アルトさんの深い絶望の一端を覗き見た気がして、今度はわたしが何も言えなくなった。
「俺もお前には一つ聞きたいことがあったんだ。あの時の花の結界は何だ?」
「えっ……」
戸惑いの声が思わず漏れ出る。夜もよりも暗い彼の声音が、わたしの心をすくめさせたのだ。
「ユークリウスの、トドメの一撃を喰らうかって瀬戸際の時、俺は不思議な結界に守られた。あの時の結界の色や形は、お前の胸元のその花によく似ていた。そしてその結界は、およそ人間には使えない程、強力なものだった。
何の詠唱もなく、時間さえも追い越して、英雄と呼ばれる男の剣を受けきったあの結界は、はっきり言っておかしい」
恐らくは怒っているであろうアルトさんは、それでも口調は淡々としていて、説明の仕方も論理的であった。だけどそれがさらに、自分にとっては怖かった。そんな風に詰め寄られるくらいなら、声を荒げてくれた方が、まだ気持ちが幾分か楽だったと思う。
なんというか追い詰められていく感覚がある。
「俺はあの結界が作動するための予備動作とか決定的瞬間は見てないが、状況から考えてみるにあれを使えたのは……」
お前だろう? その言葉は今、実際には言われなかったものの、確かな言葉としてわたしの脳裏に響いた。
「あの結界は何で、お前は一体何者なんだ……」
アルトさんの言葉に、だんだんと熱が込められていくのを感じる。そしてそれに比例するように、彼に対する恐怖も増していく。最早相対して立つことが出来ない程だ。足は知らず後ろへと下がっていく。
その間合いを詰めるように、アルトさんは静かに歩いてくる。そのため、焚き火を追い越し逆光になり彼の顔が、夜の暗闇に隠され見えなくなる。けれどその顔に憤懣が満たされているのは見えなくても明白だった。
「そっ……それは、記憶が無くて」
頭はもうまともに働いていなかった。アルトさんから顔を背け、下を向き涙を流す。恐怖に包まれて膝を震わせていると、彼から漂う濃い疑惑の気配が、だんだんと薄れていくのを感じた。
「わかってるよ……その言葉は嘘じゃない。セアが何者かは、今はまだ分からなくていい。
だから俺の事も信じてくれ。確かに素性も知らない男が、やたらめったら不可解な力を使いまくったから、怖くも感じるだろうが。今回の事は、俺も余裕が無くなるくらい、追い詰められていたんだ。本当はもっとゆっくり時間をかけて、自分の事を説明したかったんだ……」
アルトさんの姿を視界に映す。
まだ眼は乾ききってなくて潤んでいるが、彼がする優しい態度という協力もあって、もう一度、顔を上げる事ができた。
「俺の事はおいおい話す。今は寝ることを優先しよう。俺にどんな不思議があろうが、死んでしまえばそこまでだ」
「だから、こっちへ」また穏やかな顔をして……いいや。先ほどとは違う、取り繕った笑みを浮かべ、毛布を手に取り手招きする。
今回のことは……流石に反省した。いくらなんでも酷すぎた。好意で色々と助けてくれた恩人に対して、失礼な事を言いすぎた。最早抵抗の意志はない。だからわたしは指示に従って、アルトさんから毛布を受け取ると、それを下に敷いて横になった。
わたしが横になったのを確認すると、アルトさんは焚き火の火を、木の桶の中に用意していた水で消した。それで、わたしから少し離れたところで横になったのだ。
色んな感情に苛まれ、それでも眠ろうとした時、彼は「最後に」と声を掛けてくれた。
「なあ、セア……俺は君の敵じゃない。それに君が、俺の助けなんか必要ないくらい心身共に強くなったなら、いなくなるつもりだったんだ。
セア。お前の疑念がどれだけ払拭されるかは知らないが、一様言っておく」
ゴロンという音が後ろの方から聞こえた。わたしの方からは見えないが、きっとアルトさんは夜空を見上げているんだと思う。息をのむ音。その後の一言は、衝撃的だった。
「俺は孤児だ」
口にも態度にも出さず、彼に背を向けたまま、顔だけを驚かせた。
「俺の体術は、街のゴロツキ共を倒すためや、野生の生き物を殺すために身につけていったもので。俺の知恵は、何度も何度も騙されて痛い目をみて、二度と後悔しないよう必死になって身につけたものだ。だからまぁ……命の取り合いは……他のやつより多少は慣れていると思う。戦わなければ今日の飯がなかったから。……それで魔法についてだが。
なんか気づいたら使えてた……。ただそれだけのことなんだ」
彼の人生を想像して先ほどの言葉にさらに罪悪感を覚えた。だけど悪いんだけれど、これだけは言いたい。
いや、最後!! 雑だなぁ!
「だからまぁ心配しないでくれ。俺はお前を必ず助けるから。それじゃ今度は本当に寝るぞ。明日は早くに起きる。少しでも疲れを取ってくれ」
背を向けているので見えないが、何かをアルトさんは取り出し頭の近くにコトリと置いた。そうして先ほどまであった、彼の確かな命の鼓動は緩やかなものへと変わっていった。
それを感じながらに思う。わたしも早く寝ようと。
アルトさんの言う通りだ。わたしの事も彼の事を考えるのも、まずは生きてからだ。そうした後にゆっくりとお互いを知っていけば良いのだ、それで良いはずなんだ。
最後の茶化した物言いは、きっと気遣いだったから。
瞼を落とすと、意識はだんだん遠のいていった。
*
パルス国の首都。夜の街。
辺りはすっかり寝静まり、家屋の灯りも、今はほぼ消えている。街を照らすのは遥か上空に浮かび上がる三日月だけ。
人々は皆、自分の居るべき場所にて、安らかに夢を見ている。
しかし街外れにある、少し風変わりな家屋にいる人物だけは違った。
この人物は眠りにつかず、家屋の一階の開かれた場所で、姿勢を正して座っていた。その手は重ね合わせられていて、月の光に照らされた姿は、神々しくも見えた。
かれこれ、もう二時間近くも体勢を変えていない。それほど深い祈りということだ。
その人物は自分の行いに間違いはないか、神に問いかけていたのだ。
その姿はまるで聖人のそれである。
……けれど、その人物を素直に聖人と言うのは難しかった。なぜなら、よく見ると衣服は乱れているし、誰も近寄るなとでも言いたげな、拒絶の意思が感じ取れたからだ。
何より、その人物の衣服の所々には、べっとりとした赤い液体が付着していた。
そんな人物は暗闇の中で一人、呟くのである。
「神よ。どうか血塗られた行いを許して下さい。あたしは、あたしは……人間が【憎い】」
それだけ言うと、この人物はまた眠るように、祈りを捧げるのであった。
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