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銀の歌
第56話
高い崖の上に一人の男が立っていた。彼は巨大な剣を携えて、自分の役目が来るのを、今か今かと待ちわびていた。
彼は戦うことが嫌いじゃなかった。だから相手がどんなに強大だろうと、臆することなく挑める。だが強大な敵に実際相対した時、心の拠り所とするのはそれじゃない。
彼は誰かの役に立てることを願っていた。それもなんの見返りも求めないで。ただ少しだけ欲しいのは、感謝されること、少しでも必要とされること。それさえあれば、彼は何だってすることができるし、何にだって立ち向かえる。
今回の依頼も、請われたから、彼は請け負ったのだ。
利己的なほどの他者救済を、信条として掲げる彼は、だからこそ今、苦しんでいた。
作戦のためとはいえ、自分のために囮役を引き受けてくれた人達のことを偲んで。
囮役の人達は、後数十分もしないうちに、崖下までやってくるとのこと。だからどんなに心苦しくとも、自分の持ち場は離れられない。ただ信じて待つしかないのだ。
✳︎
「ふっ! くっそ!」
わたし達はまだ逃げ続けていた。迫り来るヴァギスの攻撃を、すんでのところでかわしながら走り続ける。
しかしヴァギスも、アルトさんの動きにだんだん慣れてきたのか、攻撃が身体を掠めることが多くなってきた。
アルトさんはもう限界だ。
もういいですよ。そう言おうとしたが、彼に遮られた。
「大丈夫。多分後少しだ」
後少し? とはなんだろうか?
汗まみれで疲れているだろうに、アルトさんの瞳には、それでも輝きがあった。何かを確信しているみたいだ。
その確信が何か考えていたら、近くの茂みから、大きな物体が飛び出してきた。
「皆さん!!」
そう声かけて来る獣は、四足で地を駆けており、透明度の高い服を着ていた。誰あろう、テテネちゃんだった。
「テテネちゃん!」
今までどこに行ってたんです!?
心配から言おうとするも、やはりアルトさんに遮られてしまう。
「ようやく来たか。それで? どこまでこいつを誘導してやりゃいいんだ?」
ーーアルトさんが待っていたのはこの子だったのか。
話運びから、それはなんとなく理解した。だがいまいち事の真相がつかめない。アルトさんとテテネちゃんは、何やら通じ合っているようだが、通じ合えない子もいるんです。
「どういうことです?」
並走するテテネちゃんに問いかける。でも彼女はどこか言いにくそうに、目線を泳がしていた。するとアルトさんが、不快感を露わにして、代わりに言った。
「俺たちはな。囮だったんだよ」
「囮?」
えっ? なんの?
ポカーンとわたしが間抜けに口を開けると、テテネちゃんは、申し訳なさそうに笑った。
「ごめんなさい。実を言うと環境が荒れた原因ーーあの怪物があそこにいることは掴めていたんです。
それに前々から対策も考えていて……。ただ足りなかったのは危険な囮役。大人達がみんな出払ってる状況。子ども達にやらせることは出来なかったんです。それで……」
「だから……わたし達を囮にした?」
訊くと、テテネちゃんは答えずに沈黙した。何も言ってくれなかったが、その態度が、わたしの質問に対する明確な解答だった。ーーだからわたしは。
「それなら良かった」
朗らかに笑って言った。
「そういう訳で隠れてたんですね。テテネちゃんや獣人さん達が、危険な役をやらなくて良かったです」
こんな危険な役目、本当に自分達で良かった。心の底から安堵していた。……いや、まぁわたしは、現在進行形でアルトさんにおんぶに抱っこですが。それでもわたしが、その一人でよかった。
そんなことを考えていたら、テテネちゃんに驚いた顔を、いつのまにか向けられていた。
アルトさんはつまらなさそうに、前方を見ていた。まるで関心が無くなったとでも言いたげに。
「えっ……その、怒らないん……ですか?」
「へ、何が?」
「いや、え、え。そうですか」
疑問に対してこちらも疑問で返す。何か怒る点があったのだろうか? わたし達のやりとりを静観していたアルトさんが、我慢できなかったらしい、口を開いた。
「テテネ。こいつはこういう奴だ。俺は騙された方が悪いと思ってるから、お前のことを責めはしない。でもな、俺達をいいように利用しやがったお前らと、策を見抜けなかった自分に、明確に腹が立ってる。
けど、こいつは【こういう奴】なんだよ」
【こういう奴】を強調して、二回も言うアルトさん。なんか酷くない?
でもそう考えているのはわたしだけみたいで。最初こそ言葉の咀嚼に時間がかかっているのか、不安そうにわたし達を見ていたテテネちゃんだったが。やがて「そうなんですか」と、困惑したように言って視線を下に落とした。
しばしの沈黙が訪れた後、アルトさんが言った。
「それで、俺たちはどこまで走りゃいいんだ? 誘導先はどこだ」
その言葉にハッとしたテテネちゃんは、自分の役目を思い出したようだった。
「このまま直進して下さい! その先には崖下(がいか)があって、行き止まりですが。そこにワタシ達の切り札があります。怪物を付かず離れず、距離を保ったまま誘導を!」
「承った……」
それだけ言うとアルトさんは、フゥゥと息を吐いた。脱力しているのか? 一瞬そうかと思ったが、どうやら逆らしい。
脚はもちろん、わたしの身体を支える腕にも、どんどん力が漲っている。そんでもって、あんまりにも力を入れるもんだから、身体は軽くエビ折状態だ。胸元にある、花が入ったビンが押し当たって、少し痛い。
ヴァギスの触腕が、わたし達を捕まえんと伸びてくる。それをアルトさんは、今までよりも格段に素早く、余裕を持って避けた。
それだけでは終わらず、ヴァギスの方を振り返ると、アルトさんはフッと鼻で笑った。それがあの子にどう映ったのかは分からないが、触腕による攻撃は、さらに苛烈を極めた。
ビュッビュッビュッと幾度も多方面から、鋭い爪を生やした凶悪な手が迫ってくる。だがアルトさんは、それを軽いステップで躱した。
この逃走劇において、類を見ない軽やかな動き。なぜ? と視線を送ると、「いつだって余力は、最後まで残しておくもんだ」多少鼻につく言い方だったが、頼もしいことこの上なかった。
そんな獲物の態度に業を煮やしたのか、辺り一帯にこだまする咆哮をあげた。
先ほどよりも血走った目で、ヴァギスは乱雑に攻撃を繰り出してきた。しかしかすることもなく、アルトさんは攻撃を躱し続ける。
「命中精度度外視の……攻撃が通用すると思うなよ。舐めるなぁ!!」
アルトさんは付かず離れずの距離を保ったまま、ヴァギスのことをこれ以上ないくらい、完璧に誘導する。そしてテテネちゃんの言っていた崖下が、ようやくわたし達の視界に入った。
「アルトさん!!」
「ああ……。あれだろうな」
アルトさんは触腕による攻撃を、ギリギリまでひきつけてから避けると、余裕を持って森を抜けた。
そしてすぐさま崖下ー絶壁ーまで、全力で駆ける。
「テテネ、それで次は!!」
アルトさんが大声で、テテネちゃんの名前を呼ぶ。すると彼女は申し訳なさそうに、にへと口元を吊り上げた。
「それではそこで、しばらくの間引きつけ続けて下さい」
「あ?」
完全にヤンキーのそれで、テテネちゃんを威圧する。しかしそれを意に介さない彼女は、そそくさと距離を取って立ち去ってしまう。
「やるしかないのかぁぁぁ〜」
今日一番のくたびれ具合。ゴールが見えたと思ったら、お預け。その感覚は、わたしも覚えがあるからよく分かる。
この世界のことを、アルトさんに教えてもらっていた時、彼によく言われたのだ。『後十分やったら休んでいいよ』って。でも結局その後、『調子良さそうだから、後一時間やろっか』なんてよく言われたもんだ。
思い出したら腹立ってきたな。
「セア、お前は降りて、俺から離れとけ。後関係ないこと考えんな」
なんでわたしの考えが読めるんですかねぇ。
アルトさんから降りると、指示通り少し離れた。わたしが十分に離れたのを確認すると、彼は凛として仁王立ちした。
「クリエイト」
言って大きな弓矢を作り出すと、絶壁を背にギリギリと弓を引きしぼり始める。そこへ、森を抜けたヴァギスが、辺りの地形を壊しながらやってきた。血走った目が恐ろしい。
それを。
「ふん!!!!」
剛弓を放つ。空気抵抗によってブレながらも、矢はヴァギスの眼球へと突き進む。
その殺気を感じ取ったヴァギスは、瞼を閉じ硬い表皮で迎え撃とうとする。しかしそれは一切の矛盾なく、瞼ごとヴァギスの眼球へ突き刺さる。
「AAAAAkrrrrkrrアアァァアア」
けたたましい叫び声をあげたヴァギスは、残った目を見開いてアルトさんを見る。
「ほれ。挑発はできたろ?」
弓を地面に放り投げると、暗い笑みを浮かべ、ヴァギスをあざ笑う。流石に我慢しきれなかったみたいで、アルトさんの下まで、素早く蛇行して一気に近づくと、口を大きく広げた。
バカでかいその口からは、逃げることなんて不可能だと告げられているようだった。後ろは絶壁。前は巨大な毒牙。逃げ場が無いと思われたが、アルトさんは姿勢を低く保つと、素早く前に進んだ。
呪文の言葉を口にして、手を上方へ開きヴァギスの顎めがけて放つ。
「其れ、大盾を構える薄氷の騎士」
アルトさんの腕を中心として巨大な物体が出現する。透明で、淡い青さを保ったそれは、冷気を放っている。どうやら氷のようだ。
遠く離れたこの場所まで届く冷気。そんなものを直に食らっているヴァギスは、いかに硬い甲殻に覆われていようとも、ちょっとは効くようだ。
あまりの冷たさからか、膠着状態が続くのを嫌って、ヴァギスは引き下がる。代わりに触腕を二つ伸ばし、左右からアルトさんに襲いかかる。
「紋章魔法陣解放」
タンと足をふみ鳴らし、足下に青白く光る文様を作り出す。そこからは雪の結晶が巻き上がり、アルトさんの身体を覆った。魔法陣がしっかり起動したのを確認すると、彼は素早く引き下がり、右手で内受け左手で下方向に受けると、それぞれの手に、霜がのった氷の盾を作り出す。
瞬時に創り出された雪氷の盾は、ヴァギスの触腕を油断なく受け止める。ヴァギスの攻撃により、数カ所砕けるものの、即座に新しい氷が生まれ、アルトさんの身体に攻撃が届くことはない。
ヴァギスは不快感を示すも、二本の触腕を下がらせた。代わりに、力を込めた一本の触腕を、矢のように弾き飛ばした。
アルトさんは腕を交差させると重なりあった部分、ー十字ーで防ぐ。雪氷は今までで一番分厚く、また硬そうに見えた。
これも先ほどと同じか、それ以上に氷はバカバカと砕けていくが、それでも突破はさせない。ヴァギスはこれでも届かないのかと腕を引っ込めると、忌々しげに吐息を吐き出した。
アルトさんは相手が様子見に入ったのを視認すると、呪文の言葉をさらに続けた。
「其れ、冬の景色を再現する者」
空中に青色の文字を書き出す。
““““““““““““““““““““““““““““““““““““““““““““““““““
白亜の盾は慈愛の証。精神さえも守りきる
””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””
目の前で呟き続けるアルトさんに腹が立ったのか、ヴァギスは硬い甲殻に覆われた頭部を前面にすると、地面を這うようにして、アルトさん目掛け突進してきた。ようするに頭突きだ。一見間抜けっぽく見えるが、万が一直撃でもしようものなら、頭突きなんて可愛い言葉じゃ済まされない。当たった箇所から骨が砕け、肉はすり潰されるだろう。
「其れ、王と共に生き、生涯をかけ仕え、守り続けた者」
アルトさんに接触するまで、もう数秒もない。それでも彼は堂々と、背を見せることなく高らかに謳う。
「氷盾の騎士ナスリムス……!」
手首と手首をつけ掌を相手に向ける。そして創り出すのは巨大で強固なる氷塊。
突然の氷の出現にもヴァギスは怯むことなく、逆に加速する。巨大な氷塊と、硬い甲殻がぶつかり合い、辺りが揺れて衝撃波が起こった。
当たりの勢いはどうにか防げたものの、アルトさんはジリジリと押され、地面を足でこすりながら、後ろへ後退していく。
「ぐっ……!」
腕に関しても、いつのまにか一方に負担をかけるような形に変わっており、見るからに苦しそうであった。
アルトさんは唇を噛んで堪えるが、我慢の限界なのか叫んだ。
「クッソ! もう持たないぞ!! まだなのか!?」
するとテテネちゃんがひょっこり姿を現し、きゃんきゃんと吠える。
「遅くなりました!!」
「テテネちゃん!」
次にわたし達が、何をすればいいのか目で訊いた。
「……はい! 呼んでいただけますか。彼の名前を」
「彼の名前?」
目をパチクリさせると、崖上から響く声が聞こえてきた。
「助けがいるなら呼べ。ただ当方の名前を!」
この声は……。
そうだ。わたしは聞いたことがある。そして言われたはずだ。何か困ったことがあったら呼べばいいと。すなわち。
「『助けて……ヒーローーーーー!!!!!!!!』」
力一杯に叫ぶ。どこまでも届かせる、そんな気迫の元に作り出された声。
「ああ!!」
それは問題なく届いたようで、力強い返事が真上から返ってくる。
未だ耐え続けるアルトさんを助けるために、その人物は、高さ何十メートルもある崖を飛び降りると、ヴァギスのうなじめがけて一直線に、流星のごとく空をかけた。
そして彼は、落下の勢いを利用して、大剣による一撃を繰り出した。
そこで見たのは衝撃の景色。
あれだけ怖い怖いと感じていたヴァギスだが、何ということだろう。一刀の元に首を断ち斬られていた。辺りに血の飛沫が飛ぶ。
あまりにも速い、一瞬の出来事に驚き戸惑う。するとヴァギスの首を斬り飛ばしたその人は、わたしを見ると獣の外套を脱いだ。そして彼は、真っ白い歯を見せてニカッと笑った。
「大丈夫か、怖かったな。だがもう安心だ。当方が来た!」
そう言う彼の顔には、ほうれい線がいくつも入っていて、しみなんかもあった。それから、どこか老いた印象を与える細い体つき。極め付けは色素がなくなった真っ白い髭や、髪だった。
「ヒーローって……まぁ、何歳からでもなれますからね」
どうみても妙齢のその男。まぁ自分のことをヒーローなんて自称する時点で、だいぶやばいのは間違いなかったんだけど。……そうかじじいか。
期待……返してもらってもいいですか?
第56話 終了
✳︎
ロケーション。夜。どこかの森。
とっとっとっ。小さな子どもが、月夜に照らされ素足で走っている。何キロも走ったのだろう、足の皮がめくれて血が流れている。
息も絶え絶えに、大変辛そうな様子である。しかしそれでも子どもは走り続ける。そんな子どもの背後から、大人の怒声が響く。
「おい! いたぞ!! あれだ。殺せ殺せ!!」
「俺が裏に回る。挟み撃ちにしろ!」
「鍬や鎌じゃ殺し辛い。ちゃんと焼き殺すための火は持ってきたんだろうな?」
大人の声は一つではない。それに聞くのも耐え難い、恐ろしい言葉の数々。子どもはその声に怯えながらも、懸命に走る。
「うっうっ」
あまりの恐怖に泣きじゃくる。けれど大人達には慈悲はない。
まだ幼い子どもの走る速度など、たかが知れている。屈強な大人との間には、絶望的な開きがある。だからどんどん距離を詰められてしまう。
それでも子どもは精一杯、力の限り走るのだが、ここで何かにごつんと当たった。
子どもは後方から迫る大人達を、時折チラチラと見ていたので、前方への警戒が薄れてしまっていたのだ。
背の低い子どもは、何に当たったのかを知るために見上げる。ーーそして気づいた。明かりのない瞳で、自分を見つめる大人の姿を。
いつのまにか回り込まれてしまっていたのだ。子どもはガタガタと震えながら腰を抜かし、ドスンとその場にお尻から落ちる。
月夜に照らされ映る大人の顔を見て、子どもは泣き喚いて言う。
「ーーどうして? どうしてなのママ?」
肉切り包丁を持った人物ーママーに問いかける。その子どものママは、実の子どもを、小汚い物を見るような目つきで睨むと、足を踏みならした。
「ひぅ!」
子どもはそれに怯え涙を流す。
そんなやりとりを繰り広げている間に、後ろから迫ってきていた大人達も、次々と子どもを囲むように参上する。
不安そうな顔で大人達一人一人の顔を見る。
大人達の顔ぶれは、子どもにとっては、それぞれ見知った顔だった。
だがそれは当たり前のことだ。子どもはつい先日まで、彼らと共に何不自由なく、共同生活を送っていたのだから。
彼らは子どもと同じ村の人達なのだ。生まれた時から知っている。
そんな彼らに追われて、凶器を見せつけられて、子どもは再び泣きじゃくる。
「どうして? どうして? おじちゃん。おばちゃん。パパ。どうして?」
縋るように一人一人の顔を見る。子どもはどうしてこうなったのかを、理解はしていても、納得はできていなかったからだ。だから何度も、許しの言葉を述べてしまう。
「悪いことしたなら謝るよ。寝る間もおしんで働けって言うならそうするよ。ママもパパも村のみんなも、困らせないようにするから、だから、だから」
えぐっえぐっと嗚咽を漏らすも、大人達の憤怒の色は消えない。そして包丁を持った子どものママが、一歩子どもに近づくと言う。
「お前はね。もうまともな生命じゃないの。この世に災厄をもたらすものになったの。私達のヘテルはもう死んだの。むしろ私達のヘテルを返して欲しい。
あの子はとっても良い子で、真面目で優しくて、私達を気遣って笑う子だった。あの子と同じ顔と声で、それ以上生きるな。お前の帰る場所はない」
どうしようもない拒絶の言葉。それは子どもの心をへし折るのに十分なものだった。子どもはもう泣くことすらなく、ただ黙ってみんなの凶器を眺めていた。
彼らは最後に口を揃えて言った。
「【異業種】は悪だ」
子どもを睨みつけてみんなが言う。より詳しく言えば、子どもの左腕だったものを指して言う。
子どもの左腕は、黒く禍々しく歪んで変色しており、さらにどろりと溶けた粘性を持ち、悪臭さえも放っていた。
そんな異物を見て、大人達は侮蔑するのと一緒に恐怖もしていた。
「ああ。恐ろしや。この世に災いを届ける悪魔の身体。もうヘテルは帰ってこない。奪われた。この邪悪な化け物に奪われた」
誰もが子どもに言った。お前は悪だと。だから子どもも、もうすっかり観念して、生きる気力をなくしてしまった。
子どもは唐突に、この悪意にまみれた腕を手に入れてしまった。子どもが望んだことじゃない。子どもが何か悪さをして、呪われたわけでもない。
子どもがこんな身体になったのは、ただの偶然だった。だから子どもは、今の状況に全然納得できていない。
しかしみんなに殺される理屈は理解できていたし、実の所を言うと、どこかで自分が殺されるのを受け入れていた。
なぜなら、子どもが逆の立場でも同じことをするからだ。この世界に生きるものは、みなそういう風に教育されてきた。
【異業種は悪と】
それが運悪く自分だっただけで、みんなが自分を殺す理由を、否定することができなかった。
子どもは自分自身でも、自分のことを嫌っていた。この身体になってしまったことを、心の底から拒絶していた。言うなれば自分自身が一番の敵だった。
そんな風に、内にも外にも敵を抱えてしまったものだから、もうどうしようもなかった。
だから子どもは、自分の母親が自分に向けて振り下ろす包丁を、黙って眺めることしかできなかった。
そして子どもは…………。
「ダメだよ。その子には利用価値がある」
不意にそんな声が聞こえた。そして気づけば、一人の見知らぬ男が立っていて、代わりに先程まで立っていた、辺りの大人達は、ドサリと地面に倒れ伏し、寝息を立て始めた。
「やぁ。ヘテル。僕は君を助けに来た人だよ」
奇怪な器具を顔につけたその人物は、怪しく不敵な笑みを浮かべると、子どもの手をとった。
「突然だけど……これから君にはある所に行ってもらう。そしてそこで多くのことを経験して欲しいんだ」
優しい語り口調と、依然として広がる非日常さが、なんとも不釣り合いで、子どもは混乱して言葉を失った。
「うん。無言ってことは肯定でいいのだろう? 了承も得たことだし、君を案内するよ。ついてきて」
その人物に無理矢理連れられると、やがて視界がぼやけてきて、眼に映る全てのものが歪み出した。
そして子どもはどちゃりと、前から地面に倒れ落ち、無垢な顔を泥で汚した。そんな様子を眺めて、この事態を引き起こした張本人は不敵に笑う。
「ああ、ヘテル。可哀想な子。でも君の人生は、まだ終わりじゃない。これから彼女や彼に出会って、多くのことを学び、優しい時間を過ごすんだ」
誰に話しかけているわけでもなく、一人でクルクルと回りながら喋る彼は、なんだか狂ったピエロのようであった。
「だから大丈夫。例え最終的に行き着く先が地獄だろうとね。セアちゃんによろしく」
彼はクイと顔にかけた物を手で押し上げると、子どもを一瞬にして消し去った。
「いつも悪いね。大君主」
彼は虚空に向けて言うと、ふっと静かに微笑んだ。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!