今夜も月が出ている。三日月型の月でとても綺麗だ。
月光は、縦に長く伸びた窓を貫通して、この部屋を照らしてくれている。あたしはフードを深くかぶって、両膝をつき手を合わせていた。
祈っていた。願っていた。
自分の行いが良いものかどうかなんて知らない。けれど一つだけ言えることがある。それは人間が憎いということ。
昔は神様が好きだった。昔は多くの人間が好きだった。
──今は神様が嫌いで、人間の笑顔はこの世で最もおぞましいものに見える。
昔も祈っていた。幸せになるために、神への感謝のために。
──でも、今の祈りは違う。
あたしは人間が憎い。憎い、憎い……。憎い、憎い憎い、憎い憎い憎い憎い、憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎いのだ。そして神も憎いのだ。
だから祈りを捧げる。
人間を憎むことを、多くの人間の不幸を祈ることを、神様を憎むことを許してもらうために。
そんなに苦しいのならやめてしまえばいい。誰かが言った気がした。でもやめられないのだ。やめてしまったら、自分の存在意義がなくなってしまうから。
──彼女の自問自答は終わらない。責め苦は終わらない。けれどそれは全て言葉にならない。全て胸の中にしまわれるだけ。あるいは、ほおを伝う何かに溶け合わさり、膝や地面に落ちるだけ。
✳︎
乾いた血にまみれた修道服で、祈りを捧げていた。そんな時、背後から軋む音が聞こえて来た──それは扉が開かれる音だ。考えていた事は、その音に邪魔されて、途切れてしまった。
仕方ないと両手をほどき、正座を崩す。
それで立ち上がり、後ろを振り向いた。するとそこには、二人の人影があった。
片方の人影が、床に敷かれたカーペットを踏んで、家屋の中に足を踏み入れた。そして言う。
「なんだよ、いるじゃねえか殺人鬼」
月光はやがて、二人を照らす。それにより彼らの姿が明らかになってくる。
片方は透き通るような淡い翠の髪の女性。髪は腰まで伸びていて美しさを感じさせる。無垢な表情と合っていない感じがするが、それが逆に彼女の魅力にも思えた。首にかけられた、花の入った瓶も特徴的だった。
もう一人が、橙の髪のこれといって特徴のない男性。強いて言うなら服装が変わっている。この辺りでは見かけない、風変わりなものだ。手には黒い手袋だってつけている。
二人をさらっとだが観察して、取り敢えず【あいつ】ではないことを理解する。だけど、念には念を入れて、改めて男の方に意識を向ける。クンクンと鼻を動かし、匂いまでも確認する。
そうして目の前にいる男が、あの気持ち悪いクソ野郎じゃないことを完全に理解して、安堵から息を漏らした。
さてあたしは……ううん。
私はあの二人の人間を知らないし見たこともない。けれど彼らが、何をもって会いに来たかは見当がつく。
きっと私を殺しにきたのだろう。だから私は……私も瞳を殺意で禍々しく濁すのだ。
✳︎
わたし達の眼前には教会がある。普通の民家と比べて割と教会は大きめだ。
「なんだか、緊張しますね……」
わたしはこれから始まる出来事を想像して、そう不安を吐露した。
「まぁ、それは分かるけどな……行くしかないだろ?」
アルトさんは余裕のある声でそんなことを言う。そして服の内側のポケットに手を突っ込むと、黒い手袋……? のようなものを取り出した。
「それにセア、お前はここで待っててもいいんだぞ。俺だけでけりをつけてくる」
キュッキュッと黒い手袋をはめて、アルトさんは目線を自分の手元に落としながら、ぶっきらぼうに言う。
アルトさんと出会ってまだ日はそこまでたっていないが、ここ数日の出来事があまりにも濃いもので、アルトさんがどういう人なのかは大分分かってきた。こういうのが彼なりの優しさなのだ。
「でもセア、お前は行きたいんだろ?」
そう促されコクリと頷く。危ない場所にわざわざ行くのはなぜか?と聞かれれば、それはやはりアルトさんが心配だからだ。大切な恩人に一人で行かせたくない。
それにまだ、話し合いの余地は残されているのかもしれない。殺人鬼さんだって人間だ。きっと信じれば罪を償ってくれるはず。
物思いにふけっていると、アルトさんは、カリナさんの方を向いた。
「さて、もう後は乗り込むだけなんですけど、すみませんがカリナさん。あなたは教会には入らず、どこか近場で待機していて欲しいです」
それに対してカリナさんは、信じていたものに裏切らられたような顔をする。その表情にはなぜ? という疑問とどうして?というやり切れなさが表れている。
「本当はあなたも、連れて行きたかったんですが、ここに来てみて分かりました。教会から嫌な雰囲気を尋常じゃないくらい感じるんです。
こんな場所に戦えない人間を二人も連れ込みたくない」
アルトさんは真剣な顔でそう言う。それはカリナさんにだけの言葉ではなく、自分自身にも、自身の弱さを省みてるようなそんな声音だった。
「このバカが『ついて行きたい!』なんて言わなければ、あなたと一緒に行けたんですがね」
はぁとため息をつきながら言う。
むーーー! 何ですか、それ。まるでお荷物みたいな言い方して! わたしはそう憤慨する※。
※実際お荷物。
けれどその後のアルトさんの続けた言葉で、わたしはアルトさんの失礼な物言いを許してしまう。
「でもすいません。それでもこいつを連れて行きます。多分殺人鬼と相対した時、なんでかは分からないですが、こいつが重要になってくる気がするんです……。申し訳ありません」
アルトさんは続けると頭を下げた。カリナさんは、それを見届けると。
「いえ……大丈夫ですよ。危険はたしかに大きそうですし。何より殺人鬼との戦闘になれば、アークスさんしか戦えないんです。そのあなたが言うのであれば、多少の不満はありますが飲み込みます」
冷静に自分を分析でもするようにカリナさんは「ははは」と仕方なさそうに笑った。
「ありがとうございます。必ず殺人鬼を捕まえてみせます。そしてカリナさんの前にお連れします」
「ええ、お願いします」
二人はそんなやりとりをし終わると、カリナさんは教会の扉の横にそれ「健闘を祈ります」と静かに呟いた。
こうしてわたし達二人だけが教会の扉の前に残った。アルトさんは小さく「行くか……」と囁くと、教会の扉をギイィィと押し開けていった。
✳︎
教会の中は真っ暗だった。明かりの類は一切つけられていない。けれどよくよく周りを見渡してみると教会の部屋全体が淡く照らされているのが分かった。
部屋の奥の縦に長く伸びた窓をみる。部屋を照らしているものの正体は月の光だった。
この部屋は月光だけの明かりで照らされているのだ。その光はとても静かで、なんでか静謐さを感じさせられた。
わたしの目は、その淡い光だけの世界に大分慣れてきたようで、部屋の中央に人が一人正座で座っているのが分かった。その人物もわたし達の存在に気づいたようで、ゆっくりと立ち上がってこちらを見た。
その人物の服装は、黒を基調としたローブで、胸元や手元の袖などは白色である。ただこのローブ下半身の前の方がビリビリと裂けており、ローブの下の真っ白なスカートが出てしまっている。頭にも黒いフードのようなものがつけられて、そこにも前面の部分に白色の布を取り付けている。胸元には十字架のネックレスがつけられていた。
その服には全体的に清楚な雰囲気が漂っていた。肌の露出はまったくなく、決して派手さもない。修道服というものを知らないが、きっとこれが修道服と一般に呼ばれるものなのだろうと理解した。
しかし、修道服の持つ清楚さとはかけ離れたものが、その人物の服には大量に付着していた。その付着物は、修道服の至るところに付いていた。黒い部分に付くそれは、まだいい。でも……。
元はきっと、汚れひとつない真っ白な色だったんだろうな。──感じざるを得なかった。
修道服の人物が立ち上がったことで、その子がとても小さく、華奢な体つきをしているのを知った。そこから女性だというのと、まだ幼い少女なのだということを理解した。だから信じられない。この子が本当に殺人鬼なのか、どうかが。
けれどその疑問は、修道服を見ることで、すっかり晴らされてしまう。だからアルトさんも。
「なんだよ、いるじゃねえか殺人鬼」
その声は、静かな部屋には嫌に響いた。
✳︎
床に敷かれたカーペットの上を歩いていく。修道服を着た少女はわたし達の方を見据えたまま一向に動こうとしない。けれども、わたし達が近づくたびに開いた手に力が込められていくのが分かる。
「おい」
アルトさんに小突かれた。
「どこまで行く気だ? 説得するなら、このぐらいの距離でもいいだろ。声は十分届く……」
えらく緊張していたため、わたしはアルトさんが何を言っているのかを理解するのに少し時間がかかったが、自分の中でアルトさんの言葉を咀嚼し、足を止め呆けた顔でかろうじて、うんと頷くことができた。
アルトさんは、わたしのそんなぎこちない動作を「やれやれ」みたいな顔で見届けると、修道服の少女を見つめて口を開く。
「おい、あんたが殺人鬼か? 俺達は訳あってお前を捕まえにきたものだ。なんでも大怪我をしているんだってな。だから無理にお前を攻撃しようとは思わない。
ただ……武器を隠してるなら全部捨てて、投降して欲しい。今ならまだ、なるべくお前が苦しまない刑で、安らかに逝くことができる。そうなるように俺達からも訴える。だから投降してくれ」
アルトさんは語りかけるように、少女に話しかけた。けれど少女は。
「…………………」
何も言わない。だからアルトさんは。
「もう一度言うぞ。罪を償うんだ。今ならまだ、まだ……楽には逝けるんだ。正直言ってこれ以上お前には罪を重ねて欲しくない。小さい女が晒し首とか、俺は嫌だぞ……」
それに対して殺人鬼は。
「…………………」
何も言わない。するとアルトさんはわたしの身体に腕をトントンと当てると「お前はなにか言わなくていいのか?」と小さな声でそう言った。
──そうだった、わたしがアルトさんに無理言って付いてきたのはこのためだった。けれど…。
「あ……えっ……あっと……」
わたしの全身はガタガタと震えていて、なかなか言葉を発してくれない。
こんなことは初めてだった。ユークリウスさんに睨まれた時も怖かったが、アルトさんに凄まれた時も怖かったが、今が、今が。
──なによりもわたしは怖い。
殺人鬼の方から漂ってくる血の匂い。ワナワナと震える手に込められた憤怒の感情。フードをかぶっているから、はっきりとは見えないが、殺人鬼の鋭い目つき。殺意のこもった目とはああいうのをいうのだろう。
それら全てがわたしの心を、底の方から震え上がらせたのだ。
「………そうか。それじゃ仕方ない」
わたしの様子に見かねたアルトさんが、そんなことを言う。
「あっ……ご、ごめんなさい」
あんなにせがんでついてきたのに、なんの役にもたてなくて。不甲斐なさから、わたしはアルトさんに謝罪する。
「いや……いい。むしろよくここまで立っていた。お前は後ろに下がってろ」
冷淡な声音でアルトさんは言う。彼の言葉に従い、数歩取り敢えずは引き下がった。それで彼の背に隠れると、安心感があり幾ばくかの余裕が生まれてきた。
アルトさんの背が震える。
「ふぅーーー。
最後の警告だ。今すぐ投降しろ。でなければ……戦いの末、お前を苦しめて殺すことになるかもしれないぞ……」
最初は怯えから来た震えかと思った。でも実際は真逆で、覚悟を決めたからこそだと、威圧混じりの言葉を聞いたことで気づいた。
「……………………………」
それに対し殺人鬼は、やっぱり何も言わない。それでやることは決まったと、後ろを見ずに、小声で囁きかけた。
「悪いなセア。あいつは話にのる気がないらしい。今すぐに扉の方まで走れ」
その声に余裕はなく、緊迫しているのが分かった。
素直にその言葉に従って、アルトさんや殺人鬼に背を向けて走る。正直生きてる心地がしない。殺人鬼と対面してた時も、背を向けてる今も。
だから扉まで無事に行けたことは奇跡だと思った。
「はぁーーはぁーーー」
たった数秒しか走っていないのに、息は絶え絶えだった。
呼吸をなんとか落ち着かせると、アルトさん達の方に振り返った。
「殺人鬼、フッ……。これはお前が選んだことだ。悪く思うなよ」
相手をいやに挑発する、嘲った言い方でアルトさんは言う。そしてそれがきっと、闘いの合図なのだろう。
しかし殺人鬼は一歩も動かない。
アルトさんは殺人鬼の様子を不審に思いながらも、もう開戦の合図はしたからと、着々と攻勢に転じるための準備を始めた。彼は手袋をはめたまま、両の掌を押し合わせた。
その動作を不思議に思い、手袋に注意を向ける。そうすると手袋に、うっすら模様が描かれていることに気づけた。
「紋章魔法陣解放」
アルトさんを中心に、得体の知れない模様が、空中に浮かび上がる。それは不思議な青色の光を帯びて発光している。教会の中を青い光が照らしていく。
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