床にそれが零れ落ちた瞬間。ヘテル君は勢い良く部屋を飛び出した。扉が開け放たれて、ばんと大きな音が鳴る。
「ギーイ! てめぇ!!」
アルトさんがギーイさんに殴りかかる。利き手の右腕を大きく振りかぶった一撃だ。
しかしギーイさんはそれを予期していたようで、簡単に避けてしまう。アルトさんの拳は宙をからぶり、行き場を失ってしまった。
体勢を戻そうとアルトさんは身をひいたが、その隙を見逃すほどギーイさんは甘くなくて。彼女は足払いをすると、未だ戻り切っていない彼の右腕を絡め取って、その場に落とすように投げた。足をはらわれて体勢を大きく崩したアルトさんは、片方の足だけでは踏ん張りが利かないらしく、なすすべもなく投げられてしまった。
再び床にドンと大きな音が鳴り響く。今度は床に埋まりはしなかったものの、うつ伏せに倒れ込んだアルトさんの背に、ギーイさんは飛び乗った。外見から分かるように彼女の体重は軽く、又お尻から飛び乗ったため、そこまで痛みはないだろうが、アルトさんは身動きが取れなくなってしまった。
なのでアルトさんは乗られた痛み……というよりは、その状況に対して苦悶の表情で唸ると、わたしに向けて言った。
「セア、お前はヘテルを追いかけろ!」
「はい、あっ……でも!」
こんなやり取りの間にも、もちろんヘテル君は走り続けているから、もう大分遠くに行ってしまっている。先ほど、階下からバタンと大きな音がしたことから、宿屋の外に出たことも間違いない。となれば、どこへ行ったのか探す事は困難だ。
当てずっぽうに探すことに不安を覚えて、語尾が淀んだ。そうしたらアルトさんは言うのだ。
「……ソフィーを連れてけ! 匂いをたどらせろ」
アルトさんとソフィーちゃんの視線が交差する。その時何か少しぴりりとした緊張感が走った。だがすぐに、ソフィーちゃんが彼から視線を逸らすと、部屋の外へと駆けて行き、わたしを招くように「アン!」と吠えた。
それを見てアルトさんも納得したように頷くと、「行け!!」と大きく叫んだ。
一瞬戸惑ったが、「はい!」と返事をして、言われるやいなや駆け出した。部屋から出て、階段をよろめきながらも駆け下り、わたしも扉をばたんと開ける。
宿屋を出ると、危惧した通り、ヘテル君の後ろ姿はどこにもなかった。辺りが暗いのも相まって、なんの考えもなしに走り回っても、空振りに終わる予感がした。だから隣にいるソフィーちゃんに尋ねた。
「どちらですか?」
ソフィーちゃんは言われるまでもないと、すでに地面に鼻を擦り付けて、匂いを辿ってくれていた。そして右の通りの方を見ると、「アン!」と吠えた。
「そちらなんですね……!」
聞き返すと、言葉を理解したように、ソフィーちゃんはうんとうなずいた。わたし達はヘテル君の後を追って、夜の街を走り出した。
✳︎
「アン……!」
ソフィーちゃんに案内されて辿り着いた場所は、湖のある広場だった。いつだったかの夕暮れにも見た場所だ。街の中心部にあるここは、昼間であれば若い人がきっと大勢居て賑やかなのだろう。けれど夜間にはそんな面影すら感じさせないほど、しんと静まり返っていた。
だからこそ広い空間に一人、長椅子に座って丸くなっている彼は、どうしようもなく目立って……寂しげだった。
わたしが彼を視認したように、きっと彼もわたしを視界に入れただろう。けれど彼はなんの反応も示さない。
彼に近づいていく。
こちらを見もしない。
彼に歩み寄っていく。
こちらに耳も傾けない。
彼に……ヘテル君のすぐ前に来た。
「……んん、あっと」
間違いなく声の届く距離、連れ戻すためにここに来た。だから何か言わなきゃいけなかった。けれどどうしてか、なかなか言葉が浮かばない。考えてみればヘテル君の後を追うのに必死だったから、いざ会った時に何を言うか考えていなかった。
最初にどもった後、ただ息だけを漏らしてしまう。はぁはぁと呼吸だけをしている。走ったからかな? 肩でする息は荒く、うるさく、鬱陶しいように自分でも感じた。
それでもヘテル君は快も不快も示すこともせずに、ただ虚に焦点の定まらない目で、多分真正面にある湖を、ぼんやりと眺めていた。
それから少しした後、ようやく呼吸が戻ってきた。無言で立ち続ける様は、きっとヘテル君からしたら怖かっただろう。もしくはまた変なことをしているとでも考えていたかもしれない。
とにかくこれで声をかけれる、そう思った所で気づいた。ヘテル君が……彼が何を考えているか分からないことに。ギーイさんに言われたことで傷ついたのは分かるのだが、何がどういう風に傷ついたのか、わたしには全く分からなかった。第一、平時の時からわたしは彼の心情について全く分かっていない。最近は少しづつ話すようになってくれたけど、それでもまだまだ分からない事だらけだ。今だってヘテル君の心情が分からない。何分も無言で、隣で立ち尽くす人物を相手に、彼は何を考えていたのだろう。あるいは何も考えていなかったのだろうか。
でもだとするとそれは、気にも止められていないということで……。もしそうならどんな言葉をかけても無意味に思えた。
近いのに遠い。
目と鼻の先、手を伸ばせば届く。でも何故だか届く気がしない。彼に触れる気がしない。
「…………」
無意味なのかもしれない、そういう予感は十分に感じ取った。だけどそれでも息を飲んで尋ねる。
「ヘテル君、帰らないんですか?」
言った言葉は単純で、明確なもの。連れ戻したい、そういう意図でそういう意味で、それ以外のなんの含みもない言葉。何も考えてこなかったわたしの言葉としては、あまりにも相応しかった。
「…………」
しばらく待ってみて、何も返事が返ってこなくて、わたしは困ってしまって、それでも彼の反応を引き出したくて、色んな言葉を使ってみた。
でも結果は……。
少々しょんぼりしてしまった。でも、あきらめずまた思いついた事を言おうとした。そうしたらスカートを誰かに引っ張られた。
そちらを振り向けば、ここまでずっと静観して、わたし達のやり取りを見守り続けてくれていたソフィーちゃんがいた。彼女はずっと遠くの方から見てくれていた筈だが、いつの間にか近づいて来ていたようだ。
「なーに?」
その場にしゃがんで、目線をソフィーちゃんに合わせると尋ねた。そうしたら彼女は、わたしの目の前で何度も顔を動かして、まるでどこかを指差すようだった。その動作はこの場所にたどり着くまでに幾度となく見てきたもので、こっちだよっていう、まさに人間のする指差しの意味だった。そうして彼女が顔で指し示した方角は……。
「……」
意味を理解した瞬間、わたしは目を伏せた。納得できなかったからだ。でもそうするしかないことも十分理解できて……。
苦渋の決断だ。
瞼を開けると、ソフィーちゃんを見てゆっくり頷いた。そうしたら彼女はどこか申し訳なさそうにしていた。
わたしは貴女のせいじゃないよっていう気持ちを込めて、彼女の頭を何度か撫でて、立ち上がった。
長椅子に座る彼を上から眺め、手をこまねいて視線を逸らし、それで彼に背を向けた。
わたしはソフィーちゃんの誘導に従って歩き出した。
✳︎
セア達が出て行った部屋の中では、ぴりぴりとした雰囲気が漂っていて、まさに一触即発。何か一言でも間違えようものなら、即座に死闘が始まりそうな予感が……なかった。
「おい、ギーイ。これはどういうことだ?」
剣呑ではある、しかしそこまで。緊張感は感じられない。それはアルトの声音からも分かることだった。怒っているという感情は彼の中にあったが、それよりも【またなのか】という失意の感情の方が強かった。
優しい言い方をするなら、アルトはギーイに呆れていたのだ。
「ええ、何がぁ?」
アルトが不快な感情を示しているのに気付いていながら、ギーイはにたにた笑う。こうなった彼女は、正論でものごとを語っても意味がない、長い付き合いだから、そのことをよく知っていた。だから彼は、闘う気がないのを察して、別の事を言う。
「俺を尻で踏むな!」
そういう自分のした嫌がらせに対しての反応というのは、ギーイにとって、非常に楽しい話題である。彼女は根本的に人の嫌がっている様子を見るのが好きなのだ。だからヘテルのことに関しても、彼女にとっては楽しい話題。だがそっちの方を、彼女に振ってしまうと、茶化しにムキになってしまいそうだった。
「えっ、アル君お尻で踏みつけられると興奮したりするの? それはちょっと気持ち悪いっていうか」
「なんでそうなる!」
妥協点としてはまずまずといった所だが、それでもやはり腹が立つものは立つ。ギーイの態度はアルトの琴線に直接触れはしないものの、その線のギリギリまで詰め寄るようなものだから。
このままアルトを怒らせてもいいと、心の中では正直思っているギーイだが、はいはい言って彼の上から退くことを今回は選択した。
ギーイの拘束を抜け出したアルトは、すぐに彼女から一定の距離を取る。
「お前は、本当に…………人の嫌がることをいちいちと」
眉間を押さえて言うが、最後まで言い切ることはできなかった。意識の合間を縫って、アルトの唇にギーイが人差し指で触れたのだ。
不意の出来事だったのでアルトはうろたえた。体を引いて、ギーイの方を見てみれば、彼女はくすくすと笑っていた。
「愛情表現❤︎」
胸元の服を引っ張ってそう言うギーイは、愛らしい茶目っ気さと、蠱惑さがあった。一言で言えば扇情的だった。普通の男性ならばくらりと来るような誘い文句だが、アルトは紅潮する所か、むしろ冷ややかな姿勢をとった。
「そんな原始的な愛情表現は欲しくないっていうか」
アルトの返した言葉は、先ほどギーイが使った言い回しとかなり似通っていて、その意図、意趣返しに気付いて、ギーイはあはははと楽しそうに笑い出す。
言外の意図を察して、しかも自分が悪く言われていることを理解して、それでも楽しそうに笑うのだから、アルトはギーイの異端さに呆れ、ついていけないとかぶりを振った。
それでとうとう限界が来て、まだ言うには早い事を言ってしまう。
「お前は、ヘテルにもわざわざ嫌味な言い方をして」
「うーーん? 私悪いことはしてないよ!」
語尾を高くして、可愛こぶってギーイは言う。案の定である。『よ』という発音は、ほとんど『よん』で、明らかに茶化しに来ている。
そんな態度ばかりだから、アルトは喋っていてだんだん疲れが出てきた。だけど言ってしまったからには、この点だけは譲れない。
もう少しきつく言ってやろう、そう考えて、口を開いた時。彼女が今までの態度を一変させた。どかりと乱暴にベッドに座った彼女は笑みを消す。
「だって、どうせ、その内限界は来ただろうし」
限界は来た、それはアルトからしてみても納得出来ることではあった。側から見てても、ヘテルの歪み方は分かりやすかった。となれば内側にいる人間が気づけないはずがないのだ。
アルトはもちろん、いつかは言うつもりだった。ただそれは円満な形でだ。決してこんな風に傷つけるような言い方をするという意味ではない。だからギーイの話す内容は、やはり自身を守るための、程のいい言い訳でしかなかった。
一瞬考えさせられたものの、アルトは開いた口を閉じることはしなかった。ギーイに文句を言うつもりだ。しかしそれは、またも彼女の言葉に遮られた。
「何より……」ギーイは意味深に呟いた。
その瞬間アルトの思考はふっとんだ。何より……とはなんだろうか?
あくまでアルトの勘でしかないが、このことを聞き逃す方が、ヘテルのことを慮る上では致命的な気がした。彼のことを思って、今ここでギーイを非難するのは容易いが、ふてくされた彼女から、話の続きを聞き出すのは非常に困難だ。
だから消化不足もいいとこだが、アルトはギーイを咎めることもせずに、彼女の続く言葉を待った。
けれどその時、後ろで扉の開く音がした。
アルトがそちらを、気になって見てみれば、そこには項垂れるセアと、眼を細めるソフィーが居た。だがヘテルの姿はなかった。それでアルトは探すのに失敗したのかと、すぐに危惧した。
だが、「ごめんなさい、見つけることはできたのですが……」という彼女の第一声に、その心配は打ち消された。
その発言と彼女達の状態から大体の予測がついたアルトは、緊急性はまだ高くないと判断した。だからセア達を見るのはほどほどに向き直った。ヘテルのことはもちろん心配だが、ギーイの言いかけた話は、やはり今ここで聞いておかなければ、今後もっと悲惨な状況になる予感がしたのだ。
そんな意図でギーイの方を見たが、そこには誰もいなかった。すぐに左右をキョロッキョロッと見回した。右下から左上までく彼女の姿を追って、くまなく探した。しかし彼女の姿はどこにもなかった。
そして見えずとも、宿屋に入って来た時に感じた、あのぬめっとした気配も感じることが出来なかったため、ギーイがただ自分から隠れたのではなく、この場から完全に姿を消したことを察した。
「くそっ!」
悪態つくも、後の祭り。意識が扉の方にそれた一瞬で、ギーイは多分窓などから外に出てしまったのだ。この暗闇の中、闇に溶け込むすべを熟知している彼女を探すことは、アルトにだって難しい。
「ア、アルトさん?」
荒い呼吸音が部屋にした後、怯えるような声がした。
アルトはその声の主の方を見て、一度深く深呼吸すると、「すまんな。別に、あれだ、怒ったとかじゃないから気にするな」苦笑を漏らしてそう言った。
「そう……だったんですね」
セアは安堵したように胸を撫で下ろす。
アルトはこの場で、何かもっと言い訳をすることもできたが、話が余計変に拗れると考えて、誤解覚悟で頷いた。
ギーイのことを追いかけるのはもう無理だと、ちゃんと自分に言い聞かせ、頬をぱしっと叩く。そして出かける用意をしながら、セアに訊く。
「場所は?」
「湖のある広場です」
「分かった、行ってくる」
だいたいのことは察していた。だからその言葉だけで十分だった。セアが追い返されたのなら、自分が行っても無理だろ、という思いがアルトの中にはあったが、諦めの悪い彼女がそれでも帰って来たということは、何か意味がある筈で。信頼して役目を譲ってくれたのだから、やるしかないかと、脱ぎ捨てた外套をもう一度着て、彼は気怠げに伸びをした。
「あの、その……」
その様子を黙ってじっと見ていたセアが、アルトの方をちらちら伺っている。
だからアルトは「言ったろ、気にするな」と、部屋を出るすれ違いざまに、セアの頭を無造作に撫でた。
セアは少し釈然としていない様子だったが、アルトは何か気にするでもなく、いつもと何ら変わることない足取りで部屋を後にした。
後少しで、今章も終わりです。
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