銀の歌
第48話
「さて、逃げるとするぞ」
「えっ? 逃げるるぅ……逃げるんですか?」
予想とは正反対の事を言われ、舌がもつれて思うように喋れなかった。
「でも前回のラストでアルトさん。格好つけながら『フッ……クゥリエィトゥゥオオ』みたいな感じで、言ってませんでしたっけ?」
「言ってねえよ。燃やすぞ」
怖い。もしかしたらアルトさんにはカルシウムが足りていないのかもしれない。
「今回俺が使った魔法は、七月魔法の『インビジブル』だ。……正確にはインビジブルを指標として、俺流の改造を施した下位互換だがな」
下位互換なんだ……。こういう時って普通、上位互換じゃないのかなぁ。
「なるほど、それで効果はどんなのです?」
アルトさんはグルーガ・ハリフの方を見てみろと、指し示した。なのでそちらを見てみる。
するとそこにはやはり、何ら変わることのないグルーガ・ハリフの横顔があって……。ただ先程と違って、鼻をヒクヒクと鳴らしている。何か新しい獲物でも探すように。
そんな感じで、別段グルーガさんに変わったことはなさそうだが……。
「ん?」
変わったところがない……?
ハッとしてアルトさんの方へ顔を向けると、彼はその通りと頷いていた。
「そうだな。お前が気づいた通り。効果は気配の遮断だ。俺のは魔力消費を抑えた下位互換だから、全部をごまかしてはいないけど、幸いまだこちらを認識してはいなかったからな。それだったら、この通りなんとかなる」
そう言うアルトさんの後方で、グルーガン※がわたし達という名の、獲物の気配を感じていながらも、見つけられないようで、やきもきしている姿が目に入った。
※グルーガ・ハリフのこと。
「あいつは強いからな。闘わずにすむなら、それに越したことはない。それに今は……分が悪い」
ちらっと一瞬だけこちらを見ると、アルトさんは再びグルーガ・ハリフの方を見た。いったい何を見ていたのだろうか……。
「さ、俺たちは早いとこ行くとしようぜ。気づかれないように……な」
騒ぐなよ。暗に示していたのだろう。それだけ告げると、船の後方へ戻り、置き去りにした櫂(かい)を掴んだ。
「だが……解せんな。あいつの生息域はここじゃないだろうに……」
一言、恨み言のように呟くと、波が立たないように、ゆっくりゆっくり漕ぎ出した。
✳︎
「ふふふ。まぁ、この調子でいけばなんとかなるだろう」
アルトさんは得意げな顔で語る。あんまりにも得意げなので、ちょっとだけ子どもっぽさがあった。数分間、ひたすら漕ぐことに神経をすり減らしていたんだ。アルトさんがそんな風になるのは仕方ないよなーと考えて、なるべく気にしないようにしてあげた。
船の前方部分ーー向こう岸と思われる所を、注意深く眺めた。すると。
ようやく……と言っていいのだろうか。遠目からでも分かる、印象的な黒地の布を見に纏ったあの子。佇んでいるシーちゃんが視界の中に入った。
「アルトさん! 見えました! 向こう岸です!」
声を張り上げて言う。先程まで抑圧されていたから、普段よりも大きめだ。そうしたらアルトさんにお叱りを受けた。
「声が大きいぞ……。まだあいつに聞かれるかもしれない! 大声を出すのは控えろ……!」
しかめっ面でアルトさんが言う。その言い方は決して優しくはなかったから、つい不満を感じてしまう。
グルグル※はもうほとんど見えないし、逆に対岸は視界に入ったのだからと。
※グルグル=グルーガ・ハリフのこと。
心の中でブーたれていると、不意に風切り音が聞こえてきた。何かがこちらへと迫ってきているのだ。音がする方を見てみるとそこには、銀色に輝き飛翔する、手紙を携えた鳥さんがいた。ようするに銀糸鳥(ぎんしちょう)だ。
アルトさんも銀糸鳥の存在に気づいたようで。
「銀糸鳥か。あーーー、まったく変な時に届くもんだ。……状況からしてお前宛か?」
考えながら喋っているのだろう。時々合間を作りながらのゆっくりとした喋りだった。状況確認も含めたものだったから、アルトさんが言い終わった後、二人一緒に気づいた。
「セア!」
「はい!」
アルトさんが何を言うか、わたしが何をするべきか、理解していた。だから元気よく言うと立ち上がり、熟練の武闘家のように構えをとる。ついでに雰囲気も醸し出した。
「グルーガ・ハリフ(あいつ)から大分離れたとはいえ、さっきみたいにドタバタ騒いだんじゃ、まだこの距離だと気づかれる可能性がある!」
「はい!」
両手を前に出し、顔を真夏の稲川淳二ばりに濃くしてゆく。
「教えたな銀糸鳥の受け取り方は……!」
「ああ……」と声を低くして答える。
そうして気が高まりきった時、銀色の鳥は、目と鼻の先だった。アルトさんから声がかかる。
「いけ! セア!!」
「はい!!!」
先ほどの銀糸鳥騒ぎでアルトさんから怒られたあの時……。次はしっかり掴もうと決意した。
アルトさんから『こんな感じで受け取るんだよ……』という講義も受けたが、そんなことはどうでもいい。
次はこういう風にして銀糸鳥を取ろうと、密かに頭の中で描いたんだ。そんなわたしが今から行うのは、銀糸鳥の身体を、左右から優しく包むようにして掴む必殺技。
「ハッ!!!!!」
その名も白羽取りだ。……鳥だけにね。
集中したかいがあったのか、高速で迫ってくる銀糸鳥を、見事に白羽取りで掴むことに成功する。
やった! わたしは大いに歓喜し、又、これで騒いで気づかれるようなことはないと安堵した。
ーーしかしそう思ったのもつかの間、銀糸鳥が左右の手の隙間から、ぬるりと滑り出てきたのだ。
「げぇ!」
すっぽ抜けた銀糸鳥はそのまま、わたしの顔に飛び込んでくる。唐突なことに回避することもできず、銀糸鳥の攻撃(郵送)をもろに食らってしまう。
ドズン!! 銀糸鳥の嘴が鼻に刺さる。
「ウォォ!」
どたんとボートにへたり込み、大きな音を辺りに響かせてしまう。小舟の揺れが、辺りへ伝わっていく。
「おいいいいいい! 何やってんだぁぁぁぁああああ!!!」
アルトさんからツッコミが入る。あれほど大きな音を出すなと言われ、それを守れなかったのだから、叱られるのは当然のことだとは思う。
でもアルトさんの声の方がうるさいと思うんだ。
ともあれ。わたし達は反応を見るべく、二人揃って瞬時にグルーガ・ハリフの方を見る。
ザパザパ。
※こちらに向かって泳ぐ音。
近づいて来てる。
「「ダメじゃねぇかぁァァアア!」」
二人揃って絶叫する。
「逃げましょう」
櫂を手に取り、アルトさんに押し付けて、即座に提案する。うんと頷いたアルトさんは、櫂を漕ぐべく、船の最後尾に向かう。そしてその途中、グルーガ・ハリフの方を見て、彼は立ち止まった。
「ーー!?」
グルーガ・ハリフが近づいているこの一刻も争う時に、その場にとどまるとは何事かと思い、声を荒げて言おうとする。
「ア、アルトさん!? 何やってーー」
「黙れ……!」
手で制してくる。気迫に気圧され、言われるがままに、口を閉ざしてしまった。けれどすぐに思い直して。
「いっ……いったい……どういうことなんです?」
アルトさんに問いかけた。すると彼はグルーガ・ハリフの方を指差して、静かに言った。
「見てみろ。あいつの動きはかなり緩慢だ。確かにこちらに向かってはいるようだが、細かな位置や何がいるかまでは、分かっていないと見た」
「つまり……?」
「下手に動いた方が追われる可能性が高い。まだギリギリの所で気づかれていないようだから。それならこのまま様子を見た方が得策だ」
息つく暇もなく、続けざまにアルトさんは語る。頭の中で高速で情報を処理し、計算しているのだろう。こういう時の彼の分析力には眼を見張るものがある。
そのアルトさんがこう言うんだ。恐らく間違いない。
納得した旨を示すべく、グッジョブマークを作り出しアルトさんに見せる。彼はわたしが理解したのを知ると、コクリと頷き、腰を低くし、音を立てないよう努めた。
なのでわたしもそれに習い、同じく腰を低くし、小さな息遣いを心がけた。
✳︎
グルーガ・ハリフが大分こちらに近づいて来た。距離は約8mといった所だろうか。この距離で何か大きな音を立てたなら流石に気づかれてしまうだろう。
しかしグルーガ・ハリフは辺りをキョロキョロと見渡すばかりで、そこから先に進もうとしない。アルトさんの憶測が当たったのだ。※グールグールはわたし達がどこにいるかまでは、完全には掴めていない。
※グルーガ・ハリフのこと。
正直、遮蔽物の何もない湖の上では、側から見たらバレバレなのだが、それだけアルトさんの『インビジブル』が有効に働いているのだろう。
な〜にが下位互換だ!
心の中でアルトさんへの賞賛と罵倒を同時にこなす。
焦りが大分減ったわたしは、グルーガ・ハリフがどんな状態か探るべく、少しだけ姿勢を良くする。
「バカ、止めろ!」というアルトさんの制止を踏み切って。
アルトさんも心配性だな〜。ここまで気づかれていないんだったら、これくらいなら大丈夫。くしゃみでもしない限りは……。
な〜んて余裕しゃくしゃくでグルーガ・ハリフを眺めていると、不意に鼻がムズムズして来た。このなんとも言えない感覚は……。
いや、そんなまさか……。まさか、まさかね。だってそんな小説じゃないんだから……! 直近で何か、鼻に刺激を受けた訳でもあるまいし…………。
そこまで考えて、いつの間にか手元に握っていた、何かのクシャリとした触感に気付いた。
「あっ……そういう」
事の原因を把握したわたしは、迫真な顔つきでアルトさんの方へと顔を向ける。彼は「ようやく、想いが通じてくれたのか……!」とどこか安堵した様子である。彼はそのまま続けて「さぁ。早く姿勢を低く。まだグルーガ・ハリフはそこにいるんだから」と囁いてくる。
しかしその言葉にも微動だにせず、ただアルトさんの赤く燃える瞳を黙って見続ける。
アルトさんはわたしの様子がおかしいのに、流石に気づいたらしく、「どうした……?」と尋ねてくる。
その反応を待っていたと、トントンと鼻の上の辺りを指で軽く叩く。
最初は意味が分からず、不思議そうにしていたアルトさんだったが、やがて青ざめていき、事の重大さを理解したようだ。
「お前……ふっざけんなよ……。今、お前……やってみろ……? マジで許さねえからな……!」
ニヤニヤした表情で受け答えすると、わたしは無言でグッジョブマークを作り出す。
「頼んだぞ……ホント……」
山を登り続ける修行僧のような、滝に打たれ続ける賢者のような、悟りを開いた顔つきで、虚空を見据える。
「目が据わってるんだよなぁ」
そんなアルトさんの言葉にも反応せず、ただただ耐え続ける。グルーガ・ハリフはこの時間経過の間にそっぽを向いて、移動し始めたとは言えまだそこにいる。
決して今、『ぶえくしょい』なんて言っちゃいけない。
決意を固くしてなんとか耐え続ける。目には涙が浮かんで来たが、それでも耐え続ける。グルーガ・ハリフは大分離れてくれたが、まだダメだ。
しかし。ついに、わたしの鼻が、耐えきれなくなり……。そして。
「ぶえっくーー」
「ふん!」
「しょい!!!」
ざばーーーーーん!!!!
思いっきりやってしまった。これはアルトさんに怒鳴られること間違いなし。そう考えて目を瞑ってしゅんとなる。しかしいつまでたってもお叱りの言葉が聞こえてこない。それどころかグルーガ・ハリフが近づいてくる音すら。
これはいったいどういう事だろうと、目を開ける。
「ア、アルトさん?」
「なんとかしたぞ」
不安げに尋ねると、アルトさんは手の中で、小石をジャラジャラとさせながら答えた。
そういえば先ほど何か大きな音がしたが、まさか……。
「グルーガ・ハリフが今別方向向いてるだろ? あいつの気をそらすために、石を湖に向けてぶん投げた」
「お前のくしゃみの音と同じくらいの大きさだったと思うから、多分大丈夫なはずだ」
流石はアルトさんだ。いつだってなんだって、事前に手を打っている。まぁ、こんなことで褒められても嬉しくないかもしれないが。
一様、小さくぱちぱちと拍手は送っておいた。
「よし、んじゃ今度こそ逃げるぞ。岸まで後少しなんだ。シリウスが待ちくたびれてる」
グルーガ・ハリフが気をとられてる隙に、またゆっくりと漕ぎ出した。
「ア、アルトさん。ちょっとはやるみたいですね……。なかなか良い手だと思いますよ。まぁわたしの機転にはかないませんがね」
「はいはい」と軽く流すアルトさん。そこまで気にもされないと少し悲しい。けれどこれでようやく、向こう岸を目指せる。わたしはそのことに安堵しながら、身体の緊張を解く。もうこれで何の心配もないと。
グルーガ・ハリフが再び気づくことはないだろう。こちらが何か大きな音を出さなければ。
「ふぅ。なんだか疲れちゃいましたね」
「そうだな。でも岸までもうすぐだ。それにこの湖を渡ったら、獣人の里はもう、目と鼻の先だ」
「へぇ〜そうなんですか」
大きな困難が終わった後の喜びというものは、非常に大きい。特にその辛さを共有した二人の間でならなおさらだ。
わたし達は互いに見合って、ボリュームに気をつけながらあははと笑い合う。そうしてひとしきり笑った後、わたし達は向こう岸を見る。
と、その時。
『ぷぅぅうぅうううううう』
『ぽふ!』
何か鼻にくる嫌な音が湖一帯にこだました。
その音源は、わたしだったように思える。アルトさんも衝撃的な顔でこっちを見てるし、間違いないだろう。
それは体内に溜まった空気が、下半身の穴から漏れ出る現象。人間はおろか、どれだけの知的生命体であっても、抗うことのできない自然現象(神のせつり)。
ーーつまりオナラだ。
「お前ふざけんなよ」
「ヒロインやめるんで勘弁してください」
懺悔は虚しく虚空に吸い込まれた。
そんでもってグルーガ・ハリフは、恐ろしい勢いでこちらまで迫って来ていた。
第48話 終了。
銀糸鳥が届きました。手紙を開きます。
““““““““““““““““““““““““““““““““““““““““““““““““““
やぁ。セアさん久しぶり。シグリアです。
最近は晴れ間が続き、良い気持ちで過ごすことができますね。さて、今回不慣れながら手紙を書かせていただきました。もうミリアちゃんから手紙が届いた頃かとと思います。彼女がこちらの近況を余すことなく、伝えていると思いますので……僕は簡潔に。また会いましょうね。ドルバからも近々手紙が届くと思うよ。
それじゃあね。
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