誤字報告ありがとうございます。
銀の歌
夏の暑い日差しがある日中であれば、一面に広がる草原は、遮蔽物も一切ないのだから、過ごしやすいとは言えない。けれど夜であれば、楽なものだ。生温い夜風が通り抜けていく。
ふと天を見上げて見れば、そこには日中に昇る太陽の代わりに、まんまるの月だけがあった。月は遠い位置にある、人も動物も、そして翼を持つ竜でさえ届かない遠い位置に。けれど銀狼族は、月とは不思議な関係にあるためか、遠いのによっぽど近く感じる。
月には魔力があると父方の祖父が言っていた。
魔力というのが何か、あまり理解できないが。月を見ていると身体の中に、何か全く別の力が宿っていくような感覚があるのも確かだ。そしてあたし達はその力を用いて、他の生物の姿を真似たり、あるいは本来の姿である、巨大な狼へと形を変えていく。
深い仕組みはいつか訊ける日があったら訊こうと、昔は思っていた。そう、昔は。
月夜の晩には、思い出せば辛い気持ちになるのが分かっているのに、それでも昔の事を思い出してしまう。夜はあたしの心を惑わせる。平静な感情を、すぐさま哀愁へと変えさせる。心の在り方が定まらない。まるで、そう。
──それは夜にたゆたうみたい。
そんな思考を遮るように、ザッザと草を踏む音が聞こえてくる。
またあいつが来たのだ。あたしを悪い意味で悩ませるあいつが。カリナ(最も嫌いな男)と似た何かを持つあいつが。
草を踏む音は、ちょうど背後から数メートルの所で鳴り止んだ。そこの位置から人の気配が、変わる事なくしている。あたしが振り返るまで、その場で待つつもりなのだろうか。
このまま無視をし続けても良いことはきっとないだろう。動かれないのであれば、それはそれで緊張して気が休まらないのも事実だし、何だかんだ、食べ物をもらっているのも事実だ。
あたしは人間なんかとは違って、嘘だって付かないし、もらった義には応えるんだ。例えそれが本意でなくとも。
身体の中にある、月を源とした、何か不思議な力を使って姿を変えていく。
✳︎
今日こそは。そんな意気込みで臨んだ殺人鬼との話し合い。
夜に人目に付かないようにして会うのも、これで三度目。いい加減蹴りをつけたかった。【カリナ】に繋がる情報を入手して、今自分達がどんな立場に立たされているのか、早いとこ、少しでも知りたかった。ここまで何の情報も得ないまま、もう数週間も過ぎた。これ以上、手まねくことはできない。
だからこそ、今日は沢山の準備をしてきたはずで、交渉材料だって十分あったはずなのだ。だが結果は。
「それで? あたしはもう眠いんだ。他に用がないならどっか行ってくれ」
この通りだ。自分は怪訝に眉を顰めるくらいしかできない。
立場的優位から話を進めるのもダメで、対価を支払って話を進めるのもダメで、どうしたら目の前にいるこの女と話ができるのか、もう全く分からなくなってしまった。
自分が経験してきた、情報を持つ相手との話し合いで、話をすることさえ困難だったことは、今までなかった。
正確に言えば、相手にこんな態度を取られることは、短時間であればあった。だがその都度、別の手段で修正をしてきたのだ。この手がダメ、気に食わないのであれば、他の手段をと。
行商生活で学んできた、相手へのアプローチの仕方は、自分の思いつく限りではもう全てやった。これが通用しないのであれば、どうしようもないと思うことまで全て。しかし、ダメだった。
自分が得た行商経験の中にはもう、他の答えが一切思いつかなかった。
「………………」
アクストゥルコの物言いに対して、続く言葉が何も思い浮かばない。
アクストゥルコは俺に、『用がないならうせろ』と言ったのだ。何か返す言葉が無ければ、本当にここでー話し合いにもならなかったがー話が終わってしまう。それはまずい。
「もうないんだろ? だったらさっさと行ってくれ」
沈黙の時間が長すぎた。アクストゥルコは返事を待つことなく、話は終わりだと一方的に打ち切った。そして彼女は、背をこちらに向けようとした。それを見てまずいと思った。
今日が最後のチャンスではないが、アクストゥルコが何か知っているなら、情報は早い内に手に入れたかった。
何より自分が優位に立てるのは、アクストゥルコが体力を失っている今だけだ。あの街で彼女を拾ってから、もう随分と日が過ぎた。そろそろ優劣が逆転してもおかしくない。
だからどうにか話をつけて、どうにかしなければならなくて、どうにか、どうにか。
瞳孔が開き、呼吸が荒くなる。自分の心理状態が身体にも如実に現れている。脳を回すのに必要な物質が足りない。だからだろうか、不意に数日前のことを思い出してしまった。
『アルトさんはずっと旅をしてきたせいか……苦手……ですもんね。そういうの』
またあの憐憫の表情が脳裏をよぎる。
『感情は時折見えてしまいます』
あの日の言葉がいくつも思い浮かぶ。思い浮かぶ度に思考が加速する、あるいは周囲の時が遅くなる。
そんな異常事態だから、アクストゥルコの顔がよく見えた。彼女の顔付きは綺麗なもの。醜い箇所などないほどに。しかしまさに今、こちらを視界の外へと動かす瞳は、彼女の端正な顔には似合わぬ程、冷徹だった。失望の色がそこにはあった。
その眼を見て頭に思い浮かぶのは、やはりあの日のこと。
『その子に助けてもらいたいなら』
言葉が浮かぶ。浮かぶ。浮かぶ。
『利益を示すよりも、もっと簡単に心の底から貴方が必要なんだって、一人の人間として見てお願いすればいい。偽りなく【助けて】って言えば、それだけで』
そして最後の言葉が思い浮かぶ。
『わたしだったら助けにいっちゃいますから』
それを思い出すのと同時。俺の身体は動いていた。
背を向けようとするアクストゥルコが、眼を丸くした。そのまま固まり、どういう意図で行っているのか、何とか察そうとしているようだった。彼女の耳がピンとはる。視線も痛い程に感じる。警戒されているのが分かる。
「なぁ。これは、どういうあれだ?」
結局俺がどういう意図で、こんなことをしているのか理解できなかったのだろう。理由を尋ねてきた。
アクストゥルコはセア曰く、相手の心を察するのが得意だそうだ。そんな彼女が他者の行動が分からないなんて、いよいよもってセアの言い分に妥当性が無くなってきた。
けれど目の前にいる彼女が、俺の行動理由が分からないのは仕方ない面もあったのかもしれない。
仮にアクストゥルコが相手の心を読んで、感情を察するタイプなら、【自分自身ですら、自分の行動が理解できていない】そんな奴の心なんて、そりゃ分かる訳がない。
そうだ。俺は何故こんなことをしているのか、自分でもよく分かっていない。
何故、何故俺は、自分よりも弱い状況にいる相手に対して、頭を下げているのだろう? ──分からない。
だが、その後について出たのは、さらに自分でも困惑するような一言だった。
「助けて欲しい」
なぜ、俺は対価を支払わない? なぜ、俺は脅しをかけない? これは交渉のはずだろう。だったらなぜ俺は、こんな弱みを見せるような真似をする?
こちらからはなんの譲歩もせずに、ただ頭を下げてお願いする。そんなのは商売だったら笑ってさえもらえないぞ。だってそれは『自分は何もしないけど、お願いだからまけてください』って言ってるようなもんだ。そんなことを言われてまけてくれるやつがいるはずない。
それが分かっているなら。なぜ、俺はこんなことをする。
自分でも理解できない行動は、自分の脳内状況をおかしくさせる。もう自分がまともに脳を働かせている自信がない。だけど、ゴミのようなプライドだけど、それを捨てて頭を下げたのだ。だったらいっそ、突っ切るしかないのかもしれない。
ちょうど頭の中に、意図せず浮かぶのも、そういうセアの言葉ばかりだ。
「俺は保護者として、あいつらを助けてやる義務がある。なのに誰かの悪意が垣間見える。中でも【カリナ】という何かが、俺達を今狙っている可能性があるんだ」
自分でも何を言っているのかだ。
本来は、【カリナ】という何かに狙われているかすら分からないから、俺はこいつに話を聞こうとした筈なんだ。
トリオンのおっさんがポツリと漏らした【カリナ】という単語。俺が知る中で、唯一それと結びつくのが殺人鬼。おっさんが口を割る雰囲気は見出せなかったから、殺人鬼に訊こうと思ったんだ。それを聞いてから改めてトリオンのおっさんに確認を。そう思っていたのに。
狙われていることが、もうまるっきり確定しているような言い回しをしてしまっている。裏どりも取れていない情報に、どれだけの価値があろうか。つくづく今の自分の体たらくは、見るに堪えない。
でもこの態度で話すことで初めて、殺人鬼がこちらをじっと見てくれるようになった。
今までのような、話していても、どこか宙を見るような様子ではなく、ちゃんとこちらを見てくれている。だから、自分が築いてきた価値観が、どれだけ今薄汚れようとも、言葉は止めてはいけない。
「お願いだ。助けて欲しい。何も知らない今のままでは、対策が立てられない。もしお前が【カリナ】について、何でもいい。何かを知っているなら、どうか話をさせてくれ」
顔をあげることなく、必死になって頼み込む。これがどれだけ殺人鬼に対して有効なのかは知らない。それでも、もうすがることしかできない。
強い立場を放り投げる博打を選択したんだ。
「頼む。お願い……だ。……します」
言った後、草原の真っ只中でただ頭を下げて、これ以上は何も言葉が出なかったので、沙汰を待つように目を伏せた。
それからどれだけの時間が過ぎただろう。生温い夜風がびゅうと何度もそよいだ。しかしついに、その夜風に乱れが生じた。風が言葉に遮られる。
「聞かせてみろ」
「………………ありがとう。恩に着る」
✳︎
「これが今まで起きたことだ」
アクストゥルコの了承を得て、自分が思いつく範囲での、カリナに繋がるこれまでのことと、いきさつを全て語った。それも何の隠し事もせずに……だ。こんなこと、今までの俺だったら絶対しない。というか今日限りだ。
「うん。そうか」
全てを聞き終えたアクストゥルコは、うんと頷いて、淡白に返事をした。
アクストゥルコは話の途中に、疑問に感じた部分に関しては、質問をしてさらに深い説明を求めたが、逆に言えば、俺が話しをする最中、それくらいしか口を挟まなかった。
これだけあっさりした、仕事人気質な性格をしているくせして、感情を重視しているらしいのだから、ひっかけもいいところな気がする。そんなことを考えていたら、アクストゥルコがこちらを見て顔をしかめた。それを見て、とっさにまずいと判断した。
考えてることが読まれたのか……?
アクストゥルコと話をしていて分かったことが一つだけある。それはこちらの考えにやたらと彼女は、気づきやすいということである。何か少しでも彼女の人格に疑問を感じようものなら、すぐさま察知され、このように顔をしかめられた。
初めの二、三回は偶然かと思ったが、それが何度も続けば、偶然とは言い切れなくなった。
心に触れやすいというのは、どうも本当らしい。
だからこそ、なるべく思考をクリアにするように努めて、邪念らしきものを振り払う。するといつの間にか、興味を無くしたようにアクストゥルコは、彼方を見つめていた。
機嫌を損ねたのか? そんなことも思うが、もう既に、全て話し終えたのだ。俺の努力は終わっている。後はアクストゥルコの言葉を待ち続けるのみだ。気分は判決を待つ罪人のよう。
しかし幾ら待っても、続く言葉がない。耐えかねて、ついにこちらから尋ねた。
「で、どうだろう?」
「何が?」
疑問に対して疑問で返される。
考えていることを読まれてしまうのは分かっているので、なるべく思考は平坦なものを目指すが、俺はおちょくられているのか? と流石に考えてしまう。
するとアクストゥルコは、まさにその心の声を読んだように、「話を聞くとは言った。だがそれ以上は約束していない」と。幼児のように言っていた。
確かに言質はとっていないが、だからといってそれはあんまりだろう。言葉遊びをされている気分だ。
ここに極まっては、もう立場的有利が自分にあるように思えないので、クッと下唇を噛むことしかできない。結局今日もダメだったのか、そんな落胆が隠せない。
だが、話は確かに聞いてもらえた。その事実を踏まえれば、セアの言うことには一理あったらしい。だからアクストゥルコから、快い返事をもらえなかったとしても、きちんと礼は述べる必要がある。
「分かった、ありがとう」
今日という日は自分にとって、あまりにも辛いもので、思わず顔を覆った。そうしてこの場から去ろうとした時、後ろから声がかけられた。
「それは間違いなくカリナの仕業だ」
思わず振り返る。
するとアクストゥルコは横を向いていて、目線を合わせようとすることはなかったが。間違いなく意識はこちらに向いていた。
「…………何も教えないとも言ってない」
アクストゥルコはほおを赤く染め、両腕を組んで言っていた。彼女は人の考え、感情を見抜きやすいので、あまり変なことは考えない方がいいのだが、それでも、その言動を見て思うことが二つあった。
一つ目がやはり誠実に対応するのが、目の前の少女には大切だということ。そしてもう一つが。
「めんどくさ……」
我慢の限界が来てしまった。心で思うだけでなく、口にまで出してしまった。失言ではあるが、もう遅かった。アクストゥルコは、信じられないことを聞いたと言うように、口を開けてポカンとしていた。
そして赤かったほおをさらに染め上げ、顔を真っ赤にしてこう言ったのだ。
「何だと貴様ぁ!!」
アクストゥルコは俺と【目線を合わせて】言っていた。
幕間 夜に色めく 終了
セア「ようこそ、こちら(ネタキャラ)側へ」
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こんにちは。作者です。
4月も近づき、色々と忙しくなる時期ですね!
さて、今回お知らせがございます。
この銀の歌、投稿頻度が遅くなり、その時に事情説明すると共に、休載する時もあると申し上げたと思います。
その時が来てしまいました……。
何かと現実が忙しくなってまいりました。
そのため次週の更新は休ませていただきます。次の更新は一周とんで、4月12日(月)18:30からとなります。どうしても忙しくなった時、今後も休ませていただくことあるかと思います。ですが、あっても一年に一回、多くても二回くらいだと思いますので、どうかご了承の程、又今後も応援していただけるとありがたいです。
という訳で更新を待ってくださっている読者の方、申し訳ありません! 再来週まで待っていただけるとありがたいです!
読み終わったら、ポイントを付けましょう!