銀の歌
幕間
コロロロロと夜鳴鳥が鳴く。その音に耳を傾ければ、頭の中にある雑念じみた考え事がかき消えていくようだ。
仮寝床からしばらく歩いて、小高い丘までたどり着けば空には満点の星と三日月が見えた。
ーー今夜の月も非常に綺麗だった。
感慨にふけっていると背後から、雑草を踏みしめる足音がした。
「いつか会った時もこんな感じだったな。そんなに夜空が好きか?」
ため息混じりに出された言葉は、どことなく腹立つが。今の身体の調子では、まだ背後にいる人物には勝てそうにないし、頼んだ覚えはないが、助けられた事実もあるため、不快な感情は、そっと自分の胸のうちにしまい込んだ。
「ワオン、アオン。アーウー」
振り向いて吠えると、彼は眉を大げさに寄せた。
「分からん、分からん。何言ってんだ? 俺はお前が人の姿に戻れるらしい月の晩を狙ってきたんだが? なんでまだ狼の姿なんだ?」
「グルルルルル」
「いや、そんな不快げな声を出されても困るというか。第一お前だって、そういう風にあの時言ってたじゃないか。『今は時間がない。また次の三日月の夜に』って」
あたしは今狼だから、何を言ってたかなんて、後ろの彼には分からない。
というよりもあたし達の言語が分かるものなんて、きっともういない。銀狼族は滅んだのだから。
【言葉は相手に合わせて使わなければ意味がない】。なんて、昔誰かが言っていた気がするけれど、誰にも伝わらない言葉はそれでも誰かが使わなければ、完全に忘れ去られてしまう。銀狼はあたし以外居なくなった。でもせっかく狼の姿をしているのだから、使いたかったのだ。
この言葉を使って交流した、家族や友人のことを忘れないために。
もともと背後の奴が、この言葉を理解できるとは思っていない。だけど意味を持たせたのに誰にも伝わらないのは悲しいな。
あたしは身体の向きを変えて彼と相対すると、一声吠えて身体をぐぐぐっと伸ばした。久しぶりの遠吠えは大変気持ちよくて、この姿が名残惜しかったが……。今の状態では会話ができないのは、分かりきっていることなので、諦めて彼と同じ姿をとった。
「ようやく話せるな」
「……ああ」
今夜あたしとアルトは初めて会話をした。
✳︎
夜の逢瀬と言えば聞こえはいいかもしれない。実際満点の星空の下で美男美女が揃えば絵も映えるし、ムードなどは否応にも出てくるだろう。
しかし女の目から見れば、男はそこまで格好良いとは思えず、また人間という種族が彼女にとっては仇であった。
仇の意味は言うに及ばず、格好良いと思えない理由は、単純に彼女の目が肥えていて、さらに種族が違うことに起因していた。
男女共に絶世の美しさを誇る銀狼は、人間などとはそもそも美の基準が違う。
そんな風に女が思う一方で、男の方もまた、彼女の存在をただの情報源程度にしか捉えていなかった。彼女に会いたいと願って助けはしたものの、助けた理由は、何も彼がお人好しだからとかではなく、必要だから助けたに過ぎなかった。
そんな風にお互いが相手のことを捉えているから、甘い雰囲気が漂うことはなく、むしろ不意に斬撃が飛びそうなほど、場は緊張していた。
「……しかしあの時、お前を掘り返したそのすぐ後のことは驚いたな」
そんな中で口火を切ったのは男の方、アルトだった。いつも通りのつまらなさそうな顔で、目的があってというよりは、会話のとっかかりとした意味で紡がれた言葉は、彼にとってすれば当たり障りない共通の話題だと思ってのものだった。
だからこそ、今まで真面目な顔で聞いていた彼女、アクストゥルコがしばらくの後に、なんの前触れもなくその顔を破顔させて「ぶふっ」と吹き出したことに、アルトは大変驚いた。
「えっ? この流れで笑う……? 俺なんかおかしなこと言った?」
ここまで真面目な顔で話していただけあって、アルトの動揺ぷりっといったら酷かった。しかもアクストゥルコの笑い方が、自分の胸を押さえなければ、笑いをこらえきれないほどというのも相まって、アルトは恥ずかしさすら覚えた。
「えっ、本当に俺、そんなおかしなこと言った?」
今までの剣呑とした雰囲気はどこへやらだった。ようやく呼吸が整い出したアクストゥルコは、「いや、ごめん」と口角を上げたまま謝罪した。
「いや、そりゃいいけど……なんでそんなに笑ったの?」
「それはだってお前……あの時、あたしを掘り出した時に、えらく格好つけてただろ?」
「まぁ……そうだな」
アルトはこの段階で既に嫌な予感がしていたが、この件を片付けないことにはまともに話ができないと考えて、内心諦めて彼女の言い分を聞くことにした。
「でもさ一回、仮死状態? だったか。それを経験したからかあたしは、自分でもびっくりするほど体力がなくて、人間体を保てなさそうだったんだ。それで、その……あたしは狼の姿に変化していって、会話が……できなくなっただろう。さっきみたいに……」
「ああ」
「それなのにお前はそれでも話し続けて」
「ああ」
「かろうじて人間体を保ってたあたしが最後に、『今は時間がないから』って言ったのに、お前はそれでも自分勝手に喋ってて」
「ああ」
「それで、結局あたしから話が聞けなくって……ぶふぅ」
落ち着いたと思ったのもつかの間、また彼女は吹き出した。途中途中「ごめん、ごめんな」という言葉は聞こえるものの、まったく誠意が伝わってこなかった。
「そんな顔されても……だってあれは卑怯だ! なんだか格好つけたいのは分かったけれど、あたし、もう喋れないのに! それでも喋ってて!! その上お前、あたしの制止の言葉聞こえてたんじゃないか!! おまえは!!
ごめん! うふふふ! あっはっはっはっはっはっは!!」
アルトは自分の顔が赤いを通り越して、顔面蒼白になっているのを感じていた。笑い慣れていないだろうに、それでもアクストゥルコを笑わせてしまったという事実が、彼の自尊心を激しく傷つけた。
正直このまま消えて無くなりたいと感じるアルトだが、アクストゥルコとは、話さなければならない重要な事柄があった。なのでアルトは、自分の要件を引っ込めて、彼女に落ち着きが戻るのをそのまま、じっと待ち続けた。
✳︎
「悪いな。でももう落ち着いたから」
「信用していいんだな?」
ようやく話の準備が整ったらしくアクストゥルコはアルトに向き直った。
若干まだ口元がプルプルとしているが、それでも会話はできそうだった。
その様子を胃をキリキリきしませながら、眺めていたアルトだったが、ここまできたらもうどうでもいいよと、開き直ってしまった。
「で、だ。早速本題に入るが、俺の聞きたいことは一つだけ。【カリナ】に関してだ」
先程まで口元をプルプルさせていたアクストゥルコだったが、アルトの口から【カリナ】という単語が出た瞬間に、比喩ではなく血の気が引いた。
明るさがあった顔は完全になりを潜め、そこには今まで何度も見てきた、殺人鬼としての冷酷な顔を持つアクストゥルコがいた。
「あの夜聞いたことは、やっぱり間違いじゃなかったんだな。どうしてそいつを知りたい?」
そのあまりの変わりように、アルトも驚いたが。同時にカリナという固有名詞が出ただけで、こうも反応が変わるのかと、カリナに対する警戒度を内心引き上げていた。
まぁでもこれで、話し合いの舞台は整った。後はどこまでアクストゥルコに話すかである。
アルトは今日に至るまで【カリナ】に対して数多くの考察をしてきた。その中で湧き出た疑問が、アクストゥルコとカリナがどういう関係にあるかだ。
もし仮に、アクストゥルコがカリナという何か側の存在、あるいは協力関係とするならば、渡す情報は制限すべきで。
しかしカリナという単語を出した後の、アクストゥルコの反応を見るに、そんなことはないだろうとも思えて。
でも結局、アクストゥルコがカリナと繋がっている可能性というのは、完全に切り捨てられるものでもなかった。
藁にもすがる思いでつかんだ、カリナへの唯一の情報源であるが、警戒するに越したことはない。だからアルトは、商売の時のように、油断なくアクストゥルコとの話し合いに臨んだ。
「……ちょっと今厄介なことになっていてな。話がかなり飛躍するから申し訳ないと思うが、俺の連れの翠髪の女、セアって言うだが……。そいつが何者かに狙われているらしいんだ」
「へぇ」
アクストゥルコは人には通常生えていないであろう、頭部に生えた左右対称の耳をぴくぴく動かしながら、相槌を打った。
「ことの始まりは……今からだいたい二週間くらい前のことだ。俺達は地図作りや記憶探しのために旅をしているんだが……。その途中に立ち寄った遺跡の近くで、通常そこにはいない動物(マヘト)に出会ったんだ」
「それは?」
「ヴァギスっていう、強力な力を持った巨大な動物(マヘト)だ。お前は知っているか?」
「いや、知らない」
アルトはその返事に違和感を感じた。なぜかというと、ヴァギスは今の時代でこそ、全くの無名だが、全盛期のそれこそ七、八百年前であれば、それなりの数がいたはずで。九百年以上前から存在していて、推定二百年は生きるとされる、銀狼が知らないとは思えなかったからだ。
加えて、どうやってかは知らないが、今アルトの目の前にいるのは、千年は生きてきたと思われる、世界を渡り歩く殺人鬼だ。それだけ長い人生なら、知ってるどころか、実際に会っていてもおかしくはないはすだ。
アクストゥルコの話に違和感は覚えるものの、今はカリナに繋がる質問の方が優先だと思えた。疑問は疑問だが、カリナに比べれば小さな疑問だ。
「そうか。まぁ、それならいい。
話を続けるが、ヴァギスっていうのは、もうこの世にはいないであろう生物で、並みの人じゃ絶対に勝てない程強いんだ。だっていうのに、ご丁寧にも俺達が行く場所に先回りするように現れて……。今にして思えばあれは、誰か第三者が絡んでいた気がするんだ」
「ふぅん。言いたいことは分かった。でも絶滅した生物が、自分達の前に現れたからおかしいって? 違和感かもしれないけれど、偶然の可能性もあるじゃないか」
アルトはそれに対して首を横にふった。
「俺だって、単に生き残りを発見しただけなら、諸手を挙げて喜んださ。今は亡き生物に出会えたんだから。だけどあいつの他に、ヴァギスがいるような気がしなかった。あいつらは無性生殖じゃない、生き残りなら、つがいがいなきゃいけない」
「……その土地のつがいの、最後の子どもなんじゃないか?」
「いいや。ヴァギスが現れた地域近くの、里にいる奴らに話を聞いて分かったことなんだが、どうやらやつは突然現れたみたいなんだ」
「流れもの……」
「とにかくどの可能性もありえないんだ。なんでかって言うと、【あいつはもう死んでいた】」
嫌に突っかかってくるなと、いい加減、話を先に進めたくて遮って言った。それなりに声は抑えたが、焦りから来る苛立ち全部は、隠せなかった。
「お前の疑問はもっともだが、先に進ませてくれ。ヴァギス一つが重要なんじゃないんだ。積み重ねてきた出来事が重要なんだ」
アクストゥルコはアルトの訴えに、つまらなさそうに返すと、そっぽを向いて座り込んだ。
「どういうことだ?」
「別に……元々あたしがお前達に【カリナ】のことを答えなければならないってわけじゃないし……」
「あの時よりも弱り切った今のお前であれば、楽に殺れるが……?」
「あたしを脅すのか……? あたしが死んで一番困るのはお前達じゃないのか」
アルトが言うやいなや、アクストゥルコが低く静かに、唸るようにして言った。お互いに相手のことを目線だけで威圧して、しばらくの時が過ぎた。
また舞い戻ってきた圧迫した空気は、それでも長くは続かなかった。はぁと大きなため息がした後、アルトが根負けしたとうなだれた。
「そうは言うけど……なんというか……。今のお前じゃ俺には勝てないだろ? もちろん逃げることだってさせないぞ。それが分かっているからお前は俺達と行動を共にしていたんじゃないのか? ……お前の考えていることが、どうにも分からん」
アクストゥルコ曰く「人間体」の時には、狼であった時のような体毛は目立たない。けれど銀色の産毛は生えているようで、一つ一つが月夜に照らされて光沢を放っていた。
座り込んだ背姿でさえも美しく、目が奪われそうになるほどだ。だがアルトの眼に映るのは、そんな美しい姿ではなく、振り返った横顔の瞳の冷たさであった。アクストゥルコは、頭部から生えた耳をひくひく動かした。
「……ほんと、分かってないんだな」
その後の言葉は呆れであった。
「あたしは本当は色々と話す気があったんだ。でも今日はもう何も話す気がなくなった。夜も遅いし、あたしは眠りたい」
ふぁぁとあくびをしたアクストゥルコは、その場で横たわってから丸くなると目を伏せた。アルトは何がなにやらといった風だったが、彼女に話す気がないのは本当みたいだし、脅しも通用しなかったので、打つ手がなかった。
「分かった。だがお前をみすみす手放す気はないからな。確かに殺すことはできないが、逃げるようなそぶりを見せたら、足の腱を切り落とす」
アクストゥルコは耳をまたぴくぴく動かした。どうやら返事のつもりらしかった。その態度にアルトは、ほとほと呆れ果てて眉をひそめた。
「本当に……お前は……。まぁいい。ただ、またお前が人間の姿になれる日があるなら教えてくれ」
「………………次の半月だ。ただ……曇ってたら無理だ」
アクストゥルコの口調は淡々としたもので、感情の色が分かりにくかった。人の心の観察に長けるアルトでも、どんな感情からの発言なのか見当もつかなかった。
「分かった。でもそこは冷えるから、後でちゃんと帰ってこいよ。毛布もこっちにあるんだから。……というより、しばらく経っても来なかったら、逃走を疑う。無事に逃げ切れればいいが、俺に追いつかれたら……」
なんてアルトが言っても、アクストゥルコはもう完全に話は終わりだと、一切反応しなかった。
「……はぁ。じゃあ、また明日な」
アルトは気だるげに手を振って、その場を後にした。その最中もアクストゥルコは全く動きを見せず、アルトの方を見ようとさえしなかった。
幕間 終了
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