銀の歌

Goodbye to Fantasy
プチ
プチ

幕間 夜によりあう③

公開日時: 2022年1月24日(月) 18:30
文字数:10,402


「だってお前達が酷い奴らだから!!!」


「そういう部分はある。でもお前がそれを倣う必要はない……!」


 深い森の中、いつからか聞こえるようになった怒声。それは森のさざめきに紛れることのない嘆き。獣は拒絶を叫んでいた。


✳︎


──失敗だったろうか。俺が思うのは、そういうことだけ。


 最初は、それなりに静かな入りだったと思う。でも話が進む内に熱が入って来て、気づけばこいつは、敵意を乱雑に周囲へ向けるようになっていた。

 激しい憎悪を伴った感情の発露。仮に鳴子を周囲に仕掛けてなかったとしても、もうどんな獣も近づいて来ないだろう。


 こうなってしまったのは、ひとえに俺の言葉選びがまずかった。この場には、俺とアクストゥルコの二人しかいないから。彼女をこうさせたのが俺以外であるはずがない。

 だが、だとしてもどうすれば良かったのか。


「前も言ったけどな。知り合いでないなら、別に俺は誰が死のうがどうでもいいし。復讐が虚しいとも思ってない。それで気が晴れるんだったらやりゃあいい。でもなぁ、お前の場合は違うだろ! 嫌なんだろ? 殺すこと。命を奪うなんてのは、苦しんでまですることじゃない」


 こう言えば大抵、アクストゥルコは苦しそうな表情を浮かべるけれど、俺の意見を自分の中に取り入れようとはしない。


「だって、だって!! お母さんが! お父さんが! おじさんがおばさんが! 皆が! みんなが死んだんだ!! どうして……殺さないでいられるの? あたしのせいなのに、そんなの不誠実だよ」


 こんな感じで、受け付けてもらえない。心理的に、アクストゥルコは耳を塞いでいる。

 否定はされていないから、的外れなことを、言っている訳ではないのだろう。しかし、どんなに言葉を正しく選んでも、耳を閉ざされてはどうしようもない。


「お前のせいじゃないだろ。生き残ったのは、ただの幸運だ。皆の苦痛を背負って生きる必要はない……」


 元の話からずれていく気はするが、軌道を修正しようとしても、耳を閉ざされる。そうなっては同じ話が延々に繰り返されるだけ。だから今回は、譲るような形で言葉を返した。

 そうしたら次に待っていたのは、涙だった。


「違う違う違う違う違う!! あたしが悪いんだ! あたしが、あたしが! あたしがぁあ!!」


 新しい表情を見れたのは、進歩ではある。しかし出てくる表情が、辛いものばかりで、とても見ていられない。ただ、ヘテルの事を思い出せば、視線を逸らすことも出来ない。アクストゥルコの心を、ちゃんと見る必要がある。


 だから、アクストゥルコが言葉を話せるようになるまで、きちんと待った。涙を己の手で拭う姿を、何秒も何分も何十分も、何もせずに見続けた。今、何かするのは、間違っている気がしたから。それで話が、ようやく少し進んだ。


「あたし達は嘘が分からない」


 何十分も経った後で、前後の繋がりを意識するのもおかしい気はするが。全くもって意味の通らない抽象的な言葉。自分が悪いと言っていたのに、一人称が変わるのも分からなかった。

 でも、この言い方はふざけたものじゃなくて。なんて言えばいいか分からないから、出たものだと思ったし、膿んだ傷痕をわざわざ抉ったのは自分だ。何を言いたいのか汲んでやる義務が、自分にはあった。


「嘘が分からないんだ」


 意味の通らない、同じ言葉を繰り返す。

 ならこれは、アクストゥルコの中で、とても大切な事なんだ。文脈を無視してでも、言いたい言葉ということになるから。


「心の声が聞こえるだけなんだ。感情の色が見えるだけなんだ」


 それは特異な、凡庸な種では持つことが出来ない能力だと思う。卑下する要素は一つもない。それだけの能力が備わっているなら、嘘が分からないなんて事はないだろう。事実、俺はアクストゥルコに何度も心を読まれている。そうして表面上の態度との差から、俺はこいつに嫌われた。


 ほら、見せかけの態度、嘘はバレている。


 なのにアクストゥルコは、それは違うって首を振る。悲しそうな顔を決してやめない。現在進行形で、俺の心は読まれているのに。


「お父さんとか友達とかに『人間に会っていないか』って訊かれた時。『会ってないよ』って、あの時あたしは言ったんだ。そしてそれが通っちゃったんだ。あの時あたしは、びっくりして頭の中が真っ白だったから。心の声をつくれていなかったから」


──それを言われて、言葉に詰まった。それこそアクストゥルコが言うように、頭の中が一瞬、真っ白になった。感情だって、驚き一色。具体性はない。


 確かに、そういう能力なら、万能ではないのかもしれない。そして、そのことを思うのとは別に、聞き逃しちゃならない、重要な言葉を聞いた。曰く、人間に会っていないか。


 何か……嫌な予感がした。そしてその予感は的中していた。


「人間に会っていたのに……あたしは何度も会っていたのに」


 零す言葉は幽鬼のよう。在らず消えず、実体を持たずに、そこに留まり続ける。

 これがアクストゥルコの罪だった。彼女が思う彼女の罪だった。


「あたしが悪かったんだ……あたしが馬鹿だから。あたしのせいで…………せいで………………」


 分かった事は、銀狼族が滅びる原因となったのが、こいつの軽率な行動だっていうこと。話ぶりから察するに、銀狼達には、【人間に近づいてはならない】といった決まり事があったのだと思う。でもこいつは、きっとその禁を破り、密かに人間と会っていた。あるいは人里近くまでやって来ていた。そしてそれが、いつの日にか人間達の間で問題となって…………。


 いや──違う。断じて、そんな事が分かったんじゃない。俺が理解したのは、こいつが少しも特別な存在ではなかったということ。

 強い殺人鬼じゃなくて…………。あの夜、感じたように、ただの幼い女の子だった。


 強い力も早い脚も強靭な肉体もあったけれど、その精神性は随分と幼い。話を聞いていて分かったよ。アクストゥルコがまだ、色んな事を学習途中の子どもだということが。


 なら……ここまでの苦悩は背負わなくていい。


 アクストゥルコにとって、悲しかったという感情を抱えるのは、一族に対して不誠実なことになるのだろう。……自分に罪があると断じていたから。だから悲しみを奥にひた隠し、その一歩手前の感情、怒りをもとにして動いていた。でも人間に対して恨みはあるが、一緒に作った大切な記憶だってあるから、ただ殺すのも辛い。

 けれど一族のことを想えば、立ち止まるという選択肢はなくて。


 ……こいつの抱える事情を考えることすら億劫だ。もう少し上手くやれなかったものか。


 せめて自分にとって悪い人間だけを殺せるような、単純な価値観を持っていたら、まだ楽だったろうに。でもアクストゥルコは区別を──差別をしなかった。命の価値を等しく見ようとしていた。


 アクストゥルコは言っていた。『銀狼は全ての生物の一つ上に位置する生命体』と。


 その通念は俺も知っている。強い者と弱い者とが分けられていることを知っている。ただそれは、全ての場合において、必ずしも弱肉強食という意味ではない……のだろう。強者側には、むしろ残酷な価値観が課せられている。

 アクストゥルコの態度・話ぶりから察せられる。優れた種に課せられている義務を──。



 多分……命を等しく想うように、こいつらの価値観はつくられているんだと思う。



 優れていると話した時、矜持があった。でも余裕はなかった。言わなければならないという、焦燥感ばかりが見えた。はるか昔、真竜が黒いドロドロから弱い生物を守ってくれたように。銀狼という強大な種もまた、そういう風に出来ているのかもしれなかった。


 でも、いくら全ての生物より優れた存在だからって。命を等しく想おうというのは、幼い少女が抱くには、高尚すぎる価値観だ。優先順位を付けるのは、誰もが持つべき権利だ。それさえも不誠実だとしたら、いったいどこに救いがあるのだろう。そんなのは個人の感情を蔑ろにし過ぎている。そこまで自分を偽れば、耐えきれずにいずれは決壊する。


 いや、だから──実際、限界が来ていた。あの修道女の話を聞いたはずだ。童謡を唄うこいつは、ついに子どもを殺せなかったと。


 迷い嘆く子どもを見て、胸を痛めていた。そして彼らを見かねたから、面倒を見始めた。そいつらを孤児にしたのは、自分だと分かっていたのに……。

 そんな環境で生きるなんて、考えただけでも恐ろしい。それは拷問じみた生き地獄……。同じ空気を吸うことさえ、辛かったろう。


 なんでそこまで、愚直に生きた?


 せめてもっと狂ってしまえば良かったのに。なんでそこまで……思わずにはいられない。

 客観的な事実も、こいつ個人の事実も理解した。なら、今も泣く、この少女にしてやれる事はなんだろう。


「…………」


 少し考えて、少し迷う。これを口にしていいのかと。でも、他に見つからない。これくらいしか見つからない。


「…………よく。……よく頑張ったな」


「すん……すん……は?」


 すすり泣く声に紛れて、戸惑いの声が一つ。理解できないものを聞いたと。アクストゥルコはその意味を頭の中で、咀嚼しようとしているようだった。だから俺は待っていた。


 そうして出された結論を、そのまま受け入れた。曰く──


「ふ、ふざけるな!!!!!!」


 顔には衝撃が、そして腹部には、重い……重い鈍痛が走った。


「……ァ。ガァ」


 気が付けば俺は樹上の上で倒れていた。何が起こったか分からなかったが、状況から考えるに、きっと俺は殴りつけられたのだ。それで、その衝撃に肉体が耐えきれなくて、こうして横になっているのだ。


 腹部の痛みが強すぎて分からなかったけど、チカチカと目眩のする視界が教えてくれた。殴られたのが一回ではないことを。顔にも激しい歪みがあることを。額から何かが滲んできた。


「お前、今、何を言ったんだ?」


 まだまともに機能していない頭。それでも耳は、聴こえてきた情報を、適切に処理しろと迫って来た。アクストゥルコが言っていることは分かる。でも、適切に処理できるほど、まだしっかりしていない。


「何……って。…………何……?」


 くらくらする。痛い。息ができない。少し喋るだけでも、たくさんの空気がいる。喉が詰まる。

 でも、それだけはなんとか言えた。


 そうしたらアクストゥルコは言うのだ。


「『頑張ったな』……だと? ふざけるな!! ふざけるな!! ふざけるなぁあああ!!! 言うにことかいて、それかぁあ!!! あたしの話を聞いて、それなのか!!! 知った口を利くな!! 何も知らない人間風情が!!!!」


 怒気……じゃない。殺気だ。激しい殺意だ。顔を見なくても分かる。その表情に慈悲がないことを。

 これに比べれば、あの時の夜は、どれだけ優しかったことか。あの時はまだ、俺を一つの生命として、尊重してくれていた。でも今は、ただの敵としかみなされていない。


 さっきまでの泣き声はどこいった。触れてはいけない逆鱗に、触れてしまったのか。


「あの時の地獄を、お前は、『頑張ったね』。で、すませるのかぁああああ!!!!! すませるものかぁああああああああああ!!!!!! 母親が死んだんだ!!! 父親が死んだんだ!!!! 友達が生きたまま火矢に焼かれたんだ!!!! あの地獄を、お前は、お前がぁあああ!!! 知った口をたたくなぁあああああ!!!!!!」


 語りながら、一歩、また一歩と近づいてくる。フゥーフゥーと荒い息を漏らしながら。口元の歯を、月夜に照らして、歩いてくる。


「そんな陳腐な言葉で! 許されるものか!!! 悪いのは、あたしだ!!!!!! そんなくだらない同情で、一人生き残ったことが許されるものか!!!!!!!!!!!!」


 鳥についばまれる芋虫みたいに丸まって、呼吸が整うのを待っている。今のままじゃ、三語と話すことも難しい。でも、アクストゥルコは待ってくれない。歩いて来る、近づいて来る。彼女の腕が届く位置まで近づかれた時、俺は死ぬだろう。生存本能が駆り立てる。話せと、早く話せと。無理して話せと。


 まだお腹が痛くて、息もまともじゃないけど、俺は話しかけた。それは決して……本能が理由ではないから。


「違……が。う……んだ。そ、ういう……い……み。じゃない」


「どういう意味だ。言ってみろ。殺してやる!」


 歩く速度が早くなる。お前を殺したいんだと、自分の存在の全てをかけて言っている。

 言葉選びが悪かったと、叫びを聞いて理解したから、どうか言わせてくれ。言うために、どれだけだって、身体を酷使する。


「違う……。頑張ったねってのは…………そうじゃない。安い同情がしたいんじゃない。俺はそれを知らないから。言う通りだ。怒るのは、最もだ。だから、言いたかったことはそうじゃない。ウゥー。おえええ」


 息継ぎもせずに無理して喋ったから、胃の中の物が逆流して、口から漏れ出る。でも酸っぱい匂いなんかしなかった。そんな事を感じられるほど、ゆとりがなかった。俺にもアクストゥルコにも。ただ、這いつくばる自分の手を、不快に濡らしただけだった。


「じゃあ、なんだ!! 言ってみろ!!!!!」


 アクストゥルコの視線が突き刺さる。腹が痛くて痛くて、上を向くことすら出来ないから、彼女の表情を確認することだって叶わない。でも、絶対、俺を見ていた。視界に入る、他の一切の情報を切り捨てて、彼女は俺だけを見ていた。


 願うなら、理性が少しでも働いていて欲しい。


 本当だ。生き残りたいからじゃない。もっと正しく伝える努力を、怠ったことを謝りたいからだ。さっきの発言に、アクストゥルコの過去の体験の全てを、貶める意図なんてなかった。俺はそれを知らない。語ってはいけない。そんなこと百も承知だ。


 だから違うんだ。言いたかったことは、俺が言いたかったことは。俺でも言えたことは────




「人を殺すのを……頑張ったね」




 言って、アクストゥルコの足が即座に止まることはなかった。走り終わる時みたいに、緩やかに速度が落ちていって、それで自分の道程を振り返るみたいに止まったのだ。止まった位置は、ちょうど俺のすぐ隣。しゃがめば、手を伸ばす必要だってないくらい、すぐ近く。彼女は俺を見下ろしていた。


「……え?」


 それで、ようやく俺が何を言ったのか理解して、何を言ったのか理解できないと、倫理に反する内容を聞いたと。そんな様子で戸惑ったのだ。


 アクストゥルコに質問をさせるのは酷だろう。道徳を持つ優しい殺人鬼では、何を言ったのか分からないだろうから。

 ちゃんと次の言葉は考えてある。だから続けて話す。


「だって、やりたくなかったんだろ」


 誰がそんな事を言った? 言いはしないが、間違いなく言っていた。空想の言葉じゃない。だから独り言ではなく、明確に返答として、根拠を話したのだ。


「泣いていたから。その爪で引き裂かれると思ったんだ。でもそうはならなかった」


 もうすっかり染み付いた彼女の言葉が、頭の中に響く。『主語を抜いちゃ駄目なんですよ』って。『勘違いされますからね』って。

 二度も同じ過ちを犯した。今度も主語を入れられなかった。これじゃ、いつのことなのかだって分かりにくい。


 でも、もうやってしまった。今、痛い目をみたばかりだというのに、人格は即座には変えられなかった。


 だから代わりに、もっと強調して、あの日だって伝えるんだ。


「アクストゥルコは泣いていたんだ」


 殺人鬼ではないアクストゥルコという少女が泣いていた。


『人を殺すのなんてやめればいい』


 今思えばこれだって、自分が想像する何百倍も無責任な言葉だった。あの程度の激昂で許してもらえたのが奇跡だった。いや、アクストゥルコの事情を知った今では、あまりにも悲しい必然なのだとは思うが。


 だとしてもあそこで、俺の首を、その爪で引き裂いて良かったのだ。言う時にちゃんと、配慮は重ねたよ。でもやっぱり、アクストゥルコが言うように、『知った口』だったから。勝手な事を言う、第三者なんか殺してよかった。


 けれどアクストゥルコは、泣く事を選んでくれた。


 俺のため──なんて言ったりは絶対にしない。アクストゥルコは、張り裂けそうな感情の発散方法として、暴れるのではなく自分アクストゥルコ以外のために、泣く事を選んでくれたのだ。目の前の、最も愚かで低俗で馬鹿な人間をいたぶるのではなく、宿のベッドで眠る彼らと、辺りにある全ての命に配慮して。


 自分が怒り出したら、ただですまないことを知っていたのだろう。だから最も穏便に、最も冷徹に、簡単で割りのいい発散などせずに、自分の全てを殺して、きっと泣いたのだ。


「だとしても、結局。お前が渡そうとしているのは、同情だ。そんなもの……欲しくない…………」


 アクストゥルコは頑として譲らない。──だから、この表現じゃ、またおかしいんだ。俺は知らないのだから。まるでこっちが正しいと言っているみたいだ。そんなことはないのに。稚拙な推論で、語った気になっているだけだ。


 俺が言うべき言葉は、全然違うんだ。素直に訊こう。


「じゃあ何が欲しい?」


 ぐぐと、半身だけ無理矢理起こして、アクストゥルコに問いかける。


「決まってる。人間を皆殺しにする力だ。だってあたしは憎いんだから。悲しい訳ないだろうが……泣く権利がある筈がない」


 アクストゥルコの表情は見えない。半身起き上がらせたと言っても、縦にまっすぐって訳じゃなくて、斜めだし。何より首が、全然持ち上がらない。見えるのは、彼女の足だけだ。


「本人が言うんだ。そうだと思う。おま……アクストゥルコの生い立ちの、ほぼ全てを俺は知らない。いくつか夜を共にしただけの奴が、知った口で話すのは間違ってる」


 呼吸を整える。やろうとする事が、脅迫じみていることを感じて。しかし事実だ。事実だから、言わなきゃいけない。アクストゥルコの生い立ちも何も知らないけど、【今】だけは知っている。


「だから……な。人間を皆殺しにしたいなら訊くよ……」


 いくつかの夜しか知らないけれど、いくつかの夜を、過ごしたんだ。


「それは、自分の母親もか?」


 アクストゥルコの足がぴくりと反応した。膝の下を叩くと、思わず反応するように。自然な驚きを感じていたんだと思う。

 母親は既に死んでいる……は、そうだろう。だから心底軽蔑されるべき質問だし、合理性がないと言うのも最もだ。だから二人目だ。


「それは、あの人の良さそうな修道女もか」


 息を漏らす。これは俺の。もう限界だって言う、身体の救難信号。口元から、ずっと垂れていた黄色い液体。それを手の甲で拭えば、そこには赤い色が多分に含まれていたと知れるから。


 息を漏らす。これは彼女の。もう限界だって言う、心の救難信号。口元から溢れる言葉には、冷たさと鋭さと激しさが。しかし、見えていたよ。見えていなかったけど、見えていたよ。


 顔を上げる。そして言う。


「それは自分が面倒を見た、子どももそうか?」


「黙れよ。黙れよ……。黙れよ…………」


 獣の目元は赤かった。金色の眼は、透明な雫の奥にあって、場違いな感想だけど綺麗だった。


「善悪の判断が付いているんじゃないのか。アクストゥルコは」


 獣の手は力強かった。長く硬い、鋭く尖った爪。敵を殺すための強靭な武器。ただ、その甲には、全く違う感情の方向性が拭われていた。……濡れていた。


「でも善悪の判断を付けるのは、自分にとっての優先順位を付けようとするのは、ダメなんだろ? だってアクストゥルコは人じゃなくて、銀狼だから。全ての命を、平等に扱わないといけない……」


 身体を壊しながら、足腰を震わせながら立ち上がる。常に身体をよろめかせて、手とか頭とか、色んなものでつりあいを取る。倒れないように。


「今までの色んな無知を謝るよ。アクストゥルコは人間だけじゃなくて、アルゴザリードにも優しかった。前脚が伸びてたもんな。身体が助けようとしてたんだろ。一人じゃ起き上がれないだろうからって。……ぅっ、おえええええええ」


 無理して立ち上がったから、表面的な所もそうだけど、内側が何より悲鳴を上げている。多分、臓器が少なからず壊れている。……痛い。腹部だけとは言わない。もう胸周りも痛いし、背骨からも嫌な音が聞こえる。


「あれを見て、急いで突き落としたよ。信じられなかったから…………。アルゴザリードは、アクストゥルコを殺して食べようとしてたから」


 フラつく足取りに、額から流れ視界を汚す赤。それから口元から出る、汚らしい黄色。ルクス街の共同墓地で見た、死体みたいだ。

 でも、でも立ち上がる。アクストゥルコを正面に据えて、立ち上がる。


「そういう種なんだな。全ての生物より優れているから、そういう種なんだな。種でいいんだよな。アクストゥルコの価値観じゃないよな。いや、どうでもいいんだ全部。言いたいのはそうじゃない」


 右胸が激しくせつない。燃えるような凍てつくような、かけがえのない何かがすり減っていく感覚がある。でも、どうでもいい。


「今、俺は泣いているんだろうけどさ。決してそう言うことじゃないからな。俺は、おま……アクストゥルコの事情を何も知らない。心に同調して泣けるはずがないんだ。俺は他者に共感できない、クソ野郎だ」


 アクストゥルコが俺の事を見ている。……心配そうに見ている。お願いだから、やめてくれ。そんな顔をしないでくれ。俺のやってることは、徹頭徹尾、自業自得だ。言葉を適切に使うことを放棄してきたからこうなった。反省する機会なんていくらでもあったのに。セアやヘテル、それからアクストゥルコ。お前達の聞く態度に甘え続けたんだ、俺は。


 だから、その感情を自分のために使ってくれ。

 お願いだから、心配するな。お前の苦しむ姿が、良い子の苦しむ姿が見たくない。


「だって俺は、アクストゥルコの考え方や言動が、一つも納得できない。なんでそう……そうなる。理解できない俺が、アクストゥルコの心に同調して泣くわけが無いんだ」


 歯は食いしばる。両足はしっかり踏みしめた。情けない姿を晒すものか。また悲しませてしまう。またアクストゥルコに、同じ想いを抱かせてしまう。


 自分で奪って、自分で心配する。


 違うだろ──? 俺だって違うし、人間達だってそうだ。どこのクソガキが、孤児になったって、そりゃしゃーねぇだろう。


 最初にやったのはこっちだ。母親を父親を友達を、全てを奪ったのは、人間こっちだ。本当に、自業自得なのは、こっちなんだよ。むしろ、もっと恨まれてよかった話なんだ。


「泣くのは、そこまでの良い子が、こんなことをしなきゃいけない、世界のおかしさを嘆いているんだ」


 手を伸ばす。尊いものを見たから。

 目を凝らす。信じられないものを目にしたから。


 あの人に似た、アクストゥルコの在り方を、やめてほしいと思いながら、続けて欲しいと願った。


 幸せに生きられる者が、幸せに生きて欲しい。本音を言えば、それだけだった。


「人間が悪いじゃないか。なのに、なんでそうなる。おかしいじゃないか。善良な者が善良なまま、生きられないなんて。悪だけが死んで、苦しめば良い話なのに………………。ゔぉえ」


 血を吐いて、その場に倒れてしまった。けれど最初に手をついた、頭は守った。手も痛い。でも死なないから心配しなくて良い。

 俺は死にゃしない。だからアクストゥルコは、アクストゥルコにだけ感情を使ってくれ。


 何に縛られる道理も、ないんだ。


✳︎


 感情をなくしたように、視線は興味のないものを写し続ける。立ち上がりたいんだけど、立ち上がれない。


 言い訳だ。


 身体に力を入れた。そうしたら、それを抑え込むように、肩に手を置かれた。それで何か、ふわふわとしたものが、傷んだ身体を包んだ。


 子守唄のように聞こえて来る。


「あたしはな、人間。あたし達はな、『何を』じゃない。【何もかもを】守るようにって、創られた存在なんだ。皆から教わったよ」


「だから強いんだって。威張るための強さじゃない。見下すための強さじゃない。世界を危険に晒す敵を壊すための矛。神様が用意した、右腕。理を破壊するもの。それがあたし達の存在理由なんだ」


「人間が攻めてきた時、誰も闘わなかったんだ。威嚇とか、ちょっとした抵抗くらいはしたかな? でも率先して闘う者はいなかった。臆病だからじゃないよ。守る対象だと知っていたから、話し合いを求めたんだ。……もう既に、いっぱい殺されてたけど」


「あたしは、そんな皆の振る舞いを、本音を言えば理解できなかった。でも銀狼は、みんなそうしていたんだ。そしてね、それはね。お母さんもだったんだ。人間の容姿だったけれど、お母さんは在り方が銀狼だった。腕を切り落とされても、腹を貫かれても、話し合いを求めたんだ。何か誤解をしているって」


「でも、あたしはね。理解できなかったんだ、皆が。それを人間の血のせいにしたかったけど、お母さんの姿を見たら、それが出来なくなった。

 あたしはきっと、銀狼の中で一番汚い。…………だから生き残らされたのかもしれないね。そして、だから…………。人間を信じられる、全ての命を博愛できる命に……なりたかったんだ。銀狼として生きて、死にたかった」


「そんなだから抱えてるモノは多くて、違ってた。いつか動けなくなる、だから捨てなきゃいけないことも分かってた。でもどの感情も忘れられなかった。風化させるものを決められなかった」


「人にも獣にも銀狼にもなれないの。不完全な価値観だけを抱えているんだ。解決はしてないよ。うん解決はしていないから……。

 でも、今は、ただ。こうやっていたいよ。……アルト」


 隣に座る彼女の体温を感じて、華奢な身体に、これ以上は寄りかかるまいと、また半身を持ち上げた。それで、彼女の半身を預かって、自分の身体もまた、半身だけ預けた。

 腕がぎゅうと圧迫される。なるべくアクストゥルコの腕が楽になるように、隙間だけは作っておいた。




 俺にはそれが、もう、どれかは分からなくなった。ただ、彼女が本当の所で抱えたいものが、どこにも逃げ場がないくらい、ぎゅうぎゅうでなければいいなと、朦朧とする頭で思ってた。

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