銀の歌
第75話
雲が一面に敷き詰められ、太陽が見えない空は、どんよりとした灰色で重苦しい。かと思えば一部の雲は透き通るような白さを見せている。きっと厚さの薄い雲なのだ。だから太陽の光を吸って、あんなにも綺麗に空を漂っている。
まぁ、僕らにはその恩恵を、一切よこしてはくれないが。
自然の現象だって結局は、立場の弱いものに何も渡してくれないのだ。
卑屈な見方をしているのは分かってる。でもこんな風に陰鬱な天気だ。人の心だって陰ってしまうよ。天候は気分にも作用する。
そんなことを考えるけれどあの人は、やんわりとした笑みを浮かべていて、どこかこの空を慈しんでいるようだった。あの人が笑顔を見せるのは、今日に限ったことではないけれど。いつもより一段と、優美さや儚さがあった。
ああいうのを絵に描いたような美人というのだろう。……そのことについて触れる人は、何故かいない訳だが。
「どうしたヘテル? 考え事か」
霞んだ茶色の外套を揺らして、アルトが話しかけてきた。この人は何かと察しが良い人で、こんな風に僕やあの人の様子を、いつもそれとなく伺ってくる。
「別に……」
「そうか」
気を回してくれるのはありがたいし、その優しさも偽りじゃないというのは、あの夜の時に理解した。
だけどどうしても信じられないし、馬鹿正直に何でも話す気にはなれない。
どれだけ慕っていても血の繋がりがあろうと、最後には捨てられるかもしれないのだから。
家族や村の皆の顔を思い出して、気分が悪くなった。そんなことを知ってか知らずか、アルトは呟いた。
「セアが珍しく落ち込んでいるからな。墓地っていうものが不気味なせいかとか、もしかしたらよくない空気……病の元とも言い換えられるか。そういったものに当てられたのかと考えてな。邪推のしすぎだったか。悪いな」
……彼らと旅をしてまだ一〜二週間といったところだが、十分にこの二人の性格や能力とは把握した。
あの人ーーセアさんは人から敵意を持たれにくい、八方美人な人だ。左手がこうなる前から、内気で人見知りだった僕とは、対極の位置にいる。
対してアルトは……形容しづらい人だ。優しいのか悪いのか酷いのか、どんな言葉が彼に似つかわしいのか分からない。元々一つの単語で、人を表そうという方が無理があるかもしれないが、それにしたって理解し難い。
ただ能力に関してだけを言えば、アルトは間違いなくあらゆることが優れている。戦闘能力も頭の回転の速さも知識量も、全部優秀だ。
スルト商会での商談の後、アルトはなんでもないことのように、『普通に終わった』なんて言っていた。でも商人との取引で、普通の結果を出すことが、どれほど難しいかなんて、子どもの僕だって知っている。
品が優秀でも品を扱う人が無能であれば、しゃぶりつくされて終わりだ。僕の村にもたまに、行商人が来ることがあった。そして彼らは、僕らが世間知らずだったり、交渉が弱いと見ると、すぐさまそこにつけ込んで、村の蓄えを貪っていった。
アルトは商人が本業でもないのに、実に堂に行った態度だった。彼とスルト商会の人の商談は、僕にとっては信じられないものだった。
「そっか。こんな風によく気づくから……」
セアさんが普段と違うのは、何となく察しはついていた。でも、あれが落ち込んでいるものだとは気づけなかった。
それに僕が考え事をしていたのも当たりだ。こんな風に周りを見る能力だって優れているから、商談であんなにも華麗に立ち回れたのかもしれない。
「何か言ったか?」
きょとんとした表情を浮かべるアルトは、僕の今の評価をぐらつかせる。こういうことをしてくるから、よく分からないという評価になるのだ。
「アールトさん!」
「ん? 何だ」
虚ろな様子で空を眺めたりと、どこかぼんやりとした様子だったセアさんが、駆け寄って来た。目的は、聖騎士団と合同で行う散策で、別行動をしたいというものだった。
「良いわけあるか! そう言いたいんだけどな……。行きたいんだろ? 行ってこいよ」
「ありがとう……ございます!!」
セアさんは言うと、聖騎士団の人が多く集まった場所へと、また駆け出して行った。
聖騎士団……彼らのことを僕はよく知っている。何せ僕の命を取ろうとする集団だ。知らないわけがない。
王国聖騎士団コスタリカ。グローリー・バースが創り出した、異業種を殺すことを主とした団体だ。
今でこそグローリー・バースなどと呼んでいるが、僕だってついこの間までは、あの人のことをちゃんと敬称付きで呼んでいた。というか今だって気が抜ければ、様付きで呼んでしまいそう。
王国聖騎士団は正義の集団だ。強くて優しくて頼りになる、誰でも一度は憧れる。加えてそれを創り率いている人ともなれば、尊敬の意を示すのは当然だーー当然だった。
彼らの存在が、恐怖の対象になったのはいつからだろう。
いいや、自問しなくても決まりきっている。この腕が腕じゃなくなった時からだ。
「ヘテル。すまない。これからのことで、話しておくことがあるのを思い出した。少しあいつらのとこ行って来るが、くれぐれもおとなしくしていてくれ。
すまない。一人にさせる」
知らない間に俯いていた僕の肩を叩いて、アルトは険しい顔つきで言った。
隣にいた人のぬくもりがなくなるのは、今の僕にとってはすごく心細いものだが、わがままばかり言って、見捨てられる訳にはいかない。
それにこれは正式な依頼で、彼らー王国聖騎士団ーは協力者。万に一つでも間違いがあってはならない。気になることがあれば、擦り合わせはするべきだ。
ましてや今回の依頼は、死体が動くなんていう訳の分からないものなのだから。解明できなかったら、ルスク街の人達が怯えることだろうし、もしかしたら危険にだって晒されるかもしれない。
そこまで考えて、考えたことを取り敢えずは飲み込んで、アルトに「行ってきて」とだけ伝えた。
「……すぐ戻る。何かありそうだったら迷わず呼べ」
駆け出していくアルトを見送って、自分が今何を考えていたのかを思い出し、下劣なものを飲んだとばかりに吐き出す。
「ウッ……」
僕は人に命を狙われる存在だ。真っ当な生き物からは全て嫌われて然るべき存在だ。それが異業種。それはもう十分に知っている。そういう風に教育されて来たし、自分がこうなる前までは、そんなこと当たり前のことでしかないと考えていた。
実際自分でも、この右腕があまりにおぞましいものに見えて仕方ない。勇気があれば、腕だって斬り落としたい。
もちろん感染部位を取り除けば、それで、はい終わりという物でないことは知っているが。
とにかくそれだけ嫌っているのだ。自分自身、異業種を。だというのに、だというのに、僕は今、人間を、【真っ当な命を助けなければ】と、当たり前のように考えた。
一体どういうことなのだろうか。
それはもちろん。ついこの前までは僕も亜人ではあるが、真っ当な命だった。だから不思議なことではないのかもしれない。でもだからといって、どうして自分を毛嫌いして、他者を愛さなきゃいけないのか。それも命を狙って来る他者を。ーー納得いかない。
異業種というのは不条理なことばかりだ。
何の心構えもないのに突然になって、悪者だと嫌われて、殺されるのが当たり前だと思われる。
人を助けたいと考えて、異業種を憎む気持ちがある僕は、どうすればいいというのか。こんな僕は人と何が違うのか。それが僕にはまるで分からない。
今となってはこの倫理観が恨めしい。
ふと見上げて周りを見渡すと、知らない場所に居た。考え事をして少し歩いている間に、先ほど待っててと言われた場所から大きく移動してしまっていたようだ。
曇天の空の下とあって、さらに心細くなる。気づいたからには戻ろうと、足を動かしてみる。しかしどうにも、『待ってて』と言われたあの場所に戻れそうにない。早歩きしても走っても、戻れない。
焦燥感にかられ始め、胸が熱くなるような錯覚を覚える。
「はぁ。はぁ。はぁ」
どこを見渡しても墓石だらけのこの場所は、孤独感だけを僕に与え続けた。
走り始めてしばらくした後、ふと墓石の奥の方を見てみると、聖騎士団やアルト達ではないものの、人影を発見した。
反対方向を向いているため顔は見えないが、灰色がかった白髪で、背丈は僕と同じくらいに見えた。
その子は墓石に背を預けて座っている。
こんな所にいたら危ないだろうと思って、その子の元へと足を動かすが、数歩歩いた所でその歩みを止めた。自分が今、何かを思い出して。
あの子は流石に聖騎士団の一員じゃないだろうから、いきなり剣を突きつけられたりはしないだろう。でも人に正体がバレるというのは、それだけで十分な危険だ。
だから何も見なかったことにして、すり足で元来た道をそのまま戻ろうとする。そんな時、踵が何かにぶつかった。
振り返るとそこには、あの女の子が立っていた。
双子なのかと思って後ろを見てみるも、そこに彼女はいない。
「…………」
ゴクリと唾を飲む。
先程は距離もあって些細には分からなかったが、正面から見るこの子は、どこかみすぼらしい容姿をしている。大きい瞳に二重瞼。丸みをおびた輪郭は愛らしいし、儚げな雰囲気を纏ったこの子はどこか守ってあげたくなる。
けれど彼女が着る服はぼろぼろで、褪せきった薄い紫色は艶やかさのかけらもない。肌だってなんだか青白いし、唇はかさついている。
水で薄めたような灰色の髪をくしゃりと触ると、彼女はニッコリ笑みを浮かべた。
「こんにちは。ぬいぐるみさん。動く子って久しぶりよ。いつも見るのは、カリナさんが連れて来てくれる、動かなくなったモノばかりだから嬉しいわ! だからね。お近づきの印にこれあげる」
はいと握った手を差し出してくる。
ここまで来ては、流石に関わらないという選択肢はないように思えた。そのまま逃げ出そうものなら、かえって怪しまれるような気がしたから。
だから僕は、少女のわがままだと割り切って、握られた何かを受け取ることを決意した。どうやら自分よりも年下そうだし、少し警戒心も緩んでしまったのかもしれない。
ぎこちない笑顔で彼女から、その何かを受け取る。
手に取ると最初に感じたのは、ぬめりという気味の悪い感触だった。それにぬらぬらと変に濡れている。何度か手の中でこねくり回すことで、ようやくそれが玉のようなものだと理解できた。渡された玉は全部で二つであり、両方とも全体的に白かった。
よく分からないものをくれるのだなと、訝しんだ目で彼女を見ると、少女は何かおたおたし始めた。どうやら僕の反応が予想していた物とは違ったために、不安を抱いたらしい。
自分よりも年下の子を困らせたとあっては、少しいたたまれない気持ちになってしまう。だからなんとか彼女の意図を組もうと、その二つの玉をよく見てみる。すると気づいた。
「えっと。えっと。ごめんなさい。外出るのって久しぶりだったから。つい嬉しくって……! ボタンってまずかったかしら。あなた綺麗なボタンをしているものね。わざわざ渡す必要がなかったのかもしれないわ」
目を見てそういう彼女はどこまでも純粋で、僕だけに向けられた笑顔は、素晴らしく価値のあるものだったと思う。掌の上にあるこれが、なにかの間違いだとしたならだけど。
二つの玉には共通して、大きな黒い【てん】のようなものがある。そこだけ隆起している。
「ねぇ。お人形さん。一緒に遊びましょう」
「……遊ぶって何で?」
「何って……」
怯えた瞳で訊くと、彼女は不思議そうに身体を傾けた。心底分からないといった風だ。
彼女はしばらく考えた後、ああそうかと頷いた。
「それはもちろん」
指を頬に付けて、とびっきりの笑顔で彼女は答えるのだ。
「あ・な・た・で・よ」
彼女が言うと辺りの墓石の下から、たくさんの人や獣人や亜人が這い出てきた。
そのどれもが腐乱臭を放っており、いやに臭い。加えて不快な姿を晒している。僕の腕と同等なくらい、それは嫌われて然るべき存在なのだと悟った。
「わたしねマーガレットって言うの。新しいお人形さん。今までここで会ったお人形さんは、最初は動かなかったからつまらなかったの。どれだけのことをしてもうんともすんとも言わないの!
でもね、その点貴方は素敵よ。誰よりも可愛い容姿でバッチリしたボタン。何より喋ってくれるんだもの。さぁ。いっぱい遊びましょ」
僕を取り囲むようにして動き出す死体達。それらをまるで従えているかのように振る舞う少女の姿は、常軌を逸していた。僕は恐ろしさから腰が抜けて、地面にへたり込んだ。
死体は包囲を狭め、逃げ出す隙をどんどん無くしていく。このまま動き出せなければ僕がどうなるかは……彼らの姿を見れば少しは察しがついた。
「アッ……あう。……あっ」
せめて何か言って気を引こうとしたが、恐ろしさから口が震えて、思うように動かない。
もうダメかもしれない。
嘲るように僕を見下す彼女を見て、そう思った。
第75話 終了
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