蝋燭だけが照らす薄明かり。手の中でパラパラと手記がめくれていく。蝋燭は貴重なものだ。それも貧乏暮らしをする行商人にとっては。だが、毎夜その日起きたことを記すのが、日課であったから、もったいないとは思いつつも、蝋燭を灯し、なるべく手早く書いていくのだ。
時折寝息は聞こえるが、インクをつけたペンのカリカリという記載音の方が、よく耳に届く。寝息は部屋に溶け込むというのに、この音は夜の世界には馴染やしない。人工物と天然物の差があるようだ。
一休みにベッドの上で横になる彼らを眺める。すると、あまりにも気持ちよさそうに眠る、彼らの寝姿に影響されてか、自分もだんだん目蓋が落ちてきてしまった。
これではいけないとかぶりを振って、額を二度ほど叩き、再度手記に向き合う。
日記をつけるというのは、義務でもなんでもないが、もう何年も続けていることだ。やらずに朝を迎えてしまった日には、後悔するほどだ。自分の中では、半ば決まり事となっている。
だから眠ることなく書き続けていたのだが、ベッドの上でごそりという音が、不意に聞こえてきたのだ。それが俺の手を止めさせた。
「あれ、アルトさん。まだ起きていたんでふか?」
うつらうつらしながら反目で尋ねてくるセア。いつもなら起きてくることなどない彼女だが、宿屋という環境がいつもと違ったからなのか、額を叩いて音を出したのが不味かったのか、何にせよ夜遅い時間に起こしてしまったのは間違いなかった。
「……ああ。まだ、やることあってな」
セアの問いに答えるべきか逡巡したが、もう眠りを妨げてしまったのは間違い無いので、諦めて返事をすることにした。
「ふぇ〜。ふぁう。そうなんでふか。早ふ、寝た方がいいと思いますけど」
「……そりゃお前だ。起こしたのは悪かったが、眠いんだったら、寝てろ」
「それはそうなんですが……」
んふ〜と、セアはにんまりとした、下手くそな笑顔で鼻息を漏らして答えた。いったい何がそんなに面白かったというのか。こいつを拾ってから大分日が過ぎたが、未だに俺の常識が追いつかない部分がある。
セアの分からなさにため息を一つついて、また寝るように促そうとして、そこではたと声をかけるのを止めた。彼女に聞きたいことがあったのを思い出したのだ。いや、その言い方は正しくない。聞きたいことを今、記憶の中から関連づけたのだ。もしかしたら、【よくわからないこいつ】だからこそ、同じく、俺が理解し難い類いの、奴の考えが分かるかもと思って。
むにゃむにゃと口籠り、結局素直に再び寝ようとするセアを引き止めて尋ねた。
「なぁ、おいセア。聞きたいことがあるんだ」
「ほぇ、なんです?」
辺りを、というよりは端の方で丸まって眠るソフィーをよく眺めて、完全に寝入ってることを確認した後に、セアに問いかける。
「……口説きたい女がいるんだが、なかなか上手くいかなくてな。同じく女のお前だったら、何か分からないか?」
そう言うとセアは、眠たげだった瞳をだんだんと開眼させていって、「えっ!?」と夜中にしては大きい声を出した。
「うるさい。静かにしろ」
「え、いやでもだって!! あのアルトさんが!? 女っ気のかけらもない、どころか友達もろくにいないアルトさんが!? そ、そりゃ驚きますよ」
こいつ……。俺に対してどんな印象を抱いていたんだよ。内心歯軋りしつつ、あくまでも冷静に思考する。
「……いや、まぁお前の考えているようなことではない」
そう言うと、「そうですか……なんだ、つまんないですね」と、くぐもった声でセアは言った。
こいつ……。と思ったが、夜中にあの活気で対応されるよりは、何億倍もマシだと思ったので、あまり刺激しないようにすることにした。それに今の方が本題に入りやすい。
「悪かったな。それでだが、口説きたい相手っていうのは、まぁ言ってしまえば取引相手のことなんだ」
様子を伺うためにも、横目でソフィーの方を見た。どうやら彼女は完全に寝ているようで、心配する必要もなさそうだった。
「へぇ、取引相手。それでわたしには何を訊きたいんですか? アルトさんが分からないことを、わたしが答えられるとは、正直あんまり思えないですけれど」
「いいや、構わない。なんでもいいから言って欲しい」
自分の無能を晒すようで恥ずかしくはあったが、このまま彼女との話し合いが、何の進展もないようでは、それこそ時間の無駄で、よっぽど自分のことを嫌いになりそうだった。だから素直に答えた。するとセアは目を丸くして驚くと、「分かりました」とこくりと頷いていた。
諸々の殺人鬼に関する事情は伏せて、これまでのやりとりだけを話していった。
✳︎
「だから、そいつには『お前の目が気に食わない』とか言われてな。とにかくとっかかりが見つからないんだ」
「なるほどぉ」
一通りのことを、なるべく声量を抑えて、セアに話し終えた。彼女は自分が話す最中、何か下手な茶々を入れるでもなく、ずっとふんふんと話を聞いていた。やはり先程までの気勢を削いでおいたのは正解だったようだ。
セアは話が終わった後もしばらくふんふんと頷いていて、全てを咀嚼し終えるまでには、時間が今しばらく必要らしかった。
……そういう様子を見ていてもだが、先程セアが自分自身で告白したように、もしかしたら期待するような返答は、一切得られないかもしれない。というよりは九割型そうなることを、予見した。
だっていうことを理解しているのなら、なぜ自分は尋ねてしまったのだろう。タイミングが良かったからか、行き詰まっていたからか。
セアとソフィー……殺人鬼アクストゥルコは、自分にとっては思考が読めないという点でしか一致していない。他は違いばかりだろう。セアに訊く前こそ、恥だなんだと言って、そしてそれを乗り越えたような気でいたが、いざ話し終わってみると、自分がとんでもなく見当違いのことを、しているようにしか見えなくなってきた。
「いや、すまない。つまらない仕事の愚痴を聞かせた。明日からもまた早い、睡眠の邪魔をしたな」
そう言って、今までのことを恥じて、隠すみたいに、一方的に会話をやめてしまおうとした。だがそこでセアはようやく得心いったのか、うんうんと頷いて、向き直った。
「大丈夫ですよ。それにアルトさんが頑張っているのはよく分かっていますから、何か力になってあげたいですし」
そう言って微笑むセアは、自分のことを見透かしているようだった。
「……さて、前置きはここまでですね」
珍しく会話を先導されて、違和感を感じ少したじろいだ。だがそんな自分とは対照的に、セアの表情からは、十分な自信を感じ取れて、そんなことを気にする自分がえらく小物に思えた。
「結論から言えば、アルトさんから聞いたその女の子は、多分どちゃくそ可愛いわたしと同じです。とっても優しくて、それでいて目に見えないものに価値を置く子です。だから物理的な解決を求めるアルトさんは、その子と上手くお話ができなかったのかもしれませんね」
セアは自信を持って言う。だが、しばらくしても俺からの反応がないのを理解すると、「あっ、突っ込み待ちですよ」と言っていた。どこに突っ込みが欲しかったかは分かっているが、そんな事に思考を割くよりも、もっと他に考えることがあったから、あえて無視した。
セアは『自分と同じ』と言った。その言葉には首を傾けざるをえないし、何なら物事が見えてなさすぎて、失笑ものだ。どうして命を殺すやつと、命を馬鹿みたいに慈しむやつが同じなのか、紐づかない。
セアの中では、もしかしたら自分をそこまで高く買っている訳ではないかもしれないが、俺の中での彼女の評価は、そういう【馬鹿みたいな善人】という扱いだ。
セアには確かに、アクストゥルコのことを説明する時に、人を殺しているだとかの話は、教育的な面を考慮して、敢えて省略したが、それでもかなりの悪人であるということは、他の言葉を用いて、ちゃんと説明した。まさかそれを聞いていなかった訳でもあるまいし。
「なぜだ?」
だから尋ねたのだが、セアは不思議そうにした。本来その表情はこちらのものであるはずなのに、彼女は本当に分からさそうに困っていた。
「なぜ……と言われましても、わたしがアルトさんの話から受けた印象といたしましては、そのようにしか思えず……。第一アルトさんだってそう思わなかったんですか?」
「かなりの悪人だぞ! んなわけ……」
んなわけあるかと言おうとしたが、確かにアクストゥルコに対して、そんな思いを感じたことがあるのを思い出していた。いや、だがあれらは皮肉の意味も込めていた筈だ。歪な優しさだと。決して心の底からそう言った訳では。
心の中でいくつも言葉が交差する。自分の語彙や価値観では出口が見えず、四苦八苦した。その苦悶を解いたのはやはりセアだった。
「うーん。だってその子。相手の感情を優先してますよ」
その言葉にも驚いた。
相手の感情を優先している? 何を言っているんだ?
「ああ、こう言った方がいいですね。その子が【何より大切にしているのは感情】です。だから怒りっぽいし、泣きやすいし、優しくなりやすいんですよ」
相手ではなく、【感情を大切にしている】。それはまぁ曲解すれば、辛うじて理解できる部分ではあった。
感情を大切にする。それは穿った見方をすれば、感情に従うという意味にも捉えられる。感情が自分自身よりも上位のものになれば、振り回されることもあるだろう。だから周りが見えなくなって、命を奪うことも躊躇わない。そう、躊躇わなくなる。
そこまで考えて気づいた。
「……その女の子の行動は、確かに褒められたものではないですね。いっぱい人も物も、全てを傷つけたんですものね。でも行動だけで善悪を決めることなんて、できやしないんです。きっと」
セアの言葉が妙に突き刺さる。
でも、あと少しで完全に確信に迫れる予感があった。
「……それはその通りだ。なら、お前は具体的にどの点で、そいつが優しいやつだと判断したんだ」
セアに問いかける。彼女は憐憫にも似た顔を一瞬だけすると、答えた。
「相手に共感しているからですよ。アルトさん」
一言。たった一言。文字にすればたった数十文字の、なんでもない様な一言。実際セアからしたら、今の言葉は大したことではなかったのだろう。でもそれは、自分では決して辿り着くことが出来なかったであろう一言で、殺人鬼の人間性を言い表すには十分な真理だった。
「他者の心に触れやすい子なんでしょうね。相手の価値観を理解しようとしてくれています。
……わたしが思うにその子の本当は、【相手と触れ合おうとする良い子】ですよ。
でも、それだけ良い子なのに、酷いことをしてしまうのは、自分を思い出すことができないくらい、余裕がなくなっているからではないでしょうか。
だから自分がどれだけ酷いことをしているか、気づけなくて、あるいは酷いことだと気づいたら、動けなくなるから、あえて見ないフリをしている様な……。とっても歪で可哀想な子です」
俺があいつに抱いていた違和感の正体が、セアが今言ったことだとするなら、そんな良い子がどうして商談に食いつかない? その疑問をセアにぶつけたら、あっさり返ってきた。
「それは簡単ですよ。貴方がその子を取引相手として見ようとしているからです。
わたし言いました、その子は何より感情を大切にしているって。その子に助けてもらいたいなら、利益を示すよりも、もっと簡単に心の底から貴方が必要なんだって、一人の人間として見てお願いすればいい。
偽りなく【助けて】って言えば、それだけで、わたしだったら助けに行っちゃいますから」
言い終わったセアは、「ああ、途中から自分のことになっちゃってましたね」と、恥ずかしそうに頬を染めていた。
そんなセアから顔を背けるように、蝋の灯りの届かない暗闇に顔を向けて、「そうか」と呟いた。
セアは不思議そうに小首を傾げていた。今とった俺の行動は、教えてくれた人に対してするには、あまりに非常識だ。小首を傾げるだけで不快感を示さない彼女は、よっぽど人が良い。
非常識なことは十分理解していたが、それでも俺は顔を背けざるを得なかった。なぜなら、自分より何も理解していないだろうと思った奴が、当たり前のように、俺では分からなかった疑問に答えられたからである。
だが、それだけではこんな行動は取らない。
こんな行動をとった一番の原因は、セアがした表情だ。彼女は口には出さなかったものの、二つ目の疑問を投げかけた時、明らかに【そんなことも分からないのか】という顔をしていた。それが侮辱から来るものであるなら、まだいい。だが彼女は明らかに哀れみの目をしていた。
哀れまれる。それは自分にとっては、馬鹿にされるよりももっと酷いことであった。
だからこそ、反射的に顔を背けた。表情から動揺を悟られたくなくて。
「アルトさん?」
びくりと肩が震える。幸い蝋燭一本だけが照らす暗闇の中だからか、それはセアに気づかれなかったようだが、それでもこんな状態の時に、声をかけられるのは困る。
だがちらとセアにバレないように、彼女の様子を伺ったら、困惑した様子をさらに一層強めていたから、このままはまずいと判断した。急いで呼吸を整える。
「なんだ?」
声は冷静さを保ったものであった。
「いや、どうでしょう。疑問は解決できましたか? お役に立てました?」
「……まぁ、そうだな。助かったありがとう」
「そうですか、えへへ」
そう言って何が面白いのか、にんまり笑顔を浮かべた。その下手くそな笑顔を見るのは、今夜だけで二回目だった。
「まさか、お前に助けられるとはな」
その笑顔は自分には理解できないもので、まるで逃げるみたいに話題を振った。そしてそれが間違いだった。セアは俺が何気なく言ってしまった言葉を聞いて、顔をハッとさせた後、またあの哀れみの顔をして笑った。
「アルトさんはずっと旅をしてきたせいか……苦手……ですもんね。そういうの。わたしが笑う意味も、きっと理解できなかったでしょうし」
「どういうことだ?」
自分の顔が強張るのを感じた。そしてそれを自分が認識するよりも早く、無意識に聞き返していた。
「……一人で頑張る貴方は格好良いですけれど、わたしはいつも何も知りませんから。話されないことを分かって、期待されていないことが分かって、わたしは悲しくて笑ったんです」
何も言えなかった。正しくは何か言おうとしたのだが、言葉が頭に何も思い浮かばなかった。今まで生きてきて、どれだけ危機的な状況であっても、頭を回すことは忘れたことがなかっただけに、こんな経験は初めてだった。
「アルトさんは優秀ですからね。でもその取引相手の女の子には、できるだけそんな態度を取らない方が良いと思います。ちゃんと『お前の目が気に食わない』って、直して欲しい所を言っているんですから。感情は時折見えてしまいます」
「あ、ああ……」
「そんなことはない」とか、何か否定の言葉を言おうとしたけど、自分の口から出たのは、辛うじてその三語だけだった。
「わたしは、わたしとヘテル君は貴方の味方ですから、貴方が何か困ったなら、助けてあげたいんですよ。
……大丈夫です。色々言いましたけど、ちゃんと悪いとこを直せば、その子と貴方はお話できますよ。だって貴方は厳しいけれど、決して酷い人ではないから。……おやすみなさいアルトさん」
自分の役割が終わったのを察したのか、セアはそう言うと、そそと静かな動作でベッドに横たわった。しばらくした後に聞こえてきたのは、彼女の粗野な寝息で、大きく息を吸って大きく息を吐いていた。
机の上に置かれた手記はめくられることもせずに、同じページを開き続けた。それはまるで、時間が止まったようであった。
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