銀の歌
第1.5話
「そう、これが【一】で、足すと【二】、そしてさらに【二】を足すと」
「は、はい。え、えっと」
言われて、わたわたと忙しなく指を動かす。
「あ、ああ!【四】ですね!」
「正解だ」
答えるとアルトさんは満足そうに頷いたので、それを見て自分も喜んだ。
自分が目覚めた次の日のことである。アルトさんと共に旅をすることが決まって、これからのことを話しあう時、まずアルトさんは、わたしがどれだけの知識を持っているかを、確かめようとしてきた。
例えば分厚い紙が重なって、紐で結んでとじられたものを見せられて、「これは何て名前だ?」と尋ねられた。
なんだか古めかしくて変わってるなとは思ったが、それに対して「本でしょうか」と答えると、アルトさんは「そうだな」と頷いていた。ただその後、何かがしっくりこないみたいで、首をひねっていた。
アルトさんのその反応に、こちらもどこが間違っているのか分からなくて、首をひねったが、最終的に彼は、「ああ、発音がなんか変なのか」と結論づけていた。
その後もしばらく記憶を確かめるような問答が続いた。かれこれ一時間くらいは話していた気がする。これが朝の話である。
そしてお昼の食事休憩が終わった今は、数字の確認と。
「じゃあ次は簡単に、言葉の確認でもするか」
ということだった。
✳︎
「さて、セア。記憶喪失に関してだが、ある程度の日常用語を理解しているのは分かった。
だけど、ところどころ発音の仕方や、意味に違和感を感じる。多分だけど、記憶がなくて知識の溜め込みが少ないせいだと思うんだ。なんていうか、【世界に慣れていない】って言えばいいのかな?」
アルトさんの言うことに、特に口を挟む要素はなく、彼の言い分に「なるほど」と頷いた。
「納得してくれているみたいだな。
記憶を取り戻す刺激って意味も込めて、世界に慣れてもらうため、名称のいくつかを教えていこうと思う。例えば……そうだな。花とかが、いいかな」
名称のいくつかという言い方には、少なくない違和感を感じたが、これも自分が【世界に慣れていない】弊害なのかなと考えて、深くは追求しなかった。第一目の前にそれを持ってこられれば、彼が何をしたいかは容易に想像できたからだ。
「この近くに生えてたんだが、綺麗だったので取ってきた」
一見して真っ赤なそれからは、ほわんとする不思議な匂いがした。
「これが【花】ですか」
どこか見覚えはあるものの、その【花】には微妙な違和感を感じた。だからこそ自分の中でしっかり認知して理解しようと、目の前のそれに触れて呟いた。
「そうそう。そしてこれ以外にも花って色々な種類があるぞ。まぁ取り敢えず、花は綺麗って覚えときゃいいよ。ちょっとずつ紐付けていこうな。……だが、やっぱりちょっと発音が変だな」
自分自身では発音の仕方に違和感は感じないが、やはりまだ何か違うみたいで、アルトさんは仕方なさそうな顔で、目線を泳がせた。
自分ではできていると思っていることが、他の人から見たらできていないように見える、それは存外辛いものだった。だから彼のその反応を無視するように、続けてわたしは尋ねた。
「じゃあこの花の名前はなんて言うんですか?」
彼は花には色々な種類があると言った。そしてアルトさんとのこうしたやり取りの中で、徐々に明瞭になるわたしの記憶の中にも、花や本には色々な種類があるっていう記憶が確かにあった。
だが今目の前にあるこの花は、わたしが全く知らないものだ。
「その花の名前? ああ、イグニスだよ。意味は確か、【勇気】」
花の名前はイグニスというらしい。そして花にはそれぞれに意味があるようだった。
「勇気……ですか」
「ああ。イグニスの花言葉……だったかな?」
イグニスという名前を聞いたのはもちろん初めてだし、花言葉というのもあまり聞き覚えのないものであった。これが世界に慣れていないということなのだろうか。
「わたしの知らないことって色々ありますね……」
絞り出すような声で呟いた。それを近くで見て聞いていたアルトさんには、やはり分かってしまったみたいだ。
「……やっぱり怖いか?」
心を見透かしての言葉か。アルトさんが言ったことは簡潔だったが、実に的を得たものだった。いや、むしろ簡潔だったからこそ、彼の言った言葉が自分の中で響いた。
「少し……」
向き直ってわたしも簡潔にそれだけを言った。
記憶がない、少ないというのは、それだけ自分の存在が希薄であるということだ。本来は自分を自分たらしめる情報を、見える世界を広げていくのと同時に、少しずつ拾い集めて、自分がどうであるかを決めるのだ。肉体の成長と一緒に。
だがわたしの前には、出来上がりつつある身体と、たくさんの知らないが存在している。本来はゆっくり関わっていくはずだった世界の広がりは、こちらのことはお構いなしにどっと押し寄せ、わたしを困惑させる。
そして困惑するたびに、自分がどれほど世界に対して無知なのかが分かり、それがより一層自分の足場を不安定にさせる。
不安を感じるたびに心の中が氷のように冷え込む。そして氷がひび割れるように、ときおりとても脆くなる。こんな様だ。アルトさんがいなければ、わたしは今日を生きるための食べ物を手に入れることすら不可能だっただろう。
世界に繋がりを持たないわたしは、とても……希薄だ。
「でも、もちろん分かってます。どうしようもないってことは」
あれこれ思いはするが、何も出来ない。だって、自分自身でどうこうできる範囲を超えてしまっているから。
自分の中にある不安に、焦点を当てるのも大切なことかもしれない。でも、どうしようもないことを何度も嘆いて、目の前にいる人を、これ以上困らせる方が罪だと思った。
「だから初めて見る世界を、わたしはせめて楽しみたいです。綺麗なものを綺麗と言って、知らないことに圧倒されたいです」
これ以上心配かけたくなくて、明るい声音で言った。ただ、きっと言葉の対象には、自分自身も含まれていて。
強がりでも、不安でいたくなかったのだ。
「そうか……。記憶が必ずしも取り戻せないってのはないと思いたいが。
でも、そこまで前を向こうって言うなら、俺の旅はやはり合ってる。俺の地図作りの旅は、世界の知らないを見に行く旅でもあるからな。見たことない景色や知らない食べ物に出会うことは、いくらでもある。それを、一緒に楽しもう」
強がり方が微妙だったのか、逆にアルトさんに気を使わせてしまった。でも彼は、わたしの想いを受け入れてくれた。だから、「はい」と元気よく頷いた。
「そしたらなおのこと、世界のことを少しでも知らないとな。体験して覚えるのも大切だが、事前に知識があると、より印象に残りやすい」
仕方なさそうに鼻を一度鳴らして、そんなことを言った。
「さぁ、そしたら次はシリウスとメビウスっていう星のことを教えよう。この二つはそれぞれ男性的な名称、女性的な名称って分かれていてな。シリウスが男性名称で……」
第1.5話 終了
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