銀の歌
幕間
鉛色の空、深夜の山中、一人の女性が駆けている。山林は地面を覆い隠し、山を駆ける彼女の姿もまた、雑多に生えた木々が覆い隠していた。
「逃すな! 追え! 四方から詰めるんだ」
彼女を取り囲むように、いくつもの影が、一定の間隔を開けて迫る。彼女を追う影はどれも油断なく動いており、その動き方だけで、鍛錬を十分に積んできた者達なのだと、一目で分かるだろう。
影達は、互いを鼓舞するように、また威圧をかけるために大声を出し合う。
女性ーアクストゥルコーはやりにくさを感じていた。
ヒーローと名乗る謎の男に助けられてしばらくは、誰かに狙われることのない平和な毎日を送っていた。でも今は、気付けば謎の影ーー聖騎士団に囲まれている。
おかしい。油断した訳じゃないのに……。
アクストゥルコは心の中で独白する。
いつのまにか包囲されていた。どのくらいの人数かは分からないけど、動き方を見る限りは指揮官がいそう。それに……。
アクストゥルコは不安げな面持ちで、迫ってくる聖騎士団達のもっと奥の方を見る。
炎、灯があんなにもたくさん……。
それは一部だけではない。炎は、アクストゥルコを囲むように、ぐるりと際限なく焚かれている。こんな状況では、いかに彼女が、人外の力を持つ銀狼だとしても、傷ついている現状、突破は苦しい。
揺れ動く炎よりももっと近く、周りを取り囲む聖騎士団達の方をこそ、アクストゥルコは警戒するが、彼らは無闇には攻めては来なかった。まるで何処かへ誘導するような動きだった。
そんな彼らの不審な動きに不安を覚えるが、実際どうすることもできない。だからアクストゥルコはただ、聖騎士団の誘導に従って動いていく。
動きが……制限される……。嫌な攻め方だ。
ダングリオでの騒動が過ぎ、長い時間が経った。そのためアクストゥルコの体調は、あの時よりはずっと良い。しかしかといって、問題なく動けるかと言えばそうではない。まだまだ万全とは言えないのだ。
ーーアクストゥルコが人外の力を持つことは確かだ。驚異的な力、一度の跳躍で、何十メートルと跳ぶこともできる。でも、今の彼女ではそこまでだ。何度も何度も、常識外れのことが出来るほどには、体力が回復していない。
一度の跳躍では、迫り来る影を飛び越すのでやっとだろう。もう一つの囲みまでは突破できない。
アクストゥルコは迫り来る影の後に続く、揺れ動く炎に対して、忌々しげに低く唸った。あれのせいで、迂闊な行動ができないからと。
このまま走り続けることが、ゆるやかな死にしか繋がっていないと悟りながらも。それでもアクストゥルコは山林を駆けるしかなかった。そうしてその決死の鬼ごっこが数分続いた後、その時はやってきた。
アクストゥルコはどこかに隙はないかと探して走る内に、ある一箇所に違和感を覚えたのだ。
ぱっと見では分かりにくいが、立ち止まってよく見れば、気づけるような隙。
包囲の一部分だけ灯がなかったのだ。
アクストゥルコを近くで囲む聖騎士団は、一定の間隔を保って、油断なく不意打ちに備えているが。逆に言えばそれだけ、たったそれだけの障害だった。
これだけなら、彼らの攻撃が届かない高度まで跳んで逃げればいい。こんな簡単なことが出来なかったのは、その先が続かなかったから。どこへ逃げればいいか、分からなかったから。
……しかし、今は違う。活路を見た。
アクストゥルコはー今日だけではないー野山を逃げ続けてきた経験から、あの灯りのない場所、その先が渓谷のような地形になっているであろうことを確信した。
一本道になり道が狭くなるので、隠れることは難しいが、集団で追いかけることも、また難しくなる。だから問題ないとアクストゥルコは考えた。
追ってくるやつらが、一瞬でも隙を見せたら、急転換してあそこまで一気に駆け抜けてやる。
内心でそんな作戦を立てて、逃走劇を続ける。
そして彼らが隙を見せる瞬間は、意外と早くきた。
一人が転んだのだ。一見すると馬鹿に思えるが、それは違う。暗い野山で、手元に明かりもなく駆け回るのは、それ自体がそもそも無茶な行為だ。枯れ木や木の根に足を引っ掛けるのは、半ば必然だったろう。
ともかく……アクストゥルコはそれを好機と捉えた。すぐさま行動に移そうとしたが、ーー何か違和感を覚え立ち止まった。これが彼女の生死を分けた。
ポツリと、人よりも少しだけ飛び出た鼻に、水滴が当たった。空を仰ぎ見てみれば、雨が降り始めていた。
最初の数秒はポツリポツリと降っていただけだったが、すぐにそれなりの雨粒となった。
アクストゥルコの方はと言えば、『そうか雨か』程度の認識だが。彼女を追いかける、聖騎士団側からしてみれば、この雨の意味は大きく変わる。
アクストゥルコを取り囲む聖騎士団の動きは、見るからに悪くなった。
その機を見逃さず、アクストゥルコは彼らの頭上を跳びこえた。
「包囲を突破された! 他の班頼む!」
ダダダと駆け出し、彼らが体制を整えるよりも素早く動く。そしてアクストゥルコは、そのまま渓谷に繋がる道へ……は行かなかった。
灯が消えて、彼らがもたついた動きをしたために、アクストゥルコは気づいたようだった。これが誘導だということに。彼女自身、不思議には思っていたのだ。いつの間にか包囲されていたことを。
別に夜行性ではないアクストゥルコは、一般的な生物と同じように、夜には眠くなって感覚が鈍くなる。けれど大人数で動かれれば、常に警戒している彼女は、流石に気づけた筈なのだ。
でも今回はそうならなかった、それは何故か。分かれば答えは簡単で、聖騎士団は、そこまで数を動かせてはいなかったのだ。いかんせん作戦決行までの準備期間が短すぎた。
アクストゥルコは自身が想定していたよりも、聖騎士団の人数が少ないだろうという事実に思い至れた。なので最初から空いていた渓谷への道は、危険ではないかと察知した。
人数が少ない彼らは、人数以外の手で攻めてくるのではと考えたからだ。
代わりに、一番最初に火が消えた場所へと向かった。それは、ただ目についたからというだけの単純な理由だった。言い換えれば単なる直感である。
ーーだからアクストゥルコがそこで、【彼女】と出会ったのは偶然だった。
炎が消えた場所まで突っ込むと、案の定、人影はほとんどなくて、十分に対処可能な人数だった。そのまま包囲を突破するために、猪突猛進に突っ込んでいく。
そして、それを止めることができる者は、この場には誰もいなかった。どころか何人かは、彼女の残忍な爪を前に、首と胴を切り離され、絶命した。
やがてアクストゥルコの視界には崖が見えてきた。辺り一面真っ暗なため、どのくらいの高度かは分からないが、慎重に降りれば大丈夫だなと彼女は判断した。
そこから逃げ出そうと目的地を定めて、さらに加速して突っ込もうとした。そんな時だ。
鼻先を鋭利な刃物が掠めた。それは刃物特有の光沢のある残像を残し、アクストゥルコの足を止めさせた。急に止まろうとしたため、やや態勢が苦しかったが、それでもなんとか止まることができた。それから距離をとると、自分に血を流させた人物を、品定めするように眺めた。
アクストゥルコの目の前にいたのは、水色のポニーテールを揺らす一人の女剣士だった。
その人物は銀製の額当てをつけ、剣を構えている。立ち姿は毅然としているが、どこか怯えが見えるし、華奢な体躯はそこまで強そう思えなかった。
だがそれでもアクストゥルコは足を止めてしまった。
思いの強さで実力が変わる、なんてこと考えているわけではない。でも剣を構える彼女の姿に、上手く言葉にはできない不安を感じたのだ。
しかしアクストゥルコは飛び込まなければならない。彼女の剣戟が届く領域へと。だってあの女の向こうに崖があるのだから。
そんなアクストゥルコの、ふつふつと湧き上がる怒気を一心に正面から感じながらも、剣を持った女ーートーロスは頑として動かなかった。ここが正念場だと理解しているのだ。
彼女達の間に言葉はない。
互いに目的は違うとしても、今やるべきことは同じ。すなわち。
【ここでこいつを倒す】
アクストゥルコは一切の助走なく、即座に最高速を出し、弾丸のように、トーロスの間合いに入り込む。
「ーーッ」
驚きと戸惑いの声はトーロスのもの。しかし表情には安堵の感情が見えた。
トーロスは殺人鬼と一騎打ちで闘ったことはなかった。でも色々な所で見聞きした情報から、もし一対一で対峙するようなことがあれば、こうなることは予め理解できていたからだ。
なので彼女はアクストゥルコが地面を跳躍する前に【既に剣を振っていた】。
その先読みは功を奏し、このままいけば間違いなく当たる……筈だった。
身体能力がすべからく劣るトーロスは、頭を使って対策を立てていた。それは素晴らしいことで、実際役立つこともあり得ただろう。
ただ常識外れの存在とは残念ながらいる。アクストゥルコは、トーロスの予想を軽々と上回る身体能力を持っている。
アクストゥルコは腕力、脚力はもちろん、耳や目も驚くほど良い。彼女は自分が飛び出した時、剣が振るわれるのを見た。見てしまえば対処は容易だった。軌道からそれるように、身体をひねらせていた。
そして面食らったお返しとばかりに、トーロスの腹部を、防具や前掛けごと引き裂き破壊しながら、残忍な爪でえぐった。
「あぐぅう!!」
激痛が走る。目を閉じてしまう程の痛みで、足はよろけ身体は宙に舞う。トーロスの腹部には、大きな爪痕が作られ、お腹の肉、脇腹あたりの皮膚が剥がれ、白い肋骨の骨がむき出しになり、赤い血に滴った肉が飛び出した。
それを見たアクストゥルコは勝利を確信し、このまま一気に駆け抜けようと、再び地を蹴って跳んだ。
そんな時だ。宙に浮かぶトーロスに、アクストゥルコは剣の柄で殴られた。パキパキと頬骨が割れていき、彼女もまた痛みから悲鳴をあげた。
「アオオン!」
アクストゥルコが不幸だったのは、もう既に跳んでしまったということ。
急には止まれない。ましてや地に足ついていない状態で姿勢制御なんてできるはずもない。アクストゥルコは地面の隆起した、硬く尖った岩に頭をぶつけると、その衝撃でさらに跳ねて、そのまま崖を転がり落ちていった。
トーロスは崖から落ちはしなかったものの、その場に仰向けに倒れ、「はぁはぁ」と息を吸い込むことで、精一杯となってしまった。
雨が降っている。仰向けで倒れるトーロスの傷口にも、雨粒は当たり染み込んでいく。最早感覚など激しい痛みの前にありはしなかったが、雨粒が染み込むたびに、腹部はピリリと痺れ、血の流出は加速した。
このままでは血が足りなくなり、出血死することは明確だった。
トーロスの視界は徐々にぼんやりとしたものにかわり、曇天を睨みつけることもできなくなっていった。
隆起した岩についた血も、雨に流れ地面に染み込んでいった。それを滲んだ視界で見届けたトーロスは、満たされたように少しだけ微笑むと、瞼を閉じた。
幕間 終了
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