お待たせしました。50話記念、短編集の更新です。前編、後編あります。順番は特にないので、ご自由にお読み下さい。全部で五本です。
銀の歌
短編集 前編
【みんなの寝言】
『セアちゃん』
夜の帳が降り、辺りもすっかり寝静まった頃、その日も彼は一人起きていた。
パチパチと音を立てて、揺らめく炎を無心に見つめる。その内に、懐から手記を取り出して、つらつらと何かを書き込んでいく。手記の表紙に日記と書かれているからには、さしあたって今日の日に起こったことを書いているのだろう。
前髪をいじりながら、はぁとため息を漏らす。
そして思うのは、『今日もあいつに困らせた』ということ。不満……とまではいかないが、それでも書き出す程度には悩みがあって。
はぁ、彼は再びため息を漏らした。
ダングリオを出てまだ数日。それなのに多くの苦労があって。教育を施すのは楽じゃない、そんなことを彼は思っていた。苦心が伝わってくる険しい顔。他の人には理解できない辛さを抱えているのだ。ペンを運ぶ手が、心なしか重々しいのは気のせいではないだろう。
文字を教えたり、生活の知恵を教えたりと、伝えなければいけないことが多すぎる。記憶喪失というやつは本当に……。
彼はそんなことを思いながら、それでもなんとか手記をパタンと閉じて、懐へとしまう。今日あったこと、教えたことは全て書き終えたのだ。
焚き火の火にあたりながら、彼はちらりと横を振り向いた。
「ぐうぉおおお。ぐわぁぁおおおお」
「こいつは本当に女か?」
激しい寝言に思わず、口が動いてしまった。
「くく」と苦笑して、ずれた毛布をかけ直す。
ーー思えば師匠も、こんな苦労をしていたのかもしれないな。
そう考えると、何故だかこの少女の振る舞いも、許せる気になってきてしまって……。
疲れてるのかな? 彼は頭を振って、焚き火の火を、あらかじめ用意しておいた水で消した。そうして荷物から毛布を取り出す。彼女ーーセアの隣に並ぶ。
「ああ、もう。本当に人の気も知らないで……安らかな寝顔しやがって。……寝ていたら、まだ可愛いげがあるんだけどなぁ」
口角を釣り上げて、嫌味ったらしく言う。聞いている人は不快感を示すかもしれない。だが、彼には嫌味を言うくらいの権利はあってしかるべきだし、今の言葉が嫌味だけの意味でないことは、複雑そうな彼の表情を見れば分かるだろう。
ーー彼の心境を一言で言えば、『とかく人助けは難しい』だ。
無邪気に笑うセアにも、自分の思考にも、やれやれといった感じ。そうしてまたもずれ始めた彼女の毛布を、彼はかけ直した。自分も横になり、寝ようかといったところ。すると不意に、寝言が聞こえて来た。
「うぅ。むにゃ……むにゃぁ……。ア、ア、アル……」
「おっ、なんだ。俺のことでも夢に見てるのか。少しは可愛いところもあるじゃないか……」
ふっと柔らかに微笑んだのもつかの間。
「アウトさん」
「誰だそいつ」
食い気味に突っ込む。いらん体力を使ったと、気だるげに空を見上げる。そんな時、また。
「ア……アルト、アルト……さん」
「今度はちゃんと言えたな、なんだ?」
その言葉に呼応するように、セアは口をもごもごとさせ始める。そうして時間をかけた後、彼女はなんとか声を振り絞った。
「アルトさんの『ア』はね〜。アクネ菌の『ア』」
※ニキビの原因の元。
「ーーーーーー」
絶句。能面とかした表情を、彼は手で覆い隠した。セアが言葉を発するまで、半ば時間があったため、返って彼は集中して聞いてしまっていたのだ。
しばらくした後、下を向いてしまったため、これ以上彼の表情は見てとれないが、きっと悲しみにくれていることだろう。
彼ーーアルトの想いが伝わるのはいつの日か……。負けるなアルト、頑張れアルト。君の受難はまだまだ始まったばかりだ!
『越えたくない一線』
深夜それは誰もが寝静まり、英気を蓄え明日へと備える時間である。王国聖騎士団コスタリカ、ユークリウス班の者達もそれは同様であった。
しかしながらここに二人、その理(ことわり)を破る者達がいた。
✳︎
「ふぅ。疲れたな」
コキコキと肩を鳴らす。先程まで私は、書かなければならない、資料の数々をまとめていたのだ。その資料を書くために、ユークリウス剣士長の天幕まで行っていたのだが……。
「あの英雄は……相変わらず。ほんとにもぅ……! しかめっ面以外の顔ができないものなのかしら……はぁ」
言いながら髪留めを外し、ため息までついてしまう。自分の持ち場へ帰るまでの足取りは重くて、気持ちの整理は捗らない。ーー不満を抱えている。
それはユークリウス剣士長のこと。それは部下のこと。それは同僚のこと。
皆の顔を脳裏に思い浮かばせながら、ため息をつく。わざわざ思い返さなくてもいいことなのだが、ついつい彼らのことを考えてしまう。そして考えれば考えるほど、ため息をつくようなことばかり思い浮かんでくる。
こんなのはストレスを溜めるだけだ。せっかくの自由時間なのだから、他のーーもっと楽しいことを考えればいいのだ。……けれど私の頭はどうも、あの子達のことばかり考えてしまう。思い返せば腹立つことばかりなのだが、心のどこかには、それを良しとしてしまっている自分もいた。
「なんだかんだ……あの賑やかな日々が私は好きだものね」
夜の中に溶け込む程の静かな声。他の人から見れば、哀愁が漂っているように見えるのだろう。だって実際そういう風に振舞っているだから。そんな自分に少しだけ酔っているのだから。
たまにはいいよね?
最近は私も、ユークリウス剣士長と同じくらい、しかめっ面ばかりしていたと思うから。少しの時間くらい、心中に抱えた荷物を降ろして、自分の世界に入っても許されるだろう。
誰がいるという訳でもないのに、誰かに問いかけながら、誰かに言い訳しながら、ぼんやり夜空を見上げた。
✳︎
「着いちゃったか」
ポツリと呟く。自分の天幕に帰るまでの数分の間。重責を忘れて、ひたすらに物思いにふけった。
何者にも縛られず、脳を自分のためだけに使えたこの数分、そのなんでもない時間が幸福だった。だから名残惜しさから、そんなことを呟いてしまったのだ。
パンパンと自分の頰を叩き、くだらない哀愁を忘れるべく努める。
だって明日からもまた激務が始まるのだから。
苦しげに笑って、あらかじめ敷かれていた毛布ーシグリアが用意しといたーをばさっとめくった。
そうして見てしまった。毛布を剥ぎ取ったその下の【何かを】。それは大きくて、頭部は光沢を放っていて、全体的に黒くて……。そう、それは紛れもなく。
「何やってるんですか。アスハ副剣士長……」
物理的にも精神的にも見下しながら呟く。部下の天幕に無断で侵入し、あまつさえ勝手に毛布を使っている。このことに怒らないでいられるほど、私は人間が出来ていない。
やっと……やっと休めるかと思ったのに……! そんな叫び声を心の中であげる。
ーーでも、実のところを言うと、勝手に毛布を使われる程度だったら我慢できるのだ。
できていて欲しくないけれど、いつの頃からか、こんなこと日常茶飯事と化していたから。そこらへんまでは人間ができている、できてしまったのだ。
では何が許せないか? というよりは見下したのかというと。それは以下のこと。
「なんで全裸何ですか……。ついに人間としての尊厳も忘れましたか」
アスハ副剣士長は曲がりなりにも私の上官である。それも階級は五つ上。侮蔑するのは、まずいなんて言葉じゃ言い表せないくらい、不敬なのだが。それでもつい口に出してしまった。
やってしまった。考えたのも束の間。
「寝てる? 嘘でしょ……? この人本当に寝てるの? 部下の布団で……?」
いつもの冗談じゃない。本気で寝ている。この人。
内心で声を荒げながら、事態の把握に努める。そうして弾き出した答えは、取り敢えず、起こさないとだった。十中八九ふざけてる間に、寝こけてしまっただけなのだろうが。起こして事情を聞かないことには始まらない。
筋肉質でありながらも柔らかな肩を掴み、ゆさゆさと揺らす。
「起きて下さい、アスハ副剣士長……! その……裸で寝ていたら風邪を引きますよ」
声をかけながら揺らすが中々起きない。どうやら自分が思ったよりも眠りが深そうだ。
最近アスハ副剣士長も忙しそうだったから、仕方ないのかな? 今日は、私は布団に入れない。アスハ副剣士長がここにいるっていうことは、彼女の布団は空いているのだろうけれど。……まさか上官の布団を使うわけにもいかないし。
今日の安らかな就寝を半ば諦めながら、ゆすり続ける。
ーー後、10秒ゆすっても起きなかったら諦めよう。そう思った矢先だ。不快げに声を漏らした後、アスハ副剣士長の身体がもぞもぞと動き出した。
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騒々しい……何事だ?
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憂鬱げにむくりと上半身を起こしたアスハ副剣士長。そして、そんな内容が書かれた頁(ぺーじ)を見せてきた。
いや、こっちのセリフ〜。
考えつつも、アスハ副剣士長に迷惑をかけられた回数など、数えるのも馬鹿らしいほどだ。だから落ち着けと、自分に言い聞かせる。
「こっちがそう言いたい。と言いたいところですが、それはもういいです。
アスハ副剣士長、裸で寝ていてはお風邪を召してしまいますよ。それにここは私の布団です。案内して差し上げますから、どうか服を着て一緒に来てください」
未だ眠たげな瞳を覗き込み、優しく諭すように言う。しかしアスハ副剣士長は、私の言葉にはまるで答えず、代わりに頬を染めて変なことを言う。
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あっ! ユークリウス剣士長でしたか!! 失礼しました! 私は貴方のことをお待ちしておりました。いつもこうやって待っているんですよ……ようやく……なんですね///
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この女(アマ)何言ってやがる。
「待っていましたって……。アスハ副剣士長、ここは私の布団で、私はトーロスです! ユークリウス剣士長ではありません! 起きて下さい!」
先ほどよりも勢いをつけてゆらす。しかし懸命の努力も、誤解した今のアスハ副剣士長には通じないらしく……。
「ほら! 一緒に寝ましょう!! ユークリウス様!! 私のAU!!!」
無理矢理に私を布団に連れ込もうとする。そしてカチャカチャと私の鎧を剥ぎ取ってくる。
「えっ!? ちょっ、やめて下さい!! アスハ副剣士長! 私はユークリウス剣士長ではありません。ていうかここは私の布団です!!」
しかしアスハ副剣士長は、必死の抵抗も意に介さず、慣れた手つきで鎧を外してくる。気づけば中に着る肌着だけとなった。
このままではまずい……。思いながらも、中々アスハ副剣士長の絡みを抜け出せないでいる。
「やっ……やめ!」
グイグイと押しのけようとするが離れない。腐っても副剣士長。技の巧みさ、力、その他諸々。アスハ副剣士長の方が、私よりも圧倒的に上手なのだ。
「ここは【私の部屋】ですから、誰の邪魔も入りません!!さぁ!!!」
いつのまにか文字を使って話すことも忘れて、アスハ副剣士長は高らかに言う。だが彼女の放った言葉が、ついに私の琴線に触れた。
「私の部屋……だと? ここは……ここはぁ!!」
「私の部屋だぁぁぁぁぁあああああ!!!」
私のどこにそんな発声器官があったのか。自分でも驚くほど、大きな声が出た。そうして目の前がだんだん暗くなってきて……。意識が覚束なく……。
✳︎
「ーーハッ!!」
ガバッと勢いよく布団から飛び上がる。そして視界に入ってきたのは、微妙に見知った風景ーー天幕の中だった。混乱している頭で、それでも周囲を見渡して、情報を集めようとする。そんな私に声がかけられた。
「起きたのか。トーロス」
机に向かい、優雅にもコーヒーをすすっている人物がそう言った。
「ラーニ……」
はぁはぁと吐息を漏らしながら、おぼつかない頭で焦点を当てる。
「ずず。……悪夢だったのか? やたらうなされていたが」
ラーニはパタンと本を閉じると、戸棚からカップをもう一つ取り出した。そして自分と同じ飲み物を作って、そこに入れると、手渡してくれた。
熱い湯気を立てたカップが、私の手の中に収まる。それを見てハッとして思う。
「ここって、ラーニの部屋!?」
「……そうだが」
それを聞いて驚いた。
アスハ副剣士長はどうなった? 私は昨晩どうしてた!?
脳内で様々な憶測が飛び交う。なんとか整理しようと、今まで自分が見ていたものを思い出そうとするが、それらは思い出した端から、蜃気楼のように実態を無くしていく。
ーーまさか、夢……だったのか。
混乱して頭を抑える。それを見ていたラーニキリスが、これはまずいかと、背中を優しく叩いてくれた。
「トーロス。お前は昨日、道中で木にもたれかかって倒れていたんだ。恐らく自分の寝床に戻ろうとしたんだろうけど、疲れからか……。そこで寝息を立てて寝ていたよ」
優しく背を叩かれながら、少しづつ呼吸を整えていく。そしてその言葉を聞かされ、ようやく今の状況に理解が追いついて来た。
「ほっとく訳にもいかなくてな。一旦起こして、未だ半目のお前を連れて、こうして俺の……失礼。私の布団にもう一度寝かせておいたということだ。
全く、お陰で布団なしで眠ることになったんだぞ」
ラーニは飲み終えたのだろう。コーヒーのカップを机に置くと、こちらの方に振り向いた。
「だがまぁ、色々と寝言を言うお前を見れたのは、少し面白かったな。寝言を言う人じゃないと考えていたから、率直に言って意外だった」
うんうんと頷きながら、ほっこりした様子を見せるラーニ。その表情があんまりにも嬉しそうだったから、私がどんな事を言っていたのか少しだけ気になって、尋ねてみた。
「私……なんて言ってたの?」
するとラーニは、少し言いにくそうだったが、口を開いた。
「いやぁ、その……。ユークリウス剣士長がどうとか、裸がどうとか。待っていましたとか。アスハ副剣士長がどうたらとか」
なんかそんな感じ……と苦しそうにラーニは笑った。それを聞き、私の貞操が危機一髪だった事が分かった。いかに夢と言えどあのまま突き進んでいけば、行き着く先は……。
想像して顔を青ざめさせ、両手で顔を覆う。そんな私に何かを感じ取ったのだろう。ラーニキリスが気遣って、不慣れな様子でちゃかした事を言う。
「もしかしてそのままにしておいた方が良かったか? わ、俺。私じゃなくて、ユークリウス剣士長の方が……。英雄、王子様の接吻で起きる方が……」
頑張って下品な表情を作ろうとして、照れ照れと顔を赤らめる。こちらを気遣ってくれているのがよく分かる。慣れない冗談まで言ってくれて……。
けれど突っ込みを入れる余裕も、夢の中でアスハ副剣士長に奪われたから、今の私にはなくて。
ラーニに疲れきった絶望を携えた瞳を向けた。
「運んでくれてありがとう」
「いやいや」
ラーニは机に置いてあるカップを口元に近づけた。飲み終えた、というのは私の勘違いだったようだ。
『傷つく……』
ロケーション。小屋の中。
当方の名前はヒーロー。
えっ本名が気になる? しかし最近は、自己紹介はこれで済ませているのだから、納得して貰わなければ仕方ない。
ヒーローと名乗る理由は簡単。誰かを助けられる人物であれたらいい。それだけだ。
そうしてその願いのもと、今日もまた一人。傷ついた人物を助けた。
ベッドに目をやれば、そこにはこの世のものとは思えない程の美を持った人物がいる。彼女の名前は……知らない。ただ彼女が何をしている人物なのかは知っている。
人を殺す悪鬼羅刹の類。すなわち殺人鬼だ。
それに加えてこの容姿、見つけた時はまさかとは思ったが、どうやら破壊の獣、銀狼(ぎんろう)のようだ。椅子を引っ張って、彼女が寝ているベッドの近くに置く。そうして彼女のすぅすぅと眠る寝顔を近くで眺める。
サラサラとした銀髪と頭部から生える獣の耳。それと口元から遠慮気味に飛び出る八重歯。
「これは愛らしい」
彼女の無垢で純粋な寝姿が、そう錯覚させた。例えそれが幻影だとしても、美しい少女の肢体をとる彼女を見ては、そう思わざるを得ない。
銀狼、又の名を妖狼(ようろう)。今の彼女の姿は、人間に擬態しているだけのものなのだ。眠っているというのに、擬態が解けないのは疑問だが、獣の耳や尻尾が、人間とは根本的に違うものであると主張しているようだった。
「擬態が得意なのか下手なのか」
寝ているというのに擬態は解けず。擬態が上手いかと思いきや、一部分変わりきれていない。
なんだかちぐはぐに見えるが、そのおかげで、幻想的な美しさが出ているのだから、なかなかどうしてうまくいかないものだ。
考えて、もう少し顔を覗き込む。そうして眺めていると、やがて彼女は不快げに顔を歪めていった。なにか苦しそうだ。病気か怪我かその類のものかと心配する。
彼女をここに連れ込んだ時には、直視するのもできないほど、痛々しい大怪我を負っていた。だが人間と比べ回復力が早く、見る間に自然治癒していったので驚いた。
なので怪我に対する心配はさほどしていなかったのだが、ここに来てこうも顔を歪ませるとは。
急いで薬を取り出して、ギン素を使い、掌の上に氷を創り出す。用意は整ったからと、殺人鬼の方を見ると。
「うぅ! や、やめろ! やめろおおぉぉ! 来るなぁぁぁ!!」
涙を浮かべながら叫ぶ彼女がいた。
「ーー!?」
悲痛な叫びに一瞬足がすくむも、苦しむ彼女の元へ近づいた。そして氷を布で包み、彼女の額に乗せた。少しでもよくなれば。
そんな想いの元行ったが、当方は医療に関してはさっぱりだ。だけどやれることはやっておきたかった。
そうして彼女は少しの間落ち着いくれたが、やはり数十分後には、また苦しそうに顔を歪め、唸り声を上げた。
そうして何度目かの彼女の嗚咽の後に気づいた。彼女は体調が悪くて叫んでいるのではなく、悪夢を見て叫んでいるのだと。
はぁはぁ苦しそうに悶える彼女を見て、何もできない自分の未熟さを悔やんだ。
心の傷。だとしたら無理矢理起こすのも、返ってその悪夢を引きずる原因となるかもしれないから、手の出しようがなかった。
自分の無力さに打ちひしがれていると、不意にこんな言葉が聞こえてきた。
「ああああ! 逃げた、逃げた! あの男、逃げた!! 手出しができないからって! 逃げた! うあああう」
びくっと震える。まるで自分が責められているように感じたから。
もちろん、彼女は悪夢にうなされて言っているのだとは思うが。今の状況を読んだように、あまりに正確な事を言うもんだから。
ドキドキと心臓の音を鳴らして、彼女の元へ恐る恐る近寄る。悪夢だからと諦め、何もしなかったのが悪かったのかと考えて。
何をするべきか考えた末に、彼女のおでこを撫でようと決断して、手を差し伸ばした時だった。その手が勢いよくひっぱたかれた。
「嫌! やめて! 来ないで!! 触れないで!!!」
どうしろと言うんだ……!
美しい少女から、拒絶の言葉を吐かれた。いかに年を積んでいようと辛い。いや、むしろ年を積んでいるからこそ辛いものがある。立ち直れないほどの衝撃を負い、ヨロヨロと壁際まで後退する。そして尻餅をつく。
顔面蒼白になった当方が最後に聞いた言葉は……。
「本当に……気持ち悪い……」
聞いて悲しくなったが、寝言だからね。言い聞かせた。
短編集 前編 終了
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