銀の歌
幕間
陽はすっかり沈んだ深夜。聖騎士団の駐屯所で、一人の女性が足音を鳴らして、廊下を歩いていた。褐色の肌と小金の髪を持つその女性ーアスハーは、先程まで治療室の寝台で横になり、精神の淀みを癒していた。
数刻前とある言葉がきっかけで、アスハは自身の胸の奥深くに封じ込めた記憶を、思い出してしまっていた。しばらくの間、暗雲の中にいるようだった。誰が何を言っても、動くことができないでいた。しかし一人の人物が彼女を抱き抱え、治療室まで運んでくれたのだ。
自分をそこまで運んでくれた人のことを思い浮かべ、アスハはふふっと微笑む。治療室での休憩を終えた今、彼女はその男性に礼を言うため、彼がいるであろう個室に向かっているのである。
個室の扉の前に到着すると、アスハは自分の身なりにおかしい所はないか確認をした。この扉の向こうにいる人物は、王国副剣士長という、高位の位についている彼女よりも、さらに高い位についている。敬意を表さねばならない人物だ。
ーー粗相をしてはいけない。
アスハはよく気を配り、自分の身なりを確かめる。執拗に汚点を探す様は、客観的に見て病的な程。
アスハがこの様に、念に念を入れて確かめるのには理由がある。上司の前でだらしない服装をしないよう心がけることは、どこの世界でも変わらない。それはここー王国聖騎士団コスタリカーでも変わらない。
しかしアスハがどこまでも自分の身なりを気にするのには、もっともっと大切な理由がある。それは彼女の表情を見ていれば、誰にでも自ずとわかる事であろう。
長い身なりの確認を終えると、ようやく目の前の扉に向かいあった。戸を軽く二回叩く。そうすると部屋の中から声がかした。
「入れ」
短く、完結で、冷ややかで、素っ気ないもの。しかしその言葉や発音の全てが、アスハにとっては心地よい。顔が緩みそうになるが、なんとか理性で抑え込む。真剣な面持ちを努めて保ち、部屋の中へと入っていった。
アスハは淑やかな所作で部屋へと入り扉を閉める。そして、内心浮き足立ちつつ彼女は顔を上げた。
視線の先には、この部屋ただ一つの椅子に座り、山のように積み上げられた書類と向き合う人物がいる。鋭い目と濃い青紫の長髪を持つその人物の名は、ユークリウス・ラーレアン。この大陸に産まれた人間なら、誰もが一度は耳にする大英雄だ。
「ふむ……アスハか。どうしたこんな夜更けに。もう明日が始まっている頃だぞ」
目も合わさず、書類に向き合いながらアスハに声をかける。低い音階と高圧的な声は、ともすれば怒っているのかと周囲に思わせるだろう。しかしそんな訳ではないことを、アスハは知っている。彼は器用じゃないのだ。
「はい……そのですね」
憂いを帯びさせた声。荒い息遣いはどこか扇状的だ。窓が締め切られた、閉塞的なこの小さな空間には、よく染み渡る。
アスハの声は誰よりも美しく優しい。彼女の声は聴いているだけで、誰もが癒しを得ることだろう。そして彼女の声を聞いたのならば、誰もが賞賛せずにはいられなくなるだろう。
そんな甘く美しい声だ。耳に入れば誰もが注意を向け、つい見てしまうことだろう。しかしユークリウスはといえば、先ほどの姿勢と未だ変わらず、書類と向き合い、ペンでなにやら書き込んでいる。
その姿に若干の不満を抱きつつも、内心アスハはホッとする。
今まで幾度も賞賛の言葉を浴びてきたアスハだ。自分の声が人を魅了することができるものだということを、彼女は嫌というほど、自分でも理解している。それに加え先ほど発した声は、好意をバリバリに乗せたものだ。それでもなんともならないのだから、ユークリウスという男はつくづく度し難い。
……だなんて思い半分と、『これでいい。この反応でありがたいんだ』という思いをアスハは抱いていた。彼女は自分の声に関連した出来事で、悪意ある者に傷付けられた。それは思い出すだけで憎悪と恐怖とを、思い出させる酷いもので。
だからアスハにとってみれば、声を褒められるというのは嬉しいものではない。ただそれでも、ユークリウスの前では、つい媚びた声を出してしまうのだから、感情というものは不思議だ。
「私のことを治療室まで運んで下さったそうで……。ありがとうございます」
アスハは感謝の言葉を述べる。それもやはり甘えた声で。
「気にする必要はない……。部下を助けるのは上司の責務だ」
あくまでもアスハの方を見ずに、許容の言葉を述べるユークリウス。何度も言うが、別に彼は彼女の事を嫌っているわけではない。彼は誰に対してもこの様な態度しか取れないのだ。
一番ユークリウスの身近に居て、彼の事を誰よりも良く知っているアスハだからこそ、その対応に何の不満も抱かない。ーー普段ならば。
「ユークリウス様……」
それは今まで出していた甘い声とはまた別の声音。そして極め付けは『ユークリウス【様】』。ユークリウスの事を好いているアスハといえど、立場は弁えている。二人きりだとしても、普段なら彼のことをちゃんとユークリウス剣士長と呼ぶ。
そのことを知っているユークリウスだからこそ、その声を、その言葉を聞いて、ペンをことり机に置いた。
アスハはその間にも、ゆっくりとだが、壁を伝い少しづつユークリウスのもとへ近づいていた。
「……どうした? 用が終わったのなら、自分の部屋に帰るといい。貴様には今回の騒動での事後処理である、書類作業がまだ残っていた筈だが……」
流石のユークリウスでも、アスハの態度をおかしいと感じ始めた。ようやく書類から目を離し、睨みつける様に彼女のことを見る。
「ーーッ」
ユークリウスのその鋭い眼光に、アスハはすくんでしまう。だがユークリウスに悪意はない。それに怒気もない。これが彼の普通なのだ。
いつもだったらアスハは内心で、不器用で可愛いなと思うことだろう。しかし今ここにいる彼女は、【普段通りの彼女ではない】。
「……ひっ」
アスハは怯えた声を出し、その場にへたり込み、うずくまってしまう。
「ーーどうした?」
表情一つ動かさず、ユークリウスは見下すように問いかける。もちろんユークリウス本人としては、精一杯の優しさを込めたつもりだし、普段と違うアスハの態度に、驚いて心配している。
「う……う……う……あぁ……あ、あぁああ」
声にならない声。アスハは喘ぐように、小さな口の隙間から音を出す。
「ーー」
ーーただごとではない。そう感じたユークリウスは、椅子から立ち上がるとすぐさま、うずくまるアスハの元へ歩み寄った。
「ーー本当にどうした?」
アスハの肩に手を置きさする。そしてアスハは、それを待っていたと言わんばかりに、ユークリウスの胸に飛び込んだ。
「……うおぉ……」
優れた体幹を持つユークリウスでも、不意を突かれたのもあって、身体を後ろにのけぞらせてしまう。だがすぐに体勢を整える。片方の手は自分を、片方の手はアスハを支える。
「どうしたんだ?」
ユークリウスはアスハの顔を覗くために髪をかきあげる。部屋前であれほど整えた髪は、今ではすっかり乱れてしまっていた。
髪をかきあげるとそこには……涙をボロボロと流し、焦点の合わない瞳を浮かべるアスハがいた。
「ーー!」
ユークリウスは眉間を動かした。そして彼は悟る。ああ、また彼女は戻ってしまったのだと。
「そこまで……そこまで君が怯えるような出来事が、今日起こったんだな?」
焦点の合わない彼女の瞳に視線を合わせ、ユークリウスは自分が持てる最大限の温かな声を出す。それに対しアスハは何も答えず、ただ涙を流す。そしてユークリウスの胸に顔を埋めると、今度は急にまくしたてるようにアスハは喋り出した。
「あぁ、あぁ、あぁ。やめて。やめて。やめて。やめて。やめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめて。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。だから私の喉を触らないで。お願いします。お願い……します」
泣きじゃくる。アスハは必死になって懺悔の言葉と否定の言葉を述べる。ユークリウスの分厚い胸板にこれでもかと顔をうずくめる。まるでここにはいない何かから逃げるように。どこまでもどこまでもユークリウスの身体に自分の身体を預ける。
「大丈夫。ここには君の恐れるものは何もない。もう君は奴隷じゃない」
ポンポンと頭を撫でる。優しく優しく。触れれば壊れるシャボン玉を包み込むようにユークリウスはアスハの身体を抱きしめる。しかし奴隷という単語を聞いた瞬間、よりいっそう彼女の狼狽は強くなった。
「あぁ! あぁ! あぁぁぁあ!!!!!! ごめ、ごめごめんなさいごめんなさいごめんなさい。だからもう私の喉に触れないで。私の身体に触れないで!! 私の中ー体内ーを覗き込まないで!!! あぁあぁあぁあ!!!!」
ポンポンとアスハの背中をさする。表情一つ変えないが、ユークリウスは内心焦っていた。背筋にぞくりと身震いする程の悪寒が走る。これではまるで、彼女と出会った頃と同じではないかと考えて。
「大丈夫だ。大丈夫」
ユークリウスには励ましの言葉をかけることしか出来ない。彼がかけられる慰めの言葉は、これが精一杯。
「あぁぁぁ……うぅ。
私を……好きだと言って。私を愛して。抱いて。抱きしめて」
アスハはユークリウスの背に手を回すと、身体を引き裂いているんじゃないかと疑うほど、力いっぱいぎゅうと握りしめる。
「ーーッ!」
あまりの力に、ユークリウスの身体はミシミシと悲鳴をあげる。しかしそんなことは知らないと、アスハは自分の握力や筋力がなくなるまで抱きしめ続ける。
ユークリウスは少しでもアスハが落ち着くようにと、彼女が言っていた言葉通りの行動を取ろうとする。
「ああ。もちろん。……ッ。もちろんだとも。君が好きだ。私は部下達皆を愛している。望むのならいくらでも」
ユークリウスも彼女のことを優しく抱きしめる。
「いくらでも……。抱きしめようじゃないか……」
しかしそんな言葉や行動だけじゃ、アスハの興奮を止めることは出来なかった。彼女が抱いている恐怖とはそれほどのものなのだ。彼女はこの部屋に来るのも、実はやっとの思いだったのだ。
ユークリウスのことを思い浮かべて笑みを浮かべた。彼が恐怖から救ってくれる英雄と信じて。
ユークリウスの部屋の前で身なりを確認した。汚物だと殴られないために。
ユークリウスに会って浮き足立った。恐怖にもう耐えきれなかったから。
あの奴隷時代を思い出して、恐怖に押しつぶされそうだったから。
「ああああ! たす……けて! 助けて!! 英雄、皆の。……違う。違う! 私の!! 私だけの!! 英雄!! 助けて私のユークリウス……」
「ああ。もちろん助けるとも。昔君を助けたように、また何度でも……。もう誰にも君の平和を犯させはしない。私がいる。私が君を守る。私達の班が君を守る。だから……だから安心してくれ」
しかしアスハは泣き止まない。ずっとずっと泣き続ける。
「あぁ。私の身体を見ないで……。あぁあぁ! 来る! 嫌!! 来ないで!! ダメ! 来ちゃう!! 【臓物の手】が!!」
【臓物の手】と聞いて、ユークリウスは顔をしかめる。彼が長年聞いていなかった単語だ。もっと厳密にいうならば、彼女の口からは長年聞いていなかった単語だ。彼女にトラウマを植え付けた存在。【臓物の手】。おぞましい最悪の奴隷商人だ。
不器用ながらもユークリウスは、長い時間をかけてアスハの側に寄り添い続け、彼女の心を癒してきた。
その甲斐あってここ数年、アスハの口からは、ついぞ【臓物の手】という単語は聞かなかった。彼女の心はようやく癒されてきたのだと、安堵していた。
しかし、それがここに来てこれである。ユークリウスは顔を歪めざるを得なかった。
「あぁ……………私の臓器を……返して。見ないで。返して。ごめんなさい。アスカはどこ? ママはどこ? 私の声を覚えないで……ごめんなさい」
くすんくすんとすすり泣く声に変わった。長らくつづいた激しい昂りは、ようやく終わりの兆しを見せ始めた。力強く抱きしめられた手にも、徐々に力がなくなって、アスハは床に腕をだらりと落とした。
アスハは元奴隷だ。昔臓物の手と呼ばれる醜悪な奴隷商人に捕まっていた。その時に母親は強姦された挙句殺され、アスハの実の弟は行方知れずとなった。
ただ一人、アスハだけがユークリウスという英雄に助けられた。
しかしアスハは殺されこそしなかったものの、とてつもない恐怖を植え付けられた。彼女は思い出す。醜悪な臓物にまみれた手で首元を掴んで来た、畏怖すべきあの人物の言葉を。
『君の声は素晴らしい。君の声を聞いた者は、もう君のことをきっと忘れられないだろうね』
喉を撫で耳元で囁かれた。その言葉に心の底から恐怖した。その時だ。アスハははっと焦点の合った瞳で、ユークリウスを見つめた。そして彼女は気づいた、気づいてしまった。自分が正気を失っていたことに。
そしてアスハは自分の胸から下腹部にかけて、指を這わせる。そうして彼女は。
「うぅ!!」
ユークリウスから顔を逸らし、床に向かって、体内のものを吐き出し始めた。
「おえ。おぼぉ。おろ。オェ。オェ。げっ。おろろ。おろ。オエッ。オエッ」
ビチャビチャと音を立てて、床に滴り落ちる茶色と緑の液体。路上にある水たまりのように、床にだまができる。そしてそこからは気色の悪い臭気が漂って来る。吐き気を催す臭いだ。近づくのをためらうほどのその臭気の中心で、アスハは動けないでいた。
四つん這いの姿勢で、際限なくアスハは、口から茶色と緑の液体を吐き出した。それは床につけた彼女の手を侵食する。彼女の手に気持ちの悪い液体がまとわりつく。
そこへユークリウスは躊躇することなく足を踏み込んだ。一つの手で彼女の手を取り、一つの手で彼女の顔を動かし自分の方へ向ける。
「あぁ。ごめんなさい。汚い……汚いですよ。ユークリウス剣士長。どうか近づかないで……」
口元から液体を流しながらアスハは喋る。理性を取り戻してしまったために、自分の恥ずべき行いを認識してしまう。そんな彼女は自己否定の言葉を繰り返す。アスハはユークリウスだけには、決して嫌われたくないのだ。
けれどユークリウスは、今度は自分の方から彼女の身体を手繰り寄せ、もう一度抱きとめる。
「大丈夫だ。君は綺麗だ。だから大丈夫だ」
アスハはそれを聞いて、もう一度涙腺に涙を溜めた。そして彼女はユークリウスの身体に自分の頭を、もう一度グリグリと押し込む。
「うぅぅ」
そして小さく声を漏らした。
アスハは臓物の手に本当にひどいことをされた。彼女は外ー身体ーにも中ー心ーにも恐怖を刻みこまれた。だが彼女の本当の恐怖は身体の外には無い。そして心にも無い。彼女のトラウマとは体内にある。
生きながらに解剖をされ、腎臓を肝臓を心臓を膵臓を腸を。そして声帯を握り締められた。
臓物の手という奴隷商人に捕まってしまった奴隷は、皆解剖をされたり臓器を引きずり出されたりした。しかし生きながらに解剖をされ、徹底的に中を覗き込まれて、遊ばれたのはアスハぐらいのものだ。
それもこれも全て、声が美しかったために選ばれたのだ。最悪の人物に興味を持たれてしまった。
アスハは自分の下腹部を撫でる。傷跡一つ残っていない綺麗な肌だ。誰もが羨むだろう。しかし彼女の体内は恐怖で満ち溢れている。
幕間 終了
すすり泣く声が聞こえる。そんな部屋の扉の前には、二人の人物が立っていた。一人は水色のポニーテールの女性で、一人は茶髪の男性だった。
茶髪の男性は言う。
「なぁ。こんなもの聞いてて楽しいか?」
口元をわなわなと震わせて、ポニーテールの女性と反対方向の床を見ながら言う。
「楽しい訳ないじゃない」
怒気を含ませた声で、茶髪の男性にすぐさま抗議する。そして続けざまに、悲しげな目をしてポニーテールの女性は呟く。
「でも、聞かなきゃいけない。あの人のことを受け入れられる人は、もっといなきゃいけないと思うから。私達があの人達の親にならなきゃいけない。……んだと思う」
茶髪の男性は静かに目を瞑る。ポニーテールの女性の言葉ーー怒りがまだ終わっていないのを感じてのことだった。
「ユークリウス剣士長もアスハ副剣士長も、まだ子どもだよ。……大人になれなかった。特にアスハ副剣士長にはどうしようもない理由がある。だから私達は彼らのわがままや足りない所を補ってあげなきゃ」
無言で男は聞き続ける。
「一番可哀想なのは、二人ともなまじ実力があったこと。……すぐに高位の位につけられた。それは確かに名誉なこと。でもだからこそ、誰にも助けを求められない。
誰かが知っててあげなきゃ。天才や英雄が不完全なことを。そして」
ポニーテールの女性が涙目で力を込めて言う。その先の事も言おうとしたけど、茶髪の男性に先回りされてしまった。
「助けてあげなきゃな……俺もそう思うよ」
「俺も」と言う茶髪の男性は、普段は貴族然とした態度でそうそう自分を見失わない。けれどこの時ばかりはどこか雰囲気が違った。
「一人称ずれてるよ」
ポニーテールの女性に指摘されると茶髪の男性は薄く笑った。
「いいさ。今はお前しかいないんだ。それに俺は、今は自分の立場や気品を気遣うよりも、アスハ副剣士長やユークリウス剣士長の幸せを願いたい」
「……今回の件は、俺の責任だしな」ボソッと呟いた。けれどポニーテールの女性はその言葉は聞かなかったフリをして、彼らの幸せを祈るという一部分にだけ同意をする。
「そうね」と物憂げに呟いた。
ユークリウスの思考回路。
好きだと言って。
→皆好きだ。
愛して。
→好き……とは違うのか? 人々は皆好ましく思っている。愛しているぞ。
抱いて。
→勿論だ。
抱きしめて。
→今度こそ同じ意味かな……。
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