた人間なのだ。責任ある立場につくのだから、人間性というものは必要になってくる。道徳というものを二人は理解しているのだ。だからこそ自分の恥や外聞も、捨てる必要がある時には捨てられる。
ただわたしとしてはもう十分償ってもらったと思っている。それにもうそれは終わった話だ。
だから彼女達に頭を上げてもらえるようにお願いする。
「いえいえ! もうそれは午後にも話したじゃないですか! 終わったことだって! だからもう大丈夫ですよ! ですからどうか謝らないで!」
そう言ってもトーロスさんは頭を上げないで、ひたすらに謝罪の言葉を述べる。
「いや、それでも謝らせて。まさかそこまで酷い状況だったとは、本当にごめんなさい。貴方が一市民だと分かった今となっては、自分達が情けない。本来ならそんな状況……むしろ保護するべき対象だったというのに!」
本当に見上げるほどに立派な人だ。顔を上げた後だって両目を閉じて正座をして粛々とした態度だ。十二歳の少女に対して。こんな反応をする彼女達は本当にできた人なんだと思う。ここまでされればわたしでなくても、彼女達の姿勢に心打たれることだろう。
ーーそう。ここが風呂場で彼女達が全裸でなければ。
トーロスさんの身体には、泡で書かれた文字の残骸がある。それに正座をする彼女の後ろでは、ラックルさんが先程の指示通り、未だに髪を泡だてている。
しゃこしゃこと鳴るその音以外には、何の環境音もない。過剰な謝罪に罪悪感を覚えればいいのか、ふざけてるんちゃう? という怒りの感情を抱けばいいのか。一周回って、今という時間は、わたしにとって恐怖だった。
第34話 終了
残り二人の思考回路。
ラ「私だって謝罪のタイミングくらいは分かっている。ただそれよりもアスハ副剣士長の命令を優先したかった。それと、トーロスとかいうアスハ副剣士長から、気にかけてもらえているクソビッ◯に、文字通り一泡吹かせたかった」
ミ「だってお昼の時に終わったことだって言ってたよ〜」
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