銀の歌
幕間
ゴツゴツとした感触が後頭部から伝わってくる。
「ん、あぅ」
吐息を漏らして目を開ける。するとそこには見知らぬ天井。どうやら布団の上に寝かされていたらしい。
どれくらい眠っていたのだろうか。なかなかピントが合わず、視界がぼやける。
程なくして、少しづつ意識がはっきりとし始める。しかし自分が記憶を失っている可能性も考えて、自分の名前を心の中で呟いてみる。
あたしの名前は……アクストゥルコ。そう殺人鬼のアクストゥルコだ。記憶は曖昧ではない。しっかりと自分を理解している。ならばと、次は状況の把握に努めることにする。
光が差し込む。つまり今は夜ではない。そもそもここは家屋の中だ。あたしの最後の記憶では、野外にいたなのに。
情報が足りない。少しでも周りから何か得ようと、無理矢理身体を起こそうとする。すると額に、しわがれた指が押しつけられた。
そんなものと跳ね除けようとするが、力が全然入らない。指一本にさえ勝てず、布団の中へと押し戻された。
「麗しの姫様よ。今はまだ安静にしてた方が良いと思うぞ」
落ち着いた抑揚で、男性が声かけてきた。もちろんその声の主は、あたしの額に指を押し付けてきた奴だ。
「う、ウグルルル」
低く唸る。怪我をして傷だらけになったとしても、あたしは銀狼だ。誇りがある。絶対に人間なんかに屈したくない。
例え、今から殺されるとしても……。
最後まで反抗の意思は示させてもらう。
一族と己に固く誓い、瞳に映る男性を激しく睨む。
しかしそれを、こともなげに男性は受け止める。そんな殺意慣れているとでも言うように。怯えた様子もイラついた様子もない。至って自然体。そしてあろうことか、こんなことを言ってきた。
「大丈夫。無理しなくていい。当方が貴女を守ろう」
ーー我が耳を疑った。
一族がいなくなってから今まで、そんな言葉を言ってくれる人は一人たりともなかった。
だがここで思い直す。そうか、この人物はあたしを知らないから、こんなことが言えるのだと。
殺人鬼だと知らないから。だから、優しくしてくれるんだ。
頭の中で合理的な結論に至った。そのように理解してからは早かった。混乱は和らいでいき、少しだけだが、むしろ安心感さえもあった。
ならばこの行為の意味も、その言葉の意味も理解できる。つまり傷ついている人がいたから助けたに過ぎない。こいつは考えなしのお人好しなんだ。そういう人格の持ち主なら、事情を知らなければ、すぐさま攻撃姿勢には移らないだろう。あたしは睨むことを止め、大人しく目の前の人物に従った。
すると目の前の男性も安心したのだろう。側を離れ、温かい飲み物ーースープを皿に入れて持ってきたくれた。そしてスプーンでひとすくいすると、フゥーフゥーと息を吹きかけた。
「人肌の温度くらいには冷ましてやれたと思う。でも、当方は感覚器官が鈍いから、間違っていたらごめん」
理知的な喋り方だ。それに非常に温かみがある。スープを持ったその姿は、否応なく安心させられてしまう。
そうして口元にそれが差し出される。口に含もうかとも一瞬思ったが、いらないと自分の頰で押しのけた。
カランカランとスプーンが地面に落ちる。
「そういうことはしない方がいい」
男性は弾き飛ばされたスプーンを取ると、あたしをたしなめるように叱りつけた。
けれどこっちからしてみれば、そんな怪しげなものは体内に入れたくはないのだ。こいつの振る舞いからは敵意を感じないし、穏やかな顔は安心は出来る。だがだからと言って、信頼はできない。
油断を誘ってその後に殺される可能性だってある。あたしは何度だって人間に裏切られてきた。善意の行動に見えるけれど、それをそのまま鵜呑みにできるほど、あたしは純粋に生きていない。
人間なんて、人間なんて、絶対に信用……しないんだからな…………。
その時急にまたくらりと来た。おぼつかない思考を繋ぎとめようと試みるが、視界が歪み焦点が合わない。これほどまで体力が落ちているだなんて夢にも思わなかった。まさか首を少し振っただけで、もう体力がなくなるなんて。
「言わんことではない。もう体力なんてないんだ。身体は痩せこけてるし、血が固まって服と癒着してる。おまけに気力までない。大人しく飲んでおけば……。
人の善意は、それでも受け取って欲しかった……殺人鬼」
あいつは今、間違いなくあたしを指して、殺人鬼と言った。つまり今まで考えていた前提が、全て違っていたことを意味する。
あたしの事を知っている? 知っていて助けたのか……。であればいったいどういうつもりなのか。まさか、まさか【カリナ】……か!?
気を抜けば意識が飛びそうな中、頭を必死になって回す。けれど回そうとすればするほど、何も考えられなくなっていく。まるで海中を歩いているようだ。
最後の抵抗とばかりに命を削る思いで、耳を研ぎ澄ませた。そうして彼の【心の声】を聞いてみた。すると、『害を与えようとしているわけではない』。ということだけは分かった。
人間の種族なんて疑わしいが、疑わしいが……。すぐさま殺される訳ではなさそうだ。
それが分かると、どうやら張り詰めていた緊張が解けたらしい。自我はどんどん薄れ行き、深い闇の中へ落ちていく。その狭間、まるで子守唄のように橙の髪の男の言葉が聞こえてきた。
お前を殺しに来たんだよ…………。
その言葉だけが何故か、完全に意識が消えるまで、何度も何度も頭の中で木霊した。
「貴女にここまでの傷を負わせたんだ。彼の言葉が脳内に鮮烈に植え付けられたんだろう。
貴女はもう一度この小屋で起きる。その時には……ちゃんとスープを飲んでくれ」
✳︎
深い森の中。
「あたしを殺しに来た……だって?」
思わず聞き返す。「殺す」その言葉は別段聴き慣れていないわけではない。だがそれでも、面と向かって「殺す」と言われれば、誰だって驚くだろう。
だから、アルトがキョトンとした顔を浮かべたのは、あたしにとって想定外なことだった。
「な、なんだ! 何がおかしい!」
思わず怒鳴り散らす。しかしそのたびにお腹が痛んだ。
「いや、本当に。不思議だからだ。よくそんなことが言えたもんだ。お前はいつどこで、誰に襲われたって、文句は言えないぐらい罪を重ねているだろうが……」
思わず顔を引きつらせた。確かに言う通りだったから。人間からしてみたら、あたしはそんな存在で間違いないだろう。あまりの寂しさに、気でも触れていたのか。まるで自分が何の罪もないように思えてしまっていた。
もちろん人間にも罪はあるし、あたしは被害者でもあるはずだ。けれど今を生きる人間からしてみれば、あたしだけに罪があり、あたしだけが加害者のはずだ。そんな当たり前を、今この一瞬に限っては忘れていた。
あまりにも思考がおぼつかない。きっと疲れているのだろう。
「まぁ。なんでもいいよ。自分が賞金首だって思い出したんならさ……」
トントンと近づいてくる。まだお互いに射程距離ではないから、攻撃は届かない。しかしこのまま懐に入られるのはまずい。
自分のお腹をおさえながら、そんなことを考えた。もうどうしようもなく、辛いのだ。
「うぅ! うぅ……なんで、なんでこの場所が分かったんだ?」
威嚇をして、ジリジリと後退する。そして無駄と知りながらも、少しでも闘いを先延ばしにしようと、疑問を投げかける。答えても、答えなくても、あまり意味はない。だがそれでも問いかける。
そうするとアルトはぽりぽりと頭をかき、懐に手を伸ばした。その動作にびくりと震えるが、何か攻撃の前準備ではないらしい。彼は自分の顔ほどもあろうかという、二枚の紙を取り出した。それてそれらを、こちらへ投げたのだ。宙を舞った二枚の紙は、あたしの足元までたどり着いた。
「それを見てみろ」
アルトに言われるがまま、二枚の紙を覗き込む。そうして思わず息を飲みこんだ。
その二枚の紙に描かれていたのは、美しい風景画であった。繊細な筆使いだ。細かな所まで描かれている。小高い丘のような場所から描かれたのだろう。どこだかの街並みの全貌を子細に表している。
その絵を内心驚嘆しながら見つめていた。ただ気になるのは、両方とも同じ絵が描かれているという点。そしてしばらく二枚の絵を交互に見つめた後に気づく。
「これは」
あたしが言うと、アルトは呆れ気味に答えた。
「そうだよ。ようやく気づいたか。これはお前を見つけるために、俺が描いた絵だ」
二枚の絵を見比べると、一部分だけ変わっていることに気がつく。それは街の外壁の風景だ。一枚にはしっかりとした森の風景が、一枚には荒れた森の風景が描かれていた。
「お前が巨大な狼になって逃げ出した時、後を追おうにも出来なかったし。後日見に行ったら、森の荒れ方が乱雑で、どこに行ったか検討がつかなかった。
だけど俺は以前にもここに来たことがあって、その時、街全体を見渡せる場所で四方の絵を描いた。だったらまた四方の絵を描けば、違いが分かるんじゃないかって思ってな。
我ながら馬鹿で遠回りなことしたと思うが……。見つけられたんだ。だったらいいだろ?」
自嘲他嘲入り乱れた複雑な笑い。その声は聞いていて不快になってくる。アルトはそんなあたしの様子を眺めると、先程まであった口元の歪みを消して、「もういいか?」と鋭い声で言った。
「いい加減殺し合いを始めるとしようぜ」
殺意で濁らせた瞳。それをあたしに向けると、アルトは静かに剣を構えた。
その殺気に思わず唾を飲む。ここまで鋭い殺気を持つ人物に、あたしはあまり会ったことがない。相当な修羅場をくぐって来たのだろう、そのことが一声で理解できた。
まだ……まだ、あたしは戦いたくない。
まだ納得できていない。どうして殺されなくてはならないのか、その理由を聞いていない。恐らくはどこだかで恨みを買ったのだろう。復讐……あたしがそれを否定する道理はどこにもない。
ーーあたしだって復讐に生きているのだから。
だからせめて。せめて……誰の仇なのかを聞かせてほしい。
「お、おい!」
「なんだ? まだ何かあんのか?」
剣を構えたまま、柄悪く問いかけるアルト。その様子に少し怯みつつ、しかし勇気を出して問いかける。
「お、お前は、お前は……だ、誰の仇打ちで、ここに来たんだ」
はぁはぁと息を荒くしながら、やっとの思いで言い切る。ここまで息も絶え絶えになるのは、あいつが放つとんでもない殺気のせいだ。
アルトはしばし考え込むと、嘲を含んだ笑い声で「なんだ。そんなことか」と呟いた。
「なんだとはなんだ!!」
怒鳴り声を上げる。
せめてどういう思いで、自分が殺されるのか聞いておきたい。それぐらい教えてくれたっていいじゃないか。このままでは死んでも死に切れない。
そんな想いから叫んだのだが、あたしとこいつでは、価値観が全然違うらしい。アルトは「あはは」と狂気的に笑い始めた。
「ふ、普通のことだろう!? 復讐なんだろ? 誰かあたしに殺されたんだろう? せめて誰があたしに殺されたのか教えてくれ! お前の恋人か? 友人か? 親か? それを言ってくれたら、あたしだって……あたしだって、ある程度は……割り切れる。
なぁ、それくらいは人情だろ……」
多分震えていたであろう声で咆哮する。心からの叫びだ。命を奪って回る、あたしの最後の良心。きっかけはお前達とはいえ、自分もやってきた。だから復讐の連鎖の末に殺されるなら、文句は言えない。価値観は随分前に歪んだ。だけど歪んでいるとしても、曲げてはならないものはある。そんな矜恃。
それを、それを、目の前のあいつは、馬鹿にするようにほくそ笑んだ。
「ああ。殺人鬼が道理を語るか。いいよ、教えてやる。俺がどうしてお前を殺すのか。それはな……」
言ってしばらくの時間が空いた。その後、卑しい笑みで最悪なことを語られた。
「ーー金がいるんだよ」
「……は?」
思わず聞き返す。
「お前の首には一千枚の金貨っていう膨大な賞金がかけられている。それが手にはいりゃ、しばらくは金に困らん……。
俺はな……訳あって世界中を旅しなきゃならねぇんだ。そのためには金がいる。衣服を買うのにも、食料を調達するのにも、足を確保するのにも、全てに金がいる」
アルトは一息に語ってみせた。
賞金……。ああ。賞金か。
今までにもそういう輩は、頑張って思い返してみればいた。けれどそういった輩の考え方は、あたしには理解できないものだった。金のために誰かを手にかける。そんなの意味がわからない。金というのは、人間が作り出した概念だ。自然の中にそんな価値観はない。
何かを殺めるのは、不条理な時だけ。それだって実際に行う時辛いし、許されない価値観だろうけど。自分の利益のために、命を奪うなんてどうかしている。ーーそう考えていたんだけどな。
そんな独白をした後、心の中で、でもと呟いた。そして事実を自分に突きつける。
ーーでも、人間はお金が好きだからな。
昔のことを思い出す。家族や兄弟ともいうべき同胞達が殺されていく様を。そしてあたし達の一族を殺していった連中の多くがこう言っていた。「これで金には困らない」と。
頰に涙を伝わせ、アルトの方を見る。聞いてみればくだらない理由だった。こんなことなら聞かなければ良かった。そう瞳に想いを込めながら。
視線を受けたアルトは気まずそうに顔をそらすと、言い訳とばかりに言葉を述べる。
「……期待に添えなくて悪かったな。でもまぁ。そういう訳だ。だからよぉ」
命を奪う罪悪感なんて、感じていなさそうなその態度を見て、心底後悔する。もうあたしは、こいつを見るのも我慢ならなかった。
こいつも【カリナ】と同じだ。カリナと同じ気色の悪い人間だ。
瞳が潤み視界がぼやける。このままではこいつと闘えない。だから一度涙を流すために【瞬き】をした。
闘う準備をするために、瞼を閉じたはずだったのだが。今から戦闘態勢をするのでは、遅かったらしい。
涙を流し、もう一度瞼を開けた時、前方にあいつの姿はなかった。
そして自分の背後から鉄の匂いと、おぞましい殺気の気配を感じ取った。後ろへ振り返ると、そこには首元に迫る剣先があった。そして冷たい目をしたアルトが言う。
「まっ。死んでくれや」
ビュンと風が凪いだ。
幕間 前編 終了
読み終わったら、ポイントを付けましょう!