銀の歌
第90話
ヘテル君を一人残して、わたし達だけが宿に着いて数十分が経った。なかなか彼が帰って来ないので、わたしは不安から、部屋の中で落ち着きなく動き回っていた。
トーロスさんに『ヘテル君と二人きりで話したいことがあるの』と言われた時には驚いたが、きっとアルトさんが上手く誤魔化すだろうとたかをくくっていた。
しかしアルトさんは誤魔化すどころか、吟味した様子ではあったものの、ヘテル君に二人で話すことを勧めていた。
当然その時、わたしは慌てふためいて、『アルトさんの言葉は冗談で』みたいなことを言って、うやむやにしようとしたけど止められた。
それでアルトさんやわたしからの了承は得たからと、トーロスさんはヘテル君にもう一度尋ねた。そして二人はあの丘に残ることになってしまった。
宿屋にいる今でも、正直あの時のアルトさんの行動の意味が分からない。自分ではそういった危険からは遠ざけるように動いていたくせして、よりにもよってバレたら一番危ない聖騎士団の人と、二人きりにしてしまうなんて。
もちろんトーロスさんが人格者だというのは、ちゃんと知っている。だから例えバレたとしても、すぐさま斬り殺されることだけはないだろう。
でも不安は拭えない。頭の中では『いや』という言葉や『でも』といった反語が浮かんでくる。問答を何度も頭の中で繰り返すたび、現実のわたしはそわそわして、落ち着きがなくなってしまうのだ。
「どうした、そんなにそわそわして?」
「いや、そわそわしたくもなりますよ!! ヘテル君……気づかれちゃうかもしれないっていうのに!! それなのに、なんでアルトさんはそんなに落ち着いていられるんですか」
動き回るわたしとは対照的に、アルトさんは椅子に腰掛け優雅に過ごしている。しかも本まで読んでいる始末だ。ちょっと余裕すぎではないだろうか。
「わたしは……わたしはトリオンさんとの件で、少しだけですけど、それでもわたしなりに学びましたし、考えたんです。ヘテル君がどう世界と関わっていけばいいのかとか、守り方とかに関しても」
「ふーん」
アルトさんはカチャリと、化粧台の上に置かれたカップを手に取ると、ずずっとその中身をすすった。
本当に落ち着きすぎじゃないだろうか? ヘテル君がバレるかもしれないということを、この人に限って考えないはずはないと思うのだが。
「ねぇ、アルトさん……」
すがるように呟くと、アルトさんはカップを化粧台の上に戻した。そしてわたしに向き直る。
「……最初に言っておくが、誤魔化すような言葉を使うのはもう止めろ。耳障りだ。あいつがバレるかもしれない? んなこた百も承知だ」
アルトさんの目付きは鋭かった。獲物を矢で射殺す時のような感じだ。その迫力に気圧され、わたしは口をもごつかせると閉じてしまう。そして彼の言葉の意味を頭の中で反芻させる。
誤魔化すような言葉? そんなこと分かっている。
「あの女剣士、トーロス……って名前だったよな? あいつにはもうバレてるだろ」
何も返さなかったが、心の中ではでしょうねと、嫌に冷静な声で返していた。
「分かってる上で、話させた方がいいと判断した。
大丈夫だ。トーロス……奴はかなり信用できる。ヘテルの正体を理解していながら、他の奴に何か言うこともなかった。本当に個人的な何かを言いたいだけなんだろう。あそこで断ったら、返って遺恨が残るかもしれん。それで本格的に狙われるはめになったら、それこそ危険だ」
「それは……まぁ、そうかもしれませんが……」
「大丈夫だよ……。ヘテルが傷ついて帰ってくることはあるかもしれないが、【ずっと帰ってこない】。なんてことにはならないよ。それはトーロスの人柄をよく知る、お前の方が分かることだろう?」
そこまで言われてしまうと、流石に黙らざるをえない。
アルトさんに言われるまでもなく、わたしは……わたしの方が、トーロスさんのことをよく知っている。だから結局の所、彼らを信じて待つほかないのだろう。
「ん、でも……まてよ」
そこで思いつく。
「アルトさん。二人を信じているわたしから言わせてもらえば、トーロスさんがヘテル君を傷つけるとも思えないんですけど」
アルトさんは先ほどずるいことを言ったのだ。少し意地悪いが、このくらいの反論はされても仕方ないだろう。
アルトさんは本をぱたんと閉じると、予期していたように落ち着いた声音で返してきた。
「身体の話じゃない。心の話だ」
「それでも少し分かりませんけどね……」
「いいや、あいつは多分言うだろうさ。なんせ悪役を買って出てくれようとしてるんだからな」
そこまで言われて、ああと納得した。優しいトーロスさんなら、確かにそんなことをするかもしれない。アルトさんに言われるのは、なんというか少し癪なことで、顔をしかめたくなるが。
「そう妬むな。アレの近くに居ないからこそ、こうやって皮肉交じりに見れるだけだ。あいつのことなんて、俺は碌に分かっちゃいないよ」
アルトさんは手を頭の後ろで組むと、くたびれて言った。彼のことを知らなければ、これが彼なりの気遣いだということに気づけないだろう。
「まぁ、なんにせよだ。今言ったことはあくまで予想でしかない。具体的に何をされたかは、ヘテルにしか分からない。ただ帰ってきた時には、なんだ……。それなりに気持ちを汲んでやる必要があるだろ」
アルトさんがため息混じりに言うと、ガチャリとドアが音を立てて開いていった。丁度よくヘテル君が帰って来たのだ。そして嫌なことに、アルトさんの予想が当たっていたみたいで、彼はどこか憂鬱そうであった。
気後れしたが、心の準備は今の話し合いで出来ていたので、なんとか笑顔を見せることができた。
「おかえりなさい」
「ただいま……」
俯いていってしまうほど、か細い声だったが、取り敢えず返事をする元気はあったみたいで、それはまだ幸いだった。
✳︎
ヘテル君が十分に落ち着いたのを待って、アルトさんはトーロスさんとどんな話をしていたのかを彼に聞いた。
辛いことなら、話させない方がいいんじゃないかと思ったので、一様陳情した。
しかしアルトさんは分かりきったような顔をすると、『それでもだ。あいつのことを信用したとしても、絶対じゃない。知っておかないと取り返しのつかないこともある』なんて言っていた。
それでもわたしが、まだ納得できず、口をへの字に曲げていると、彼が耳打ちをして来た。
「何を言われたかが分かれば、かける言葉も見つかるだろ?」
結構な説得力があったので、そこで反論を諦めた。
そうしてアルトさんの質問の元、ヘテル君があの丘でのやり取りを語ってくれた。その最中に案の定、辛そうな表情をしていたので、やっぱりやめといた方がよかったんじゃないかと思ってしまった。けれど話はもう終盤で、今更言った所であまり意味はなさそうだった。
「ーーーーだったよ」
「なるほどな。やっぱりあいつは優しいな」
ヘテル君の話を全て聞き終わった後、アルトさんは目に賞賛の色を浮かべて、トーロスさんのことを褒め讃えた。
実際客観的に聞いていて、やっぱりトーロスさんの振る舞いはとても精錬で、正しさと優しさが、丁度いい分量で配合されているようだった。
だが……今はトーロスさんのことを褒めるタイミングではない。アルトさんは人の言葉や、行動の裏を読むのは出来ても、彼の今の心の機微は分からなかったのだろう。
アルトさんが素直に感心する横で、わたしは前に出てヘテル君の側によると、彼の身体に触れて、自分の方へと抱き寄せた。
「わたしの友達が酷いことを言ってごめんなさい。一人で戦わせてしまってごめんなさい。よく頑張ったと思います……」
アルトさんが後ろで小さく呼吸した音が聞こえた。それははっきりと分かる後悔の証で、彼は今更ながら、ヘテル君がどれほど暗い表情を浮かべているかに気づいたのだ。
確かに話を聞くことで、どんなことをしていたのかが分かって、取り敢えず追われることとかはなさそうで、少なからず安心したのはわたしも同じだ。でもーーそうじゃないだろう。
今わたし達がすべきことは、なによりもヘテル君の無事を祝って、一人きりで乗り切った、彼の頑張りを認めて労うことのはずだ。
「帰って来てくれてありがとう……」
なるべく慈愛を持って抱きしめる。するとヘテル君は最初こそ、少し恐々としていたが、やがてされるがままになり、顔を埋めて来た。
話を聞いていて分かったが、ヘテル君をこのままにしてほっておいたら、今日のことは彼の中に深く影を落とし、確実にトラウマの元となっていただろう。
ヘテル君は大人びているようにも見えるが、彼はまだ幼い。辛いことがあったんだ。今くらいはきっと甘えていい。
すすり泣く音が聞こえて来た。その音は夜間になるまで収まることはなく、また、涙はわたしの服を湿らせ続けた。
第90話 終了
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