「んっ……んう」
声がした。その声が自分が発したものだと気づくまで幾らか時間がかかったが、とにかくそれをきっかけとして、自分はだんだんとまどろみから目を醒ますことになった。
目を開けるとそこは見知らぬ天井。どうやら横になって寝ているようだった。
ここは? 疑問に思い体を起こし辺りを見渡してみる。見慣れない棚や不思議な薬品、本棚、勉強机の様なものと椅子、それから木でできたシンプルな取っ手付きのドアがあることが見て分かった。
何かしらの布を下敷きにして寝ていたようで。寝ていた場所を手でポンポンと触れてみると柔らかさを感じた……。どうやらベッドのようだった。
陽射しが差し込む。ベッドに寄り添うように少し上に窓も付いていた。窓から見える景色には一面の緑、恐らくは森……が広がっていた。
程なくして私の頭には、ここはどこだろう?と素朴な疑問が浮かんできた。
それに自分の身体を確認してみると、ほぼほぼ裸のようで、全身の至るところに包帯が巻かれていた。自分の身体に意識を落としてみると淡い痛みがあり、怪我をしているようだった。そうやって自分の状態を認識している時、ドアの方からガチャっと音がした。突然の事だったために反射的に叫んだ。
「誰ですか!?」
こちらは警戒心をむき出しにした大きな声を出ったというのに、それに対して返ってきたのは。「おっ、もう起きてるのか」という呑気な男性の独り言の様な言葉。というか恐らく独り言なのだろう。
ドアはギィィと音を立てながら開く。それに連れて人の影が見えていった。そこに立っていたのは背の高い橙の髪の青年だった。恐らく年は、二十歳前後ではないだろうか。
服装は私が見たことのない変わったもので、茶色のシャツのようなものの上に黄土色の外套ーただし前で止めるべきボタンはないーを着ていた。下はジーンズにみえるがやはりこれも見たことのない生地でどことなく違うなと思った。
そんな青年は私を見て爽やかな笑みを浮かべた。
「やぁ、初めまして。気分はどうだ?」
言いながら、足音を鳴らして近づいてきた。私は警戒心からじりじりとその人から身を引く。
「えっ、気分って……あなたは?」
疑問に対して疑問で答えてしまったが彼も悪いだろう。自分の事をなにも名乗らずにズイズイと近寄るのだから。
「あ、ああ勘違いしないでくれ。別に俺は何も君の事を取って食おうっていうんじゃないんだ」
彼は近くにある勉強机に備えられた椅子を掴んで、私の斜め前にそれを置き腰掛けた。
そんな彼に対して私は不信感しか抱けない。
あ、怪しい……そういう事を言う時点で怪しい。というかあなたは一体誰なの? そろそろ自己紹介の一つでも……。
思考を巡らせていると、そんなことは知らないとでも言うように、彼は先程の言葉を捕捉するように続けた。
「むしろ逆で助けた方で……」
「助けた?」
疑問に思い口にでた。彼は手を口元に近づけゴホンと咳払いをして言う。
「ここはヤチェの村の近くのスズノ山という所で。君はね、この山の山頂の草っ原に倒れていたんだよ」
どこかわざとらしい動作で頭をかきながら彼は言った。
怪しい! 草っ原に倒れてた? 何を言っているの……。
私は流石に怪訝に思い顔を歪めてしまう。けれど不思議と嫌な感じや怖い感じはしなかった。なぜだろう。そうして自分の中でもらった情報を整理をしようとしていたところに、意外な一言を言われた。
「それも血まみれで」
「!?」
おかしなことばかり言う彼はやっぱり怪しい。けれどそれなら、この包帯にも納得がいった。彼が介抱してくれたのだろう……。怪しいけれど、もし彼が悪い人だとしたらここまでのことをするだろうか。
目の前に座るこの男性の善悪の判断がつかない私は疑問を抱きつつだが、次第に素直に耳を傾けるようになった。
「それで、まぁ色々あってこの小屋に運びこんで、自分にできるだけの事をしたんだ。
本当に危なかったんだ……。で、聴きたいんだけど、どうしてあんなところにいたの? それも大怪我をして。何か、覚えていない? 」
何か覚えていないかって?
そりゃあもちろん、私がそこにいたのは……。私が何をしていたのか……。それは、そう。私は何をして……?
私は──
?
瞬間青ざめる。心にピキッとヒビが入るような錯覚を覚えた。全身が凍るよう……とでも言うのだろうか。とても恐ろしく怖くなった。だからこう言うしか他になかった。
「私は誰ですか?」
きっと今酷い顔をしていることだろう。私は何も覚えていなかった。
鉛筆や椅子、それから本などといった事は覚えているけれど、自分を表せるものを何一つとして記憶の中に持ち合わせていなかった。
「ふぅーーー」
長いため息が聞こえた、頭が白くなっていて一瞬彼の存在を忘れていた。
「こっちが尋ねてたんだけどな〜。でもまぁあれだけの怪我だ。記憶を失っていたとしても不思議はないか……」
こちらを気遣うように言った。その後に彼は俯いて独り言のように。「いや、幾らか損傷しているだけ……という線もあるよな……よし! 」と言葉を続けると、彼は改めて正しく座りなおした。
「なぁ、君は家族のことを覚えている? 」
そう聞かれるけれど私は……。
「わかりません」
これ以外の言葉を持ち合わせていない。彼の顔が少し陰った。
「それじゃあ友人や恋人の名前とかは? 」
同じだ。
「それも」
わからない。彼は困った様子でさらに問う。
「自分の……事は?」
私は。
「それもわからないです」
こうとしか今の私には言えない。それで彼は諦めたように私から顔を背け、「むむ〜」と厳しい声音で喘いだ。彼は悩んでいる素振りを見せた後、何か意を決したのか、目つきを少し尖らせた。そして彼の雰囲気が変わった。
「なぁ君はこれから行く宛があるか?」
先程までの明るく高い声は何段階かキーを落とし、言葉使いに丁寧さが無くなったような気がする。
「………………」
私は俯いて何も言えないままだったが、そこへ。
「ないんだったら、俺と来ないか?」
そう言って彼は私の前に手を差し伸べた。
それは私にとって救いの言葉であった。深い闇にほんのすこしだけだが、光が差し込んだようとでも言えばいいか。彼のこの一言がこれから先の私の人生を決めたのだ。
この人はとても怪しい。それに少し胡散臭い。けれど今は他に頼れるものがいないのだ。だから私は。
「い、いいんですか?」
彼の手を取るためにおずおずと手を伸ばした。
「ああ、拾った者の務めだ。幸い俺は地図作りを生業としてる……まぁ行商人でね。世界を旅している。だからもしかしたら、君を知っている人にも会えるかもしれない」
「じゃあ!」と彼の手を力強くぎゅうと握る。こんな風に手を取ったのはやっぱり恐怖からなのだろう。頼るものがいないというのは本当に怖いことだ。けれど私の不安を受け入れるように、彼も私の手を同じくらい強く、ぎゅっと握り返してくれた。
「ああ。一緒にしばらくの間……そうだな最低限働いてはもらわないと。俺の弟子にでもなってもらって、一人で生きることができるようになるまで。それと心に整理がつくまでは一緒に旅でもするか?」
「は、はい! 是非!」
私は嬉しくって、さらに彼の手を力強く握りしめてしまう。彼は苦しそうな顔で苦笑いをする。慌てて私は手を離す。そうして一呼吸置いた後。彼がようやく自分の事を名乗り出す。
「ああ、そうだ……。自己紹介がまだだったな。いや、ごめんな。すっかり忘れてた。
俺の名前は〝アダマハアルト〟気付いてると思うが言葉使いを崩してるから、そっちも堅っ苦しく呼ばずに俺のことはアルトでいいよ。これからよろしくな」
──刹那、私の脳を揺らす。
今の言葉は大切な事で、決して忘れてはいけない気がした。その証拠と言うように、記憶の蓋がほんの僅かだが開き、映像が見えた。
想いを託される。大切な言葉を伝えなければいけない誰かがいる。思い出した事は、はっきりとしない上に、靄がかかったように霧散していくが、一つだけ忘れずに残る単語があった。
「どうした? ぼーっとして、見えてるか」
私の視界を確認するように、彼が顔の前で手を振る。そんな彼に私は……【わたし】も自己紹介をする。
「はい、見えてますアルトさん」
「あっそうなん。それよりアルトさん……か」と声がしたが気にしない。彼に対する呼称が決まった瞬間である。
意を決して、彼を見据え答える。
「アルトさんわたしも自己紹介をしますね。わたしの名前は〝セア〟。セアと言います。これからどうぞよろしくお願いしますね」
彼──アルトさんがポカーンとする。だけど気にしない。
これから私の……セアの人生が始まる。どういう結末を迎えるにせよ、わたしの行く末を、どうか見ていて欲しい。
この世界で色んな事を経験するよ。それら全てを抱えて会いに行くから。
綴られる言葉は、あなたへ渡すための歌。話をするんだ、助けるために。別れを告げるために。
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