銀の歌
第55話
目の前にいるそれはとても巨大で、首を持ち上げた状態だったら全高8mはあると思う。長い胴体を持っているから、全長なんて測ることすらできない。
目の前の生物に呆気をとられて動けない。しかしアルトさんの声が、わたしを現実に引き戻した。声をかけてきた。
「ぼけっとするな! 走れるな……?」
「え、あっ。ええ、はい! なんとか」
アルトさんは「上々」と言って、目つきを鋭くさせた。
「合図をしたら一、二の、三で逃げるぞ。いいな?」
「……はい」
コクンと緊張から溢れ出た生唾を飲み込む。アルトさんは懐からガラス瓶を取り出した。
「さぁ、一、二の」
ヴァギスとの間合いを測りながら言う。舌をヒュルヒュルと出す怪物を目の前に、アルトさんは少しも怯えた様子を見せない。その姿に心強さを覚える。
「三だ!!!」
アルトさんは瓶を地面に投げつけると、「指向性は炎」と叫んだ。そしてすぐさま、ヴァギスに背を向けて走り出した。わたしもそれに続くように、彼の後を追う。
後ろを振り返って見てみれば、ガラス瓶は砕けていて。その中に入っていた液体が、鮮やかな炎を創り出していた。
ヴァギスはそれに驚いて警戒し、わたし達を追おうとしていた足ー身体ーを止めていた。
「す、すごい。これなら」
嬉しくなって言うけれど、アルトさんは渋そうな顔をするばかりだった。
「いや、無理に決まってるだろ」
アルトさんが言ったのも束の間、ヴァギスは口を大きく広げると、燃え盛る火を、大地ごとえぐり取って飲み込んだ。
『ほらな』そんな面持ちのアルトさんは、だからもっと速く走れ、そんなことを言っていた。
✳︎
全速力で逃げ出すわたし達。しかしその距離は一秒ごとに縮まっていく。
アルトさんは「小回りを利用して逃げろ」と、木々の間の細い通路を好んで駆け出す。それに習ってアルトさんの後を、慌てて追いかける。
そういう風に工夫をこらして走り回るも、ヴァギスとの差は縮まっていく。あれはその巨体を蛇行させて、狭いも広いも関係なく、辺りを破壊しながら進むのだ。
少しづつ差が詰まっていく。
「やべえよ! やべえよ! アルトさん!」
言うとアルトさんは、んなこたぁ分かってんだよと、苛立たしくわたしのことを見た。しかし何をするべきなのか、アルトさん自身も手をこまねいているようだった。だからわたしから、解決策を提案することにした。
「アルトさん! わたしに三つ考えがありますよ!」
「なんだ、言ってみろ?」
「一つ目は戦う。二つ目は飛ぶ。三つ目は、来世は穏やかな人生を送れるよう祈る。です!」
「諦めてんじゃねぇよ! 命があるなら最後の瞬間まで抗ってみせろよ!」
食い気味に突っ込まれる。こんな状況で何をふざけてるんだと怒られた。たしかに若干ふざけているが、ならばどうすると言うのか。
「じゃあアルトさんだったらどうします?」
「えっ、だからぁ、それはまぁ」
なんと器用なことか、走りながら手を組んで考えだすアルトさん。そして顔を手で覆った後に言った。
「……祈るか」
「ほらぁ〜〜〜〜!!」
鬼の首を取ったと、彼を指差して笑う。
「うるっせんだよー!」
全力疾走しながらも、罵り合う姿はなんとも滑稽だ。しかしわたし達の醜い小競り合いは終わらない。
「一様あいつにも弱点はあるっちゃあるんだが……」
「そんなんあるなら、はよ、言ってくださいよ!」
ゼェハァと息を荒くして言う。
「あいつのさぁ。うなじなんだよね。あそこの鱗だけ、やたらと薄かったはずなんだ」
自信なさげに言う。アルトさんにしては珍しい。一瞬そう思ったが。先程、五百年前に滅びただのなんだの言っていたから、情報が少ないのかもしれない。
だがまぁそれはそれとして、突っ込まなければいけない箇所があったので言うんだ。
「それなんて巨人です?」
「兵長。まじ助けて下さい」
そうこう言って走っていたら、何者かの興奮した息遣いを後ろから感じた。恐る恐る振り返ってみると、舌をぴちゃぴちゃと、わたしの背中に押し当てるペロリストがいた。近くに来てる、どころじゃなくて、もう当たってる。絶体絶命のピンチ。
しかしやっぱり他に言うことがある。
「ぎゃーーーー!!!! へんたーい!」
「そっち!?」
アルトさんが言う。でもそれには反応せず、自分のどこにそんな力があるのか、さらに加速して走った。けれども逃げ切れる気がしない。あの子早すぎだ。
「チッ。しゃあねぇなぁ。身体を丸めて跳べ!」
アルトさんは叫んだ。
こんな時に何言ってんだこいつ……。という訝しげな視線を向けつつも、「えい!」と愛らしく言って、言われた通りにした。
こういう風に追い詰められた状況の時、アルトさんが間違った判断をすることは、何だかんだ少ない。だから言われた通り飛んだのだが……。
目を瞑ってしまったため、辺りを見渡せないが、わたしが跳んだ瞬間、背と太もも辺りを、誰かに支えてもらった感覚があった。
その部分からは別の人の体温を感じるーーつまりは。
「お姫様抱っこだーーー!!」
「うるせえええええ!!!」
わたしを抱えて、全力で地を駆けるアルトさん。ちょっと調節して、しっかり抱きかかえると、「クリエイト。脚部改造・強化」なんて呟いた。
そうすると、先ほど二人で並んで走っていた時よりも、よっぽど速くて……。
だから、そういうのあるなら早くやれよ!
内心突っ込みつつ、アルトさんの必死そうな顔を悠々眺める。
「欲を言えばもうちょっとイケメンが良かったです」
「やかましいわ!」
✳︎
ガラガラガラガラ。地面が土塊(つちくれ)ごと崩れていく。アルトさんは木々を飛び移ったり、急転換しながら、逃走劇に以前変わらず望んでいる。
風をきってヴァギスの細長い腕が迫ってくる。
「よっと」
急転換してそれを躱す。しかしヴァギスの腕は、多動触腕(たどうしょくわん)といって、関節の数が通常の生物に比べて、非常に多いそうなのだ。だからその腕は、わたし達を追尾してさらに迫ってくる。しかしアルトさんは、その場にかがみ、難なく避けてみせた。
その後、太く長い胴体で囲まれないように、すぐさま駆け出す。そのかいあって囲まれはしなかったが、ヴァギスの腕をいなすのに使った時間が多く、かなり差を縮められてしまった。口を大きく開けたヴァギスが、わたし達を捕食せんと向かって来ている。
アルトさんは近くに倒れていた大木の側に駆け寄ると、あろうことかその木を、思いっきり蹴ったのだ。
「クリエイト。脚部瞬間強化!」
アルトさんの脚部は、ぶちぶちと嫌な音を立てた。激痛を味わい、苦悶の表情を浮かべながらも。なんということだろうか……彼は大木を蹴り飛ばすことに成功した。
そしてそれは、口を大きく開けているヴァギスの方へ、一直線に飛んでいき、その大口に大木がちょうど挟まった。
「や、やりましたね! アルトさん!」
アルトさんの腕の中で歓声をあげるも、やはり彼は苦しげな顔をするばかりだ。
「あんなもんじゃ、あいつは倒せん」
アルトさんの言葉通り、ヴァギスの口に挟まった大木はしばらくすると赤らみ始めた。やがて、ボゥと発火した。そこを中心としてヒビが入り、大木は容易く噛み砕かれてしまった。
「げえぇ! アレなんです?」
「発火毒(はっかどく)だ」
「発火毒!?」
立て続けに問いかけると、息も絶え絶えだというのに、答えてくれた。
「アルゴザリードの近縁種は、みな、歯に何かしらの毒を持っているぞ」
「アレ、アルゴザリード何ですか!?」
「……ッ! いくぞ!」
後ろから伸びてくる触腕をかわしながら、アルトさんは再び森の中を駆け出した。
「分類的にはそうだ。発火毒……。厄介だが、エモヤガナの腐敗毒に比べればまだマシだ」
この世界ほんとやべえな。そんなことを考える余裕が、わたしにはあるが、アルトさんにはない。
アルトさんには、立ち止まって考えることが許されない。彼は走る、走る、走る。ただひたすらに。
「はぁっ。はぁっ」
わたしを抱えているのもあるのだろう。呼吸が乱れ始めてきた。対してヴァギスは苛立ってはいるものの、いささかの衰えも見せていない。
強いてあちらの損傷を上げるなら、木々の間を乱暴に通り抜けたり、身体の強靭さに身を任せ、大きな岩に激突して砕いた時、甲殻を傷つけたくらいだろうか。
木屑や砂けむりに混じってポロポロと破片がまっている。
けれどそんなもの……。
アルトさんの状態をもう一度確認してみる。
「っく……はぁ!!」
だんだんと目が据わってきている。そうとう【きている】のだろう。しかしそれでも走れるのは、ひとえにアルトさんの意志の強さゆえにだろう。
「ア、アルトさん」
そんな彼を見かねて声をかける。余裕のある時だったら『な〜に、心配そうな顔してんだ。十年はええよ』とでも言ってきそうなものだが、今は返事すら帰ってこない。
「隠れたりするのはどうでしょうか? できませんか?」
できたらやってるとでも言いたげに、こちらを睨む。そしてアルトさんが、わたしの方に余所見をした瞬間だった。
アルトさんはしまったと顔を硬らせた。曲がり箇所を逃したらしい。全力で駆けているため、すぐに方向転換することも難しくて……。
このまま直進したら、そそり立った崖にぶつかってしまう。
「くぅそぉがぁぁ!」
アルトさんがやぶれかぶれに咆哮する。もうどうしようもないのか? アルトさんの首元にぎゅっとしがみつき、目を瞑る。そして聞こえてきたのは、呪詛のような言葉。
「あの壁……登るしかないのか? いや、無理だろ。
無理だが……やるしか………………。いける……いける。いけるいける。いけるいけるいけるいける。いけるいけるいけるいけるいけるいけるいけるいけるいけるいけるいけるいけるいけるいけるいけるいけるいけるいける。俺ならいける」
「自己暗示怖ぇよー!!!」
アルトさんの腕の中で控えめに叫ぶ。けれどその声は、集中しきった彼には届かない。
今のアルトさんには、あの大きな壁しか見えていない。
「さぁ。行くぞ! つかまってろよ! セア!!!」
アルトさんは地面に小さなクレーターを作って、力強く飛ぶ。魔法で強化されているのもあるのだろうが、その脚力には眼を見張るものがあった。一息に何メートルも跳んで見せたのだ。
そのままそそり立つ崖に、足を思いっきり押し当てると、その辺りの岩壁を崩して、さらにもう一度反対方向に跳んだ。つまりは壁キックだ。
跳んだ先には、大きな大木が立っていた。衝撃で軋む大木を、それでも足場とすると、アルトさんはそこでもまた、力強く跳んだ。
「アアア! ガアアァァアア!」
獣のような叫び声をあげて、崖まで戻って来ると、岩壁の少しのくぼみに足をかけ、そこを崩壊させながら、そのまま真上に、垂直に跳んだ。
常識はずれのジャンプを三度したところで、ようやくそそり立つ崖を超えたーーというか超え過ぎた。わたし達は崖上の地面の、遥か上空に舞っている。
えっ、この高さ死ぬんちゃうん?
呑気な言葉に聞こえるかもしれないが、非現実過ぎる光景を前にして、頭がパニックっているのだ。脳内の処理速度が追いつかない。
あわあわしていると、声が聞こえてきた。
「すまんな」
ーー?
なにが『すまんな』なのだろう。疑問を感じていると、先程まであった、ぬくもりは消えていた。わたしの身体は今、全身で世界を感じている。つまり。
「放り投げないで! アルトさん!」
悲痛な声は届かない。アルトさんの虚ろな目には、もう何も映っていないのだから。
もうだめか……。一瞬諦めたが、空中に漂うアルトさんの奇行を前にして、そんな考えは吹き飛んだ。
アルトさんは上半身に意識を向けると、身体を傾けた。やがてそれは回転となり、車輪のごとき回り方で、落下していく。
するとどんな原理か。アルトさんの落下していく速度は、わたしよりもずっと早くなり、あっという間に地面へと着いてしまった。
あんな速度とこんな高度から落ちたら、ひとたまりもないだろうに。何故かアルトさんは無事だった。もちろん、地面に落ちた衝撃で、身体を痛めたらしいし、額からは血も流しているが、それでも立ち上がった。
どうやら身体を丸めることで、衝撃を幾分か殺したらしい。正直それだけで助かるほど、この高度は甘くないと思うのだが。
まぁ何にせよ。落下していくわたしを、アルトさんは再びキャッチしてくれた。
「ギャフン!」
情けない悲鳴をあげながら、アルトさんの腕の中へと飛び込む。衝撃で彼を押し倒し、横たわる彼の胸板に頬を押し付けてしまった。急いで半身を起こして謝った。
「ああわ。ごめんなさい。アルトさん」
馬乗りの状態で、勢いよく頭を下げて謝ったので、ちょうど起き上がろうとしていた、アルトさんのおでこに、ぶつかった。
「ごほっ」
アルトさんはべちゃりと仰向けに倒れこみ動かなくなった。
「ア、アルトさーん!」
数秒後、アルトさんの指先がピクリと動き、樹洞(じゅどう)を指し示した。小さく声を漏らす。
「あそこへ。俺を運んでくれ……」
コフっコフっと吐血するアルトさんは、弱々しく見えた。
アルトさんの指示に従い担ごうとする。ただその前に、崖の下にいるヴァギスを一度見た。
ペロリストーヴァギスーはなんだかオタオタとした様子だ。この崖を登ったのは一瞬のことだったので、あちらからしたら、急に消えたように見えたのであろう。
それを視認したわたしは、アルトさんの脇から腕を通してズルズルと運ぼうとする。しかし!
「ん!」
筋力が足りない!
額から流れ出た血で、前が見えなくなっているであろうアルトさんは、それでも事態を理解したらしい。「そうか」と言って、魔法の言葉を呟いた。
「クリエイト。肉体改造」
アルトさんの身体から何かがひしゃげる音や、ブチィと管が破裂するような音が数度響くと、彼の身体を支える、腕の負担が減ったような気がした。
アルトさんの身体が軽くなった?
不思議ですという視線を向けるも、アルトさんはヒューヒューと、口から息を吐き出すだけで答えてはくれない。
だから取り敢えずそのことは置いておいて、持てる力の限りを尽くし、アルトさんを樹洞へと運んだ。
アルトさんを樹洞へと運び込み介抱したーできないからした気になっただけだー。
するとしばらくしたのち、アルトさんは意識を取り戻した。開口一番、「少し……休む」苦しそうに息つぎしながら言った。
やっぱり無理を……心配するが、それを顔には出さないように努める。これ以上負担を感じて欲しくない。でもアルトさんは、表情が明るくないことをすぐに看破した。
「大丈夫、心配するな。まだ俺の身体はどっかしらが破損したわけじゃない。体力が少し無くなっただけだ。休めばまた走れる」
無理してるのが分かるのに、アルトさんはそんなことを言う。『そんなことを言わないで下さい』言おうかとも思ったが、思い返してみれば、いつも彼はそうだった。何も今に限った話ではない。
傷ついて怪我をして、それでも気丈に振る舞う人だった。
それは優しさか誰にも頼ることのできない弱さか。どれかは分からないが、アルトさんはいっつも一人で背負う人だ。
アルトさんから、辛い孤独感を感じてそっと手を握った。
「アルトさん……」
できることならこの人を癒してあげて。そんな想いを込めて優しく握る。そうするとアルトさんはふっと微笑み、わたしの頭を撫でた。
「大丈夫だよ。さぁ、そろそろ。行かない……と」
言った瞬間だった。真下ではないが、極めて近い場所から地響きが聞こえてきた。バキバキバキと大地を砕いて、青緑色の光沢を放つ、あの怪物が姿を現した。
「そうか。地面を潜ってきたのか」
アルトさんは冷静に状況を分析して言うと、わたしの身体を抱いた。
「さぁ。走るとするぞ」
ゴホッと咳き込んでアルトさんは言う。しかし今の彼じゃ、わたしを抱えて走るのはもちろん、まだ走ることだってできないに違いない。
そう判断して、もっと休むべきだと訴える。
「まだわたし達は……多分! 見つかってません……だから」
言いかけた言葉を遮って、アルトさんは首を振る。
「無理だ。俺たちはもう見つかってる」
「どういうことです?」
「姿を隠したとしてもアルゴザリード種には、熱源を探知する器官が、目や鼻孔の近くに備わっている」
熱源を探知する器官? 詳しく知るために、色々と質問したいところだが、今のアルトさんに対して、そんなことはできない。
「ヴァギスが獲物を見つける時、主に使うのが、音の響きを感知する器官と、熱源を探知する器官だ。
今はあまり音を立てていないから、そっちは大丈夫だろうが。熱源探知に対しては、何も対策を施してない」
呼吸を少し乱しながら、「だから、見つかる」と呟いた。
それを聞いて諦める。
それじゃあ……そっか。仕方ない……のかな。なんて未練がましく考えて。
アルトさんの言葉に納得した訳じゃないが、何もできないわたしが駄々をこねたって仕方ない。アルトさんの腕の中に大人しく収まる。
しかし痙攣するアルトさんの手足を見ていたら、やっぱり諦めきれなくて、何か打開できる方法はないものかと、ヴァギスを見た。
そうすると気づいた。あの動作を見たことがあると。
水没都市でグルーガ・ハリフが、わたし達を見つけようとした時、同じような行動をしていた。グルーガは躍起になって辺りを見渡していたけど、今のヴァギスもまさにそんな感じだった。
その気づきをアルトさんにも教えるべく、ちょんちょんとアルトさんの肩を叩いて、ヴァギスの方を見るよう指さした。
「んっ! んっ!」
アルトさんは首を傾げながらも、ヴァギスの方を見てくれた。そして目を丸くする。
「なん……だと?」
すぐに理解してくれたみたいだ。アルトさんはわたしを下ろすと身を低くした。それに続いて自分も身をかがめる。
「なんでかは知らないが……あいつ、俺達を見つけられてないみたいだな」
その何故については、考察できる程、体力がないのだろう。アルトさんはすっと目を伏せた。
やっぱり疲れているのだ。少しでも休憩が欲しかったのだろう。楽観的すぎるかもしれないが、このままいけば見つからずに済むかもしれない。そうでなくてもしばらくの間、あの子はああやってウロウロしてるだろうから、アルトさんは休憩ができるはずだ。
アルトさんのくたびれた顔を見ながら、後は音を出さないようにと考える。
『プゥ!』
しかしそこに変な、どこか間の抜けた音がした。しかもその音は、それで終わることなく、一段と音量を大きくして、鳴り響いた。
『プウウウゥゥゥ! ポフ!!』
目を丸くする。そして頬を赤く染めて、お尻を抑えた。涙目でアルトさんの方を見れば、彼は死んだ魚の目でこちらを見つめていた。
ヴァギスがこちらへ迫り来る、這いずり音を聞きながら、わたしはお叱りの言葉を待っていた。
「あのさぁ……。なんでお前は同じ轍を踏んでしまうんだ?」
木はメキメキと嫌な音を立てて倒れていった。樹洞の中にいたわたし達を遮るものは、だからもう何もない。
真上を見上げれば、ヴァギスがよだれをダラリと垂らしていた。
第55話 終了
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