エスペンの村に着いて、まず行ったのは料亭であった。
最近の食事事情は良くなっているが、それでも旅の中で食べられる物は限られていた。自分で料理の一つも作れないわたしだ。ヘテル君の作る物に文句などないが……野菜スープと黒パン以外の物も食べたい。
そういう訳でヒーローさんと別れた後、一も二もなく、この村唯一の料亭の扉を開けたんだけど。そこに居たのが……。
「おお、久しぶりだの。青年、セアちゃん、そしてヘテル坊や」
伸びすぎた鬱陶しい前髪をだらんと垂らし、異業と化した目元を隠す──トリオンさんがいたのだ。彼は並べられた料理の数々を豪快に口の中へ放り込んでいた。隣の席にはもちろんエリーゼちゃんも居て、いつもなら頭の上にあるとんがり帽子は、今は彼女の膝上にちょこんと置かれていた。
事情を抱えているから、話しかけられても無視することは出来たのだけど、彼らにはもうバレていたし。何よりわたしがやはり前傾姿勢だった。気を抜けば、彼らの方へ近づいてしまいそうだった。すんでの所で止まれているのは、つい先日アルトさんから言い咎められたのと、今まさに、目の前にいるこの人が、わたしに異業種と関わる責任と覚悟を教えてくれた人だからだ。
今度はちゃんと、軽率には動かなかった。
だったけど、わたしの心の動きは目に見えて分かりやすかったから、アルトさんは呆れて諦めていた。彼は他人から見たら分からないほどの秒数を逡巡した後、結局トリオンさん達と同じ席に座る事を選択した。そこには色んな足し算と引き算とがあったのだと思う。でもわたしにとって、その選択は大変ありがたかった。いや……もしかしたら、わたしの気持ちも汲んでくれたのかもしれない。
ヘテル君には申し訳ないなっていう思いを抱えたが、その時彼にこっそり、「大丈夫」と耳打ちされてしまったからには、本当にもう自分は甘えてばかりだと思った。
……言い訳のつもりではないし、意識は変えていく気でいるが。いやでもやっぱり、人と無闇に関わるなという縛りは、わたしには痛く厳しい。
✳︎
トリオンさんエリーゼさんと席を共にしての食事は、いややっぱりわたしにとっては、非常に楽しいものだった。アルトさんは身体を時折強張らせたりなど、その行動の節々から彼らを警戒しているのが見て取れたが、それはでも、最初だけだった。
トリオンさんは相も変わらずだったからだ。ルクス街であった時の様に、裏表なく楽しそうに喋って、あるいはわたし達の会話に耳を傾けて、それら全てを楽しそうに聞いて、本当に何か心配するのも馬鹿らしい。
むしろわたし達の事情を知っている分、ヒーローさんの時と違い、ヘテル君も活発だった。トリオンさんの人柄もあるだろう、気兼ねなく話している彼を見て、わたしが嬉しくなったのは言うまでもないことだ。
どころかトリオンさんは、気がついたらこういう風に、ヘテル君を呼び始めたのだから驚いた。
「なぜでしょう。ここでも黒パンを食べているのは」
「エスペンは辺境にあるからのう」
「くぅ……このお店にも、別にヘテル君の料理にも文句を付けたい訳ではないですよ! ないですけど! でも別の物も食べたかった!」
「ははは。まぁまぁ。肉類は良く香辛料が効いているから、そちらを食べるといい。
いや、それにしても【ヘテル嬢ちゃん】の料理か。いただけるのであれば、儂も是非いただきたい」
いったいどうしたことか。目も見えないはずなのに、ヘテル君のことを途中からそう呼び始めたのである。それも何の違和感もなく自然にだったから、わたし達もどの瞬間に切り替わったのか分からなくて、トリオンさんがそう呼んでくれていたことに、しばらく気づけなかった。
ヘテル君はそれに気づくとトリオンさんに、「まだそう呼ばなくていい」みたいな内容を伝えていたから、また「ヘテル坊や」呼びに戻ったけど、しかし扱い方はエリーゼちゃんと同じ。つまり女性へのものだった。
どうして会話をしているだけで、そんなことにまで気づけるのだろうか。どころか偏見なく気遣ってくれて……。アルトさんは言っていた、『お前が大丈夫なだけで、この世界は偏見に満ちている。そういうのを気味悪いと言う奴もいる』と。
ヒーローさんはまるで気にしていない、というより気付かなかったみたいだが、気づいた上で理解して、気遣ってくれるトリオンさんは、こんな所にいることからも、広い世界を知っている人なのだと思った。
そんな訳で皆で過ごしたお昼は、非常に楽しく進み、唯一残念だったのは、先程話した通りの、結局ここでも黒パンということだけだ。それだけは、うん……残念。
✳︎
いつの間にやら時刻も夕暮れ時。すっかり話し込んでしまった。
「もうこんな時間か。そろそろ宿を探さないといけないな」
「この村にある宿屋は、一つだけだから分かりやすいぞ。青年。何ならおっさんがそこまで案内しようか? 儂らもそこに泊まっているしの」
アルトさんが憂慮して言うと、わたし達との会話を一旦切り上げて、トリオンさんが返した。それならと頷きかけたアルトさんだが、もう一つの用事─行商のこと─を思い出して、待ったをかけた。
「む? そうなのか。ならば急ぐ必要は……。いや、待て。商会はあるか? あるとしたらいつ閉まる?」
「ほぅ。積荷があるのか。この村に商会はないから、大きな取引は期待できない。けれどもし売り物があるのなら、村長の所か、もしくはこの店にそのまま卸すといい」
流石はトリオンさん。ぱっぱと質問に答えると、どころかこちらの事情を看破して、適切な助言までくれた。そんな風にわたしは、彼をおお〜と讃えるが、しかしアルトさんは違うようで。むしろ訝しみながら訊いた。
「それはなぜ?」
「このお店のお肉は、香辛料が良く効いているからだよ」
トリオンさんは何気なく返答したが、アルトさんは目つきを鋭くさせた。
「なんで積荷を知っている?」
トリオンさんは少し黙るも、また裏表のない温和な表情で「知らないよ、儂は何も知らない。当たっていたならそれは偶然だよ」と身を引きながら言っていた。アルトさんはそれを冷ややかな目で見ながらも、それ以上の追求はしなかった。引き際が潔いと思った。最近誰かにしつこく聴き回して、嫌な思いでもしたのかもしれない。
別れ時と思ったのだ。もうすっかり料理の皿が片付いた机に、アルトさんはいくらかの硬貨を置いた。そしてわたし達に声をかけると椅子を立った。いささか礼儀にかける振る舞いではあると思ったけど、ここ数日、アルトさんはもうずっと何事か色々と考えている。失礼であると思いながらも、彼を咎めるようなことは言わず、トリオンさんに軽い謝罪を入れた。そしてわたしも席を立とうとしたそんな時である。
「随分な礼儀知らずじゃねぇか」
男性の鈍く低い声がしたのは。驚いて声がした方を振り返れば、しかしそこには誰もいなかった。いやでもそれは当然だ。この料亭にいるのがそもそも、今となっては長話をし過ぎているわたし達と店員さんだけだ。また時間が経ち夜にでもなれば、賑わいを見せるのだろうけど、この時刻では人がいないのも道理であった。とまれ、そんなだから、わたし達は絶えず人数を把握出来たはずなのだ。全く初見の声が、唐突に聞こえるはずがない。
でも現に、唐突にその声は聞こえて来た。わたし達の誰のものでもなく、店員のものでもなく、姿もない声の主というのは少し不気味だったが、その声の主を見つけた時、思わずたじろいだ。
その声は、エリーゼちゃんの方から聞こえて来た訳なのだが、彼女には申し訳ないと思いつつもジロジロ眺めると見つけたのだ。彼女の肩の上で腕を組み、いかにも偉そうにふんぞり返って座る、小さな男性を。そして彼は【縫い付けられた口を動かして】、言ったのである。
「なんとか言ったらどうだよ。え?」
重圧のある声はいかにも人間らしいものだが、その姿は間違いなく人形であった。
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