投稿遅くなりました! すみません!
獣の眼が俺を見下している。首筋には細く繊細ながらも、確かな殺意を持った指が、這うように触れている。そして身動きは取れない。
お前を今から殺してやる。態度がそう言っていた。言葉を一つでも間違えたなら、即あの世行き。でもまぁ──無理してみようか。
「さっきまで、あんなに穏やかな会話だったじゃないか。しかもあれは、お前が望んでのことだろう」
最初は軽い言葉を押し当てる。人を何人と殺してきた彼女だから、殺すという言葉は空虚でなく、実在感がある。けれど、すぐに殺されなかった所を見ると、やはりまだ会話をする余地は残されているようだった。
というかこの、脅すという状況がそのまま、俺の言いたい内容だ。
世間が想像する、冷酷無比な殺人鬼はどこにも。
「誰かと雑談をするのが好きか」
ただその言葉を前振りなく言ったら、今度こそ首が飛んでしまうので、ちゃんと会話になるように、言葉を選ぶ。でもそれに対して返ってきたのは、「黙れ……」という静かで、圧のあるものだった。
この反応を鑑みるに、もう少し踏み込む余地はあると思えた。
だから今度は少し長く伝えるのだ。
「声をずっと荒げてると思ってた。でも実際そんなことない。色々工夫してくれてたんだな。証拠がベッドの上にいる。今もぐっすりだ。気遣ってくれてたんだろ?」
セアやヘテルの方に視線を送る。するとアクストゥルコは、努めて見ないようにしてたが、やはりそちらを気にする素振りを見せて、声を震わせた。
「黙れ……!」
それを見て、不快感からではないが、俺はきっと顔を歪めていた。
『なんでなんだ』そう言いたくなった。
「アクストゥルコの人柄を何人かから聞いた。揃いも揃って、お前のことを善人だと言いやがった。それも殺人鬼としての部分も、あいつらきっと触れていやがった!」
つい言葉に熱が入った。身体は強靭な力によって抑えられているから、ろくに動きはしないものの、その拘束がなければ、アクストゥルコの唇にだって額は触れていたかも知れない。
けれど次の瞬間、強烈な拒絶が返ってきた。
「黙れよ!!」
首元にそえられていたアクストゥルコの爪が、ついに肉に深く抉り込んだ。細くはあるが、いくつか穴が空いた。そこからは血が勢いよく飛び出ていった。
実際はそれほどでもなかったかもしれない。でも俺の目には致死量に見えて、死ぬのなんか怖くないはずだけど、血が抜けていく感覚が、いつもよりも鮮明だった。
あぁ、痛ぇなぁ……。
「今のは……っこし。うるさかった……かな」
痛みと衝撃と息苦しさで、声は少し掠れた。
「馬鹿にしているのか?」
「してないよ。馬鹿に出来る訳ないだろ」
そう言ったらアクストゥルコは、目を震わせた。何か引っかかることでもあったのか。その反応だけじゃ分からない。だから、もう少し踏み込む。引き際は間違えないように、気をつけながら。
「何か……後ろめたいのか?」
荒い呼吸を繰り返すが、それだけだ。この言葉では現状を覆すことは出来そうもない。でも、発言権は依然としてこっちだ。だから続ける。
「もうやめよう。命を奪うのはお前に向いてない」
もう一度、こうなった原因の言葉を言う。でもアクストゥルコは何の反応も示さない。だんだん瞳が濁り始めている気がする。これが良い事なのか、悪い事なのか分からない。
その瞳を見ていたら、何を言えばいいのか、分からなくなる。
「こいつらに手を出すなら、お前と戦うが……。
俺は……別に人間の味方じゃない。他の誰が死んだって殺されたって、全部どうでもいい」
関係のない言葉が混ざってしまう。だけどちゃんと言おうとした事はぶらさずに。
「だから、やめようって言うんだ。
アクストゥルコ。俺は……お前が大分、敵に見えなくなってきたんだ。それもこれも全部、お前のせいだぞ。お前が、復讐一辺倒じゃなくって、心をもっていたから。それも、ああ……」
言い淀む。今度こそ殺されるかもしれないと思って。でも、初めてこいつと、殺人鬼でないアクストゥルコと出会ったあの時の記憶が、背中を押した。
「悲しんでいたから」
アクストゥルコは何を思っているのだろう。そうだ。俺はそもそもこいつを、殺そうとしてたんだ。なのに今、こんなことを言ってる。
俺の中では、こうなった理由がある。明確なきっかけはないが、きっかけの積み重ねと言おうか。お前の今までの言動が、俺にこうさせたんだ。
ヘテルとの関係もギーイとの関係も、お前はついに今日、一度も触れなかった。
機微を理解して、気遣いをする殺人鬼ってなんだよ。心が分かるから、そういうことをする? それだけじゃないだろ。こいつが元々、人を傷つけるのを嫌がる子だからだろ。
もし俺が、心を読む能力を手に入れたら、利用しようってまず考える。
多くの汚い人間がそうだろ。もしかしたら最初は、良いことに使う奴もいるかもしれない。でも途中から利用するはずだ。なのに……お前は。
「他人なんざ、俺は本当にどうでもいいんだ。
でもアクストゥルコ。お前が、もう、心配になっちゃったんだ。どれだけ気遣ってくれてる。
その人格じゃ、命を奪うのは辛いだけだろ?」
言ってよかったかな? 言い終わった後、そうとだけ思った。
どんな言葉だったら口にしていいのか考えたけど、何を言おうが、その言葉が正しいかは、本人次第だ。今までの積み重ねから、どんなことを想っていそうか想像したけど、正しい証拠はない。
でも悲しんでるように、いつも見えた。
それに、誇り高いのは寂しさの現れだ。自分を一人だって思ってる奴は、大抵心情が安定してる。独りだって思ってる奴が、瞳に寂しさと鋭さを募らせていく。それを知っているよ。
こちらの言葉は終わりだから、アクストゥルコの言葉を待った。彼女は今、瞬き一つせず、俺のことをじっと、目を震わせながら見ていた。
その様は、的外れなことを言われたから怒っているようにも見えたし、確信を突かれたから、一言も発せなかったようにも思えた。
それで、ついにアクストゥルコは口を開いた。
「なんでだよ……」
何がだ? 訊く前に返ってきた。
「なんでお前達は、あたし達を殺したんだ……。ずっと見守ってただけなのに」
それに適切に答えられるはずがなかった。歴史から思いつくことはあるけど、目の前にいるこの人物は、それを【体験して】いるのだから、何を言っても良いわけがなかった。
俺が何も言わないのを、アクストゥルコは嫌がりはしなかった。気落ちするだけで、我を忘れ殺される可能性からは、また随分遠ざかった。彼女は虚な目で続けた。
「だって、本当に何もしてないんだよ。住む場所だって遠くて、獲物の取り合いだってなかった。あたし達は少ない物で、十分生きていけたから」
語り口は緩やかで、俺の首に爪を立てた時のような、鬼気迫る緊迫感はなかった。それが余計に嫌だった。
ただ物悲しい感情だけを覗かせたから。
「もしかしたら、人里に降りた馬鹿な若い狼はいたかもしれない。でもそれだけだよ。姿をちらっと見せてしまっただけ。その子は何もしなかった。ねぇ、なんであたし達は、殺されたんだ……」
『ねぇ』と問いかけられても、答えは一つだった。
「お前は……銀狼は人間に対して、復讐する正当な権利を持っていると思う」
歴史書を読めば、ある程度は知れる。だからこの事実を、俺は既に知っていた。でも、それを体験した本人からの言葉は、初めて知る事実のように、段違いに衝撃的に響いて。『人間を殺していい』と心から納得して、そんなことを言えてしまえた。
でも違う違うと首を振られた。意味が分からなかった。免罪符が欲しいんじゃないのか?
俺はヘテルと同じように、アクストゥルコのことだって理解していなかった。
よく考えろ。殺人鬼としての行動指針は明らかに憎悪だが、今、アクストゥルコの目にあるのは虚だ。彼女が深い所で抱いている感情は、怒りでも憎しみでもなかったということだ。だから、そうだ。こいつの一番奥底にある感情は…………。
「あたしの母親は人間だったんだ」
唐突に言われた。何故と思ってアクストゥルコを見たら、全てを察するような面持ちで、彼女は悲しげに笑っていた。彼女の耳は立てられていた。
俺は必死になって考えたけど、それじゃたどり着けないからと、親切にも教えてもらってしまったようだ。
──何も言えなかった。
「初恋相手だって人間だ」
──何も言えなかった。
つまりこうか。アクストゥルコが問いかけた意味って、本当に『なぜ?』か。
あたし達はお前達が好きだよ。遇したこともあるから、人間が良き隣人だと知っている。だからお前達を攻撃するつもりも一切なくて、ただ安寧を祈っていたよ。なのになんで? 悲しいよ。っていう……。
言葉が出てこない。
その意味にたどり着いた時、本当にもう、何も言えなくなった。
「嫌いになんて、なれる訳ないだろ。馬鹿。馬鹿。馬鹿。ばーーーーか」
アクストゥルコは声を、頑張って頑張って、なんとか荒げた。からっとした掠れる声に、粘性はなく、いやらしい悪意や執着はなかった。
あるのは悲しい咆哮、涙まじりの未練だった。
「大っ嫌いだ。お前達なんか、大っ嫌いだ!! 嫌いだ、嫌いだ、嫌いだ」
俺の上で泣いてる。メソメソとベソをかいて。眼から落ちる涙を自分の手で拭っているが、全部は拭いきれなくて、俺の身体や頬に、たんたんと、それは降ってきて。
もう首元に手は当てられていない。上に乗られているも、力を込めていないんだから、拘束力だってないに等しい。でも今ここを抜けるのは、正しい行動には思えなかった。
そして今更ながら感じた。彼女の身体が驚くほど軽いのを。体重はどれくらいだ? 40kgもないんじゃないか? 痩せている。身体だけじゃない何より心が痩せ細っている。
そのことを理解すると、上に乗られたまま、半身だけすぐに起き上がらせた。そして、誰かが助けなければ、今すぐにでも壊れてしまいそうな、この少女を抱きとめた。
よく自分の身体に押し付けた。
「おかあさんはどこ? おとうさんは? ニーニャは? おじちゃんは? 皆どこにいるの? 皆に会いたいよ!! 会いたいよ!」
顔は見えなかったけど、どんな表情をしているか、想像はつく。このままでは、この子が壊れてしまう。こんなに良い子が、本当に決定的に壊れてしまう。
頭がパニックになった。だって本当の所、俺は今日、責められる気でいたから。人類を代表して、死なない程度にボコボコにされようと思っていたから。全部とは言わない、怒りが少しでも晴らせるなら良いと思って、踏み込んだのだ。それがなんでこうなった。
「うううぅ。うぅうう」
なんだってこいつは、ここまで善性を、まだ持っているんだ。おかしいじゃないか。お前の事情を考えれば。怒りや憎しみが一番に来ていいはずだろ。
なんで涙なんだ。よりにもよって、溜め込んだ感情が、なんで【悲しみ】なんだ!!!!
自分の考えと、想定していた事と、全く違う今の状況を焦る頭で認識しながら、彼女の後頭部や背中を撫で続けた。
「ああぁぁあああ!!!! おかぁさーーん!!
おかぁさん! おかぁさん! おかぁさん!!! おかぁさん。おかぁさん。どこぉ。どこぉーーーー!!!!」
こんな、こんな悲しみ。呪詛を聞くよりも辛い。
せめて怒って、口汚く罵ってほしかった。
「うん? アルトさん、誰かいるんですか?」
普段ならもっと穏やかに、茶化しながらもなんだかんだで受け入れられるが、今ばかりは余計な声としか思えなかった。
目の前の少女の精神性が、こんなに幼く純真だったのを分かっていなかった。
だからセア達に対して、ゆとりを持って対処する事は選択できなくて、荒っぽく済ませることにした。
「…………お前達は、もう少し寝てろ」
そう言って彼らの寝ぼけ眼に、遠隔で魔法をかける。
「三月。夢は見通せぬ回廊。明るは未だ。微睡み(ドロース)」
口早に言い、彼らを強制的に眠らせる。
「二重(チパダヴァル)」
より効果を強めるため、重ねがけもした。こんな無理な使い方をしたら、セアやヘテルの身体に、もしかしたら悪い影響を与えるかもしれない。でも、仕方がなかった。本当にどうしようもなかった。今のこいつを誰かに見せる訳にはいかなかった。
死なれたら困る。
それは前だったら、情報源としての意味合いだけだった。だからそもそもの話だ。ここまで強く、死んでほしくないと思う事はなかった。
でも今は、こいつの人格を知ってしまっている。こいつと過ごした記憶を、俺は持っている。
こいつが、こいつが、ただ復讐に生きてるだけの獣なら、同情することはあっても、それ以上の感情は抱かなかった。
でも違った。こいつはどう言うわけか、昔からの人柄をずっと保ち続けていた。それも人間に寄った優しい人柄を。
気持ちが晴れる訳でもないのに、なんで人を殺してんだよ! ふざけんな! ちゃんとすっきりしろよ!
それに、今でも人間を嫌いになれてないんだろ? だったら逆じゃないか! 気分が晴れるどころか、人間を殺すたびに傷ついてる。
なんで自分の倫理観にすり減らされてんだよ。起きてた時間が何年かは、具体的に知らないけど、九百年以上だぞ! なんでそれだけの間があって、開き直らないんだ。ちゃんと『自分は悪くない!』って殺せよ!! そもそも人外が、人殺しを嘆くなよ。なんで、そこまでこっちに寄ってる!? ああ母親が人間だから……。
なんでそんなに苦しみながら、人間を殺してるんだ……。
何か、何か伝えなければならない。この子を助けるために、必要な言葉がある。でもそれを、俺は上手く創り出せなくて。代わりに、背と頭を撫で続けたが、そんなものだ。
泣き喚いていたアクストゥルコは、そんな俺を責めるように言ったのだ。
「お前だって悪い人間だ!! 騙されないぞ! お前からは血の匂いがする。人(マヒト)の血の匂いだ! 馬鹿な人間は分からないかもしれないが、あたし達はちゃんと気づいているぞ! お前の手は汚れてる! 汚いんだ!!」
言われて血の気が引いた。けれど脅すために言ったというよりは、興奮から意図せず言ったようなものだと、ちゃんと理解出来たので、彼女の頭を撫でる手に、余計な力はいれなかった。
そもそもこれも、アクストゥルコの優しさだ。最初から俺がそういう人物なのを知っていて、でもそれを、今日この日まで黙ってくれていたのだ。本当に優しい人物だと言える。
でも、そうだな。何というか──。
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その後もしばらく、アクストゥルコは泣いていた。長い年月をかけて作った、ぐずくずになった傷口から、化膿した汚れを出すように。今までの濁りを吐き出して。
……ただ、なんだ。密着しているからかな。その濁りは、奥深くまで隠した、俺の古傷をも濡らしたんだ。
役割が残っているから、まだ、目覚めないで欲しい。どうか──夜に微睡んでくれ。
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