銀の歌

Goodbye to Fantasy
プチ
プチ

幕間 その剣は誰のために振るう

公開日時: 2020年10月5日(月) 18:30
文字数:7,701



銀の歌



幕間


 静かな闇の中、俺は一人で佇んでいた。


 ここは銭湯の入り口前。外面が木造で出来ているこの建物は、木の香りとほんのり漂って来る湯の匂いで、良い香りがする。どことなく心が落ち着く匂いだ。

 外にいてもこれなのだ。中に入って湯に浸かれたのなら、日々の疲れを間違いなく癒してくれるだろう。


 しかし俺はそれでも建物の中に入ろうとしない。


 一緒に来た他の仲間はもう中へと入っていった。俺は最後尾だったので、中に入ったフリをするのは簡単だった。ただ視野の広いシグリアが、そんな俺の行動に気づいて声をかけてきた。あいつには後で入ると伝えて、その場は下がってもらった。

 これは俺の独断だ。出来るなら他の誰も巻き込みたくない。


 くしくしと前髪をいじる。父親似のクセが強い髪だ。だから朝はいつも寝癖がつく。俺が髪の手入れを、朝しつこく行なっているのを仲間は知らない。


 父親似の髪は、手入れは大変だが、父に憧れている自分としては嬉しいものだ。俺が嫌っているのは自分のこの顔だ。まつげが長く伸び、丸みを帯びた輪郭は、どことなく女っぽい。昔はよく、女みたいな顔だと周りからからかわれたものだ。


 俺の顔は母親似なのだ。女であれば、この顔は喜ばしく思ったのであろう。しかし俺は男で、憧れているのは父の様なゴツゴツとした、男らしい顔だ。決してこんな小綺麗な顔じゃない。


 口には出さないが、父親似の顔付きの姉と弟が、羨ましいとよく思った。昔はこの顔はコンプレックスだった。だが今では自分の顔を受け入れている。女っぽくても、いいじゃないか。心の在り方が男らしくあれば。それに姉はこの顔を肯定してくれた。


 優しさに溢れた顔だと。


 今思えば、それだけで立ち直れてしまえた自分は、なんて単純だったんだろうか。でも自分の顔に悩んでいた子どもの頃、その言葉に救われたことだけは確かだ。


 そして、俺がこの顔を受け入れられる様になったのには、もう一人の人物の肯定があった。それは……。


ーー瞬間。向こうの通り道からパカパカと、蹄鉄が鳴らす特徴的な足音が聞こえてきた。それからよく耳を澄ませば、人の足音も聞こえてきた。

夜道に馬を連れて歩くとは、非常識だな。そう考えながら、音のする通り道の方を睨んで警戒する。


 やがて姿を現したのは、橙の髪を持った、それなりにガタイの良い男性。それから不思議な文様の描かれた、黒い布を身につけた馬であった。

 俺が臨戦態勢に入ってるのに気づいているのだろう。その男性は、馬を止め、ある一定の距離を保って立ち止まった。そして声をかけてきた。


「おい……。その闘気引っ込めてくれねぇか。うちの馬が怯えるだろ?」


 口元を吊り上げて、煽りげな口調で喋りかけてくる。


「ふぅ……。そうだな。出来れば俺も引っ込めていたいさ。でもダメだ。お前、銭湯に入るつもりか? だとしたらここを通す訳にはいかない」


 橙の髪の青年は、髪をわしゃわしゃとかいて、呆れ気味な声を出す。


「はぁ。まあお前が俺のことを嫌うのは別にいいけどよ。そこは何も、お前の所有している場所ではないだろ? みんなの銭湯だ。一市民である俺は、対価さえ支払えば利用する権利があると思うんだが」


 橙の髪の青年は、懐からジャラジャラと幾らかの硬貨を取り出してみせる。


「そういう話ではない。単純に貴様をこれ以上、俺たちの班に近づけさせたくないだけだ。入るなら後にしろ。わざわざ俺たちの後をつけて何を狙っていたんだ?」


 俺はそう言って手に持っていた赤い袋から、鞘のついた剣を取り出した。

 パサと赤い袋を地面に落とす。そしてそれを見た橙の男は目を見張って驚く。


「お前……。こんな街中で剣を抜くつもりか? とても正義と規則を守る聖騎士団の者とは思えない行動だな。

 それに言葉遣いも荒い、お前の一人称は『私』じゃなかったか? 貴族然とした態度はどうした。なあ、おい。確か名前は……」


 橙の髪の青年の髪が逆立つ。そして彼の真紅の瞳が敵意の色に染まり、禍々しく濁っていく。


「なに……。貴様がこのまま立ち去ってくれるというなら何もしないさ。言葉遣いか……ふふ。なぁ貴公? いいや、貴様の名前は」


 こちらも口元を歪めて、睨みつける様に喋る。そして俺達の言葉は交差する。


「ラーニキリス……」


「アルト!!」


 剣に左手をかけ、抜刀姿勢をとる。それを見たアルトは、面倒そうに硬貨をしまう。そしてこちらに言葉を投げかけてくる。


「なぁ。本当に分からないんだ。どうして俺はそこまで嫌われなければならない。別にもう、銭湯に入ろうなんて気持ちはないからよ。……下がるさ。だからせめて教えてくれ。何故そこまでする? ラーニキリス」


 心底分からないという表情で、訪ねてくるアルト。それはそうだろう。あれと俺はほぼ初対面。一度斬り合いをしただけの関係だ。だからあいつが、俺の行動の理由が分からなくても仕方ない。腰を低くし抜刀姿勢を保ったまま話しかける。


「ーー貴様の攻撃で、部下のドルバが負傷した。聖騎士団専属の医師に話を聞いた所、失明だそうだ。もう二度とあれの左目に光が灯ることはない」


 先ほどよりも音調を落として俺は話す。それを聞いたアルトは目を丸くして、少しの間を置いた。


「そりゃまぁ。ご愁傷様だが、俺だってさんざん傷ついた。見ろ」


 そういうとアルトは自分の服の襟に手をかけ、ぐいと下に引っ張った。そしてそれに応じて、胸元が見えてくる。

 アルトの胸元は何重にも包帯が巻かれ、その包帯は赤い何かで汚れていた。赤い物の正体が何かは考えるまでもないだろう。


「これは、お前んとこの剣士長さんと、ラーニキリス……お前にやられてできた傷だ」


 気だるげにそう言う。お互い様だと言いたいのだ。もちろんそんなことは百も承知だ。でも、何故だろう。あいつに関しては無性に腹が立つ。どうしても言い訳をしている様にしか聞こえない。

ーー上手く理性が働かない。


「それで? そんなことが言いたいから、一人ここに突っ立って、俺を待ってたってのか」


 はぁ。とため息をアルトはつく。


「随分としつけが行き届いている様で……。みみっちいと言うか、いじらしいというか……まぁ、あれだな……」


 アルトはそこで一度間を開ける。薄ら寒い夜の中、鞘の中に収まった剣だけがカタカタと小さく鳴いている。

 ひゅうと風が吹いた後に、アルトはこちらを見下げて呟いた。


「【女々しいなぁ】」


 ドッ!!


 地を蹴る。一瞬のうちに間合いを詰め、自分の有利な位置どりをする。以前見たアルトの戦闘の仕方は、短剣や足技による近距離戦闘。それに対して、こちらの武器は刃渡り70cmの騎士団の剣。武器の間合いでは、こちらの方が優っている。だから近づきすぎない。魔法を使われたら厄介だが、そんな暇は与えない。


 相手の攻撃が届かず、かつ剣を振り抜くのに丁度良い所で踏みとどまり、勢いよくアルトの喉元狙って剣を抜き放つ。


 風を切り裂く剣尖。相当な速度で繰り出せたのが、自分でも分かった。これなら十分な威力を持っているだろう。

 そう思ったがしかし、あいつの首には、残念なことに届かなかった。


 アルトも一歩踏み込んでいた。あいつは左腕の前腕部分で、剣を握る腕をうち払い、軌道をそらしたのだ。俺とあいつの距離は、先程よりも近くなる。

アルトは俺の目の前で、ふっと鼻で笑った。


「こんな安い挑発に、簡単にかかる」


 お互い態勢を保ったまま、アルトは呆れながら話す。


「それとも何か、獣の尾でも踏んだか?」


 いちいち人を苛立たせる。喋り方が、表情が、行動が、態度が、全てが俺の心を苛立たせる。


「何故だ?」


「何故って何が?」


 分からねぇよと、アルトは苛立たせて聞いてくる。


「何故、あれに辱めを与えた……!」


 訝しげな顔でアルトは睨む。


「辱め?」


 分からないと表情で訴えてくる。冷静に考えれば、主語も何もないこの言葉だけで、気づけるはずもない。けれど、何故かそんな事にも、俺の頭は気づいてくれない。だから怒声を響かせる。


「とぼけるなぁ!!!」


 はぁはぁと息を荒くする。俺の腕とあいつの腕はずうっと競り合っている。息が荒くなるのに比例して、自分でも知らない内に、力がどんどん強まっている。


「部下達の前で、彼女は頭を下げさせられた!!」


 腕の痛みに、顔を歪めながらも、アルトは少しの空白の後に合点がいった様で、「ああ」と呟いた。


「なるほどな。確かにお前はあの場にいなかったものなぁ。独断行動だとは思っていたが、バリバリの私怨じゃねえか……」


 くだらなさそうに、どこか遠くを見て言う。正面には俺しかいないのだから、俺の方を見て言うしかないのだが、そういう意味ではない。物理的な話ではなく精神的な話で、歯牙にもかけられていないと感じたのだ。


「お前、あいつのことが好きなのか……。はぁ、まあそれなら納得できないこともないけどさ。けどよ。それにしたってやりすぎだぜ」


 ぐっと力を込めアルトが抵抗してきた。あ互い一歩も引かず、そのまま時だけが過ぎていく。

 このままでは攻めきれない。そう判断して、一度剣を手放す。


「んなぁ!」


 アルトはその行動に驚きの声を上げ、態勢を崩す。


 左腕をすぐに引っ込め、体勢を変え、右手で空中の剣を掴む。そして間髪入れず、もう一度攻撃を仕掛ける。今度は手首を捻って、下から上へと繰り出す斬り上げだ。


「トーロスはぁ!!」


 しかしアルトは右に重心を移動させ、上半身を捻ると、剣尖をすんでのところで避けた。そして左手の前腕で、突き出された俺の腕を、下から上へと押しやる。それも剣が当たらないよう、位置を調整してだ。

 関節を捉えられ、すぐには自由に動かせない。膝裏のでっぱった骨が邪魔で、引くことも、降ろすことも難しい。

 このままでは攻めきれない、けれど言葉は届く。

それがこの状態を好転させるのに、何の役にもたたないことは分かりきってはいる。だがそれでも怒りが勝った。


「あいつはな、どうしようもないお人好しなんだ。自分が受けた屈辱なんか、すぐにでも忘れてしまう。そのくせ人の傷には人一倍敏感で、すぐに傷ついた誰かを助けようと動いてしまう」


 アルトは黙ったまま、俺の叫び声をただ聞いている。


「あの女は、トーロスは、自分に対する傷と、自分のことを思って誰かが傷つくことに関しては無頓着なんだ!

 あいつが皆の前で頭を垂れて、けなされたと聞いた時、俺は心が傷ついた。俺はあいつが傷ついている時に、一人治療を受けていた。何も出来なかった自分が恨めしい!」


 右腕がびしりと痛む。アルトの魔法によってつけられた傷だ。正直動かすのもまだ辛い。だが動かしてしまった。それほどまでに、理性が沸騰して、この男を許せないでいる。どうしてこれほどまでに生理的嫌悪が湧くのだろうか。


「許せないんだ……。あいつは俺の事も肯定してくれた。人の小さなヒビにも気づく心優しい女が、誰かによってヒビをつけられてしまうことが……!」


 はぁぁ、と大きく息を吐く。


「許せないんだ…………! 俺は!!」


 殺意が宿った瞳でアルトを見る。

 俺がやつを見る目は殺意で、やつが俺を見る目は。


「そうか」


 侮蔑だった。だから。


「ーーーーーー!!!!!!」


 激昂する。


「キィサァマアアァァァアアア!!!!!」


 指の動きだけでくるりと剣を持ち替えて、首元に剣を突き刺そうとする。関節の自由が阻害されているため、当然上手くは動かせない。仮にこの攻撃が当たったとしても、傷は浅いだろう。致命傷にはなり得ない。

 だがそんなことも、今の自分にはどうでもよいことだった。少しでも傷をつけることが出来れば、それで十分だった。


「くたばれ!」


 簡潔な言葉で、剣を刺そうとしたその時、背後から声が聞こえてきた。


「ラーニキリス!!!!」


 自分の名前を呼ばれ、身体がびくっと震える。普段ならその声の美しさに、感動だけを覚えることだろう。しかし今発されたその美声には、怒りの感情という異物が入っていた。

 顔を緊迫させる。鼓動がどくんどくんと波打って止まらない。


 俺は……いや、私は剣を持っている事も忘れて、恐る恐る背後を振り向いた。

 そこにいたのは私が予想していた通りの人物だった。


「アスハ……副剣士長……」


 アスハ副剣士長を見た時、冷水を頭からぶっかけられたような錯覚を私は抱いた。私がいかに愚かな事をしていたのか、ようやく気づいたのだ。


「あ、ああ」


 私は剣をポロリと落とし、アルトから離れる。剣の刃の部分を避けながら、アルトが空中で柄を掴んだ。


「いや、これは、その……違くてですね……。彼が私達の跡を付けていて、怪しい人物だったので、その、その、これは」


 言い訳じみた事を言う。だがしかし、これがそもそも何に対する言い訳だったのか、それすらも自分で分からなかった。私はアスハ副剣士長に向き直り、ただただ戸惑いと困惑の表情を彼女に向けていた。


 それはきっと、指示を待つ犬のような態度に見えただろう。自分が恥ずかしい。

 アスハ副剣士長は、ダンダンと足音を鳴らして、私の元に駆け寄る。そしてピシャリと私の頬を叩いた。


「……ッ」


 口の中に鉄の錆びたような匂いが広がる。口内のどこかを切ったのだろう。しかしそんなことは知らないと、アスハ副剣士長は、私の顔を両手で挟み、鬼気迫る顔で言う。


「今何をしていたのラーニキリス剣兵長? 私の目を見て答えなさい!」


 まくしたてるように喋りかけてくる。息継ぎがどこにあったのかという程だ。私はこの人をここまで怒らせてしまったのか。

 今私は叱られている。背なんか私よりもずっと低い年下の人物に、しかも女性に。


 これほどの屈辱があるだろうか……。しかし私は今回酷い迷惑をかけた。私は聖騎士団の一員なのだ。それに見合った振る舞いを、することができていなかった。大人しくアスハ副剣士長の話を聞くことしかできない。


「ここは市街で! 彼は一市民。私達が守るべき人達よ!! 分かってるの!?」


 橙の髪の男に見下されながら、私は静かに上司の言葉に答える。


「はい。分かっています」


「分かってない!!! 分かっていたらこんな行動はしない!! なんで剣を持っていた!」


 何も言えない。


「けんかじゃ済まされないぞ!! 刃物を持ったっていうことはそういうことだぞ!」


「はっ」


 はぁはぁはぁと先程の私よりも、大きく息を乱している。よく見れば、アスハ副剣士長の服は、とても軽装で髪だってまだ乾いていなかった。


 急いで来たのだろう。せっかくの安らぎの時間を、私のくだらない行動のせいで無駄にさせてしまった。


「申し訳ありませんでした」


 頭を下げ謝罪する。それに対して返ってきたのは厳しい言葉。


「私じゃないだろ!! バカか!!」


「はっ」


 私はアルトの方へ振り返り、もう一度大きく、頭を下げた。そして隣にはアスハ副剣士長が並び、私と同様に、いや、私以上に深く頭を下げて言う。


「申し訳ありませんでした。部下が大変な迷惑をかけてしまい、本当に心の底から謝ります。申し訳ありませんでした!」


 ギリっと歯を噛み合わせる音が聞こえた。その音が気になり、隣をちらと覗き見ると、何か透明な雫が、目の辺りの部分から流れ落ちていた。ーーそれを見て顔面蒼白になった。だから自分も誠心誠意言うのだ。


「申し訳ありませんでした……」


 下らない気位のせいか、声は小さかった。

 前方で髪をわしゃわしゃとかく音がする。


「まぁ、頭を上げて下さい」


 声がかかった。私達二人はゆっくり顔を上げると、アルトの方を見た。彼はふぅぅとため息をついた後に言う。


「いや。いいですよ。気にしないで下さい。面倒くさいですから、あんまりおおごとにしたくないんですよ」


「いえ、それでは部下に示しがつきません」


 アルトが言う許しの言葉に対して、アスハ副剣士長がくってかかる。


「それではダメなんです! どうか私達に償いの機会を下さい」


「はぁ。そうですか。流石は品行方正な聖騎士団ってとこですかね。ああ、いや、理性で話すこともできないヤツがいるから、そんなことはないのか」


 一つ間を開けてアルトは言う。


「いやまぁ何。こちらも後を付けていたのは本当ですからね。ちょっとセアの様子が気になりまして。んであんたら聖騎士団が、よくしてくれてたのを俺は見てたんで、まぁ、それで差し引きゼロってことでいいですよ」


 本当になんでもなさそうにアルトは呟く。だがアスハ副剣士長は引き下がらない。


「いえ! いえ! ダメです! ダメなのです! どうか、どうか彼に! 私達に! ちゃんとした償いの機会を!!!」


 アスハ副剣士長は興奮気味に言う。何がそこまで彼女にさせるのか。私には分からないでいた。しかし、その後の言葉で全てを理解した。


「お願いします! ラーニキリスがちゃんとこれからも聖騎士団の一員であれるように、ちゃんとした罰を、彼に与えてやって下さい」


 ああ。そういうことなのか。アスハ副剣士長は、私がこれからも聖騎士団でいられるように、罰を欲していたのだ。うやむやにされて終わるより、正当な罰を与えた方が、私がよりよい聖騎士になれると考えて。


 しかしその想いはアルトには届いていないみたいで……。いや、あるいは気付いていながら無視するように。


「はぁ。そうですか。悪いんですが、俺にはどうでもいいです」


 言葉に詰まるアスハ副剣士長。アルトはゆっくりとこちらに近づいてきた。私の剣を持って。


「……私の命がお望みですか?」


 アスハ副剣士長は尋ねる。流石にこの発言は見逃せず、口を挟む。


「何を言っているんですか、アスハ副剣士長! 対価を払うとしたら私のはずです」


 それに対してアスハ副剣士長から返答はない。代わりに彼女の喉元に、剣を這わせるようにしてアルトが答えた。


「いやまぁ。それもどうでもいいんだが……。そうだな。そしたら一つ言いたいことが」


 アルトは一呼吸挟むと。アスハ副剣士長を見下ろしながら静かに呟いた。


「アスハ副剣士長でしたね。いえね、ずっと気になっていたんですよ、貴女の声は大変綺麗で愛らしい。あなたの声を聞いた人は、もうずっとあなたのことを忘れることが出来ないでしょう。ですが、それだけの声なのに、喋らないなんてもったいない」


 アルトの口から出たのは称賛の言葉。この場面で言うことではないとか、そう言うことは置いといて、普通に考えたら、賞賛の言葉とは誰にだって嬉しいものだ。

 しかしアスハ副剣士長にとっては、その言葉は賞賛になり得ない。それどころか、彼女のトラウマを引きずり出す、おぞましい言葉になってしまう。


 アスハ副剣士長の事情を知ってるのは、私達ユークリウス班の一部と、聖騎士団の上層部だけだ。


 だから、アルトがこの事を知っているはずはないのだ。

 けれどもアルトは、彼女のトラウマを見事についてきた。


 アスハ副剣士長は、その言葉を言われた瞬間、身体が氷のように硬直し、目の焦点が合わなくなっていた。


「ア、アスハ……副剣士長?」


 その光景を見ていたアルトは、私の剣を彼女に握らせた。


「剣は返しとくよ。貴女が何も言わなくなった事ですし、これ以上の話し合いは不毛でしょう。それじゃ」


 私達に背を向け、踵を返して歩いていく。アルトは「シリウス!」と自分の馬に声をかける。そして何ごとか馬と話すような素振りをとると、一人夜道を歩いて去って行った。



幕間 終了


 ちょっと補足です。

 ラーニキリスさんは貴族家系なのですが、その古い教え、古い価値観に、男尊女卑が挙げられます。そして彼の父親は古い人でした。姉を慕っている彼は、その価値観に完全に染まろうとはしませんでしたが、代わりに……女性とは弱いから守るべきもの。という観念を持ってしまっています。

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