銀の歌
幕間
トリオンとの戦いが終わった、その日の夜のこと。彼らはまだ森の中にいた。
紙のこすれる音がして、幼さを顔に残した少年は、自身が持つ、その大きな耳を動かした。
「……んぅ」
少年は吐息を多く含んだ声を漏らし、気だるげに身体を起こす。その様子を見て、橙髪の青年ーアルトーは声をかけた。
「あ……ああ。すまない。起こしたか?」
少年はふるふると、首を横に振る。
「もともと起きてた」
「そうか」
少年からの答えに納得して、アルトは視線を自分の手元に移した。彼は動物の皮で作られた本を手に持ち、そこに何かを書きこんでいるようだった。時折隣に置いたインクにペンを突っ込んでいる。
「何書いてるの……?」
「ん。ああ。日記だよ」
焚き火の僅かな光源を頼りに、それでもすらすらと書き連ねる。その動作は確かに、決して不慣れでなものではない。もうずっとやって来たことなのだろう。
であれば確かに、あれは間違いなく日記なのだ。
そうすると気になってくるのは、日記に書き込まれている内容。いつの世も人は、人の秘密に関心を抱くものだ。
紙のめくれる音も、会話する音も気にせず、毛布をずらして寝転がっている彼女ーーセアも事実、アルトが毎夜続けているこれに気づいた時は、しつこく聞いていたものだった。
そういった面倒くさい過去があるので、ヘテルの興味ありげな様子に気づきながらも、聞かれることを恐れ、視線を合わせずアルトはペンを進ませていた。
……だがいくら経っても、ヘテルが何もしないで、ただじっと見つめてくるので。これはこれでたまらなくなり、何をしているのか自分から声をかけた。
「…………疲れてるだろ? 寝てていいんだぞ」
気まずさから逃れるための方便であったが、実際その言葉には幾らかの正当性も含まれていた。今日の昼頃トリオンと名乗る四十路くらいのひげの生えたおっさんと、その連れの少女との間で一悶着あった。
その騒動に一番関わった張本人は、床の用意ができると、すぐさま寝入った。セアの様子を見れば、ある程度疲れ具合というのは想像できる。
一様大人だから、無理の利かせ方と休み方は分かってる。でもセアやヘテルにはきついだろう。アルトはそう考えていた。
なので先の言葉は、最近考えることが増えたなと感じつつの、気遣いの言葉でもあった。
「……ん」
返事なのか、言葉に対して取り敢えず反応しただけのような、気の入ってない声が聞こえてきた。
そんなやりとりをしばらくして、ようやくアルトは勘付いた。今、この少年は会話を欲しているのだと言うことに。
書きかけの日記をぱたりと閉じて、ヘテルの方を見た。
「どうした?」
返ってくる言葉はないものの、どこか嬉しそうにも見えた。だからこの対応は間違っていなかったのだなと、アルトは胸をなでおろした。彼自身ヘテルに対しての接し方が、未だ掴めないところがあった。
自分の心を開けっぴろげなセアに、慣れすぎたと言ってもいいかもしれない。
ヘテルはよく考える人物であるというのは、アルトはこの数日間で知っていた。だからこうした、どうとも取れない動作にも、なんらかの意味があるのだろうと考えた。
「僕はなんで守られたの」
ーー意表を突かれた。
瞳を覗き込んで投げかけられた言葉は、答えるには非常に難しい言葉だった。ヘテルは異業種。世界中の嫌われ者だ。そしてそのことを、セアはともかく、アルトは知っている。だからどう答えるのが正しいのか迷った。
けれども今、一番心が安定せず不安なのはヘテルである。自分が守られるべき存在でないことは、嫌われ者になった時から、悲しいことに自分でも理解できてしまっているのだ。
でもそれでも自分の親や友達だけは分かってくれると、どこかで信じていたのも事実だ。けれど結果は……。
だからこそヘテルは、信じられなくてこんなことを聞いたのだ。自分の肉親ですら嫌悪した、異業種である自分を……どうして? という気持ちで。
ヘテルは自分がどう思われているのか知りたかった。
セアは非常に優しいし、感情も思考も開けっぴろげだから、邪推(じゃすい)しなくてもいい。けれどアルトという男は、良く言えば冷静、悪く言えば冷徹で、何を考えているのか、いまいち分からなかった。
だから今日の昼間のあの行動。初対面の時にアルトに抱いた、冷たい人物という印象と違うために、ヘテルは動揺した。
ヘテルはアルトに尋ねる。あの行動の真意が知りたくて。彼のまっすぐな瞳を前に、言い淀んでいたが、どこか虚ろな様子で視線を下に落とすと、口を重そうに動かした。
「拾ったから……だろうな。拾う前だったらいくらでも異業種なんて否定するし、関わろうともしない。でもお前をもう、俺達は拾ってしまった。関わっちまったんなら責任は持つ。あのおっさんも言ってたろ? 責任やら覚悟やら。
頭の弱いお人好しはともかく、俺は最初から、異業種と行動を共にする【悪い点】というのは、よく理解している」
現実というものを一切の濁しなく、まだ幼い少年に突きつける。この数日でヘテルの心は、どれほど傷つけられただろう。自分で聞いたことではあるし、自業自得でもあるかもしれない。だが傷つくものは傷つく。
親や友人に追われたのも、まだ記憶に新しい。きゅうきゅう心が締め付けられる。正面を見れなくなるのは今度はヘテルの方だった。それを見てアルトは、少し考えた後、手を彼の方に伸ばした。
「その上で……もう受け入れた。俺の命が続く限り、これからは守ってやる。だから安心しろ」
諦めたようにため息をついている。
良い態度とは言えないものだが、それははっきりとした許容の証。ここは安全だと、宣言したようなものだ。
それでどれだけ心が救われたかは、きっと本人にしか分からない。でも少年の心に、あたたかいものが注ぎ込まれたことは、間違いないだろう。
「それが俺の覚悟と責任だ」
昼間、得体の知れないあのおっさんに言われたことを思い出して、アルトはこの言葉を選択した。
それからすすり泣く声が聞こえたので、頭に置いた手はそのままに、めくりかけの自分の日記帳に彼はまた視線を落とし、見ないことにした。
やがて自分の片手から、わさわさとした感触がなくなったのを感じた。そして誰かが寝床に入っていく気配があった。
アルトはそれでほっと一息ついて、口元を釣り上げて、夜空を見上げた。
「師匠。貴方もこんな気持ちだったんでしょうか……。人を拾うっていうのは……本当に……」
悪態をつきながらも、どこかアルトは誇らしげにしている。そうして今日起きた出来事を、日記に書き留めていると、ふと思い出したことがあった。
「それにしてもカリナ……か。いつだったか殺人鬼もそんな単語を口にしていたな。あいつにも聞くことが出来ちまった」
腰元の短剣を手に取り、鞘から抜き出して、抜き身の刃を、焚き火の炎に照らして眺めた。
夜空に浮かぶ星々と火の光で、それはぎらりときらめいた。
幕間 終了
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