なんだかんだで一周年です。
記念絵は、新章の扉絵も兼ねて、載せたいなと考えております。また次章に入る前に、2話ばかり幕間を挟みたいと考えておりますので、もろもろ、お待ちいただければなと思います。
……今章も残すところ少しです。楽しんでいただければ幸いです。
「それが、アルトの師匠さんの名前……?」
声を失ったように、ヘテルは言った。
「ああ、そうだ。俺に人間としての生き方を教えてくれた恩人だ」
「そっか、そうなんだ」
ヘテルは自分のことも忘れて、俺の発言の真贋ばかりを追っていた。そのことが何より大事だというように。「それじゃあ、あの子は」意味深に呟いていたその言葉。もちろん聞き漏らさなかったが、俺は何も、自分の師匠の名前に驚いて欲しかったのではない。
俺が師匠の名を出したのは、ヘテルの感情を測るのではなく、彼の感情に寄り添うため。自分には性別が一致しない経験がなかったから、どこまでいっても彼の共感は得られない。だから、そういう経験がある人の話を出す他ないと考えた。
「ヘテル。今は、それはいい」
言われるとハッとして、ヘテルはこちらを見た。自分の事情を忘れるほど、意識を奪われていたらしい。
「でも」
納得できないと、まだ掘り下げようとしている。けれどそこはそれ、何のためにあの人の名前を出したのか、ちゃんと決めていたから、譲らずに押し切った。
ヘテルは困り眉だったが、最後には分かったと了承してくれた。つくづく大人な……大人になってしまった子だ、そう思った。
……ともあれ、これで本題に入れる。
✳︎
「師匠は女性の身体を持っていたが、男性として扱われることを望んでいた」
まず、言わなければならないのはこれだった。ヘテルの共感を誘う、興味を引く、名目はなんでもいい。とにかく内側に入るためのきっかけとして、この言葉が必要だった。
そして思った通り、ヘテルは興味を惹かれてか、息を飲んでいた。ただ少し、その反応には自分の思い違いがあった。だって知らなかったように驚くんだから。自分一人だけが性別違和を抱えている、そんな思いを彼は抱えていたようだ。
……けれどよく考えれば不思議でもない。
ヘテルについて知ってることは未だ少ないが、先の話を聞いても分かるように、今まで閉塞的な環境にいただろうことは、察せる事だった。であれば自分だけと思うのは、おかしなことではなかった。
きっと周りの普通に押しつぶされ、外の世界を考えることだって出来なかったのだろう。
でも俺は旅人だ。過去に色んな物を見てきた。もっと特殊な在り方をしている誰かとも話したことがある。だから、それが少なく珍しいことは知っていても、ああそうかと測って思うだけだ。ある事はあるのだから……。
でもこの理解では、ヘテルの言った『なぜ嫌わない』。その発言の根底にある、自己嫌悪を取り除くことはできない。
だから師匠の話を続ける必要がある。例え、さらに嫌われることになったとしても。
「当時の俺は幼かったから、その言葉の意味がよく分からなかった。けれど俺は師匠を……まぁ敬愛していたから、あの人が嫌がることはしたくなかった。だから何も聞かずに、『はい』と伝えたんだ」
長いこと、思い出すことさえ避けてきた記憶。自分の人生の中で、何よりも鮮烈な日々だったというのに、すっかり埃かぶってしまっている。思い返しながら話すのは、存外大変だ。
「あー……だから俺は。以来、師匠のことを決して女扱いしなかった。そうすることが正しいと思ったから、なにせ自分で言ったんだから、間違いないと」
それでもヘテルのため、あの日々の中で経験したこと、言ったこと、言われたこと、彼に関連しそうなことは、埃を払って思い出す。
「でもその思い込みが間違いだった。何より発言の意味を、深く考えなかったのがまずかった」
そこまで言って、口がつまる。何かいけないものに触れている気がして。何の負い目を感じてか、つい伏し目がちになる。
けれどその背徳感は、ヘテルが与えているものではない。彼はむしろ、こちらの話に興味ありげに耳を傾けているのだから。
ヘテルと関わることを認めた。彼を助けることに協力すると言った。だから言いようのない不安、負い目があっても、彼のためであれば、俺は口を動かさなければならない。
助けなければならないものを、助けられない方が、よっぽど誓いに背くことになってしまう。
「…………なんでかって言うと俺の目からしたら、師匠はずっと女性だったから」
離れ離れの長椅子だ。少し距離がある。隣にいるわけじゃない。だっていうのに、ヘテルの方から、ごくんと喉を鳴らす音がはっきり聞こえた。
「動作がどれも、なんていうか……柔らかかった。あの人の穏やかな気性も影響してただろう。だけど師匠の所作には、そういうのとはまた別の、柔らかさがあったんだ。
例え話だが……走り込んで疲れた人の額にキスをするような、そういう、男性には見られない心の動きが俺には見えたんだ」
師匠から感じていたあの感覚を、今でも自分で言語化できない。あの感覚を説明する語彙を手に入れようと、説明の最中、手が勝手にもがくように空中でうごめく。
だけど結局、その手には何もなくて、喪失感だけが手元にあった。
「……あれは優しいからの動きじゃない、母がする慈しみだったように俺には思う。父母の記憶がない、俺の女性観に問題があるだけかもしれないけど……。
だが男性らしい粗野な振る舞いをしようとして、誤って誰かを傷つけてしまった時、胸をぎゅっと押さえつけた師匠の動作は、どうしても脳にこびりついて離れない」
自分の女性を嫌い、少ない価値観で男性像を創り上げてしまった師匠。自分でも自分をどう扱っていいのか分からず、居場所を失ったように、眼球を動かしていた師匠。後ろから見ていて、その姿は苦しかった。
あの人は自分に対して強く雄々しくはあれた。けれど人に対して強く雄々しくはなれなかった。だから自己の解離が何度も起きていた。
そんなに苦しいならやめてしまえばいい、何度もそう思った。けれどあの人はやめなかった。──否。やめられなかった。
あの人は強く雄々しく、又、誰にも見られない場所で、自分の傷を泣きながら慰める、そんな健気なか弱い人だった。
無理して笑うあの人は強く綺麗で、容姿を抜きにすれば男性にも見えた。けれど自分の弱さを理解して、ひっそりと傷を癒すあの人は……。
「だからあの人は女性だったんだ」
師匠には申し訳ないが、そのどちらの面も見てきた俺は、そう感じざるをえなかった。
「実際、師匠自身も、自分の振る舞いに疑問を覚えていたはずだ。男性のような格好をして、男性のような言葉遣いをして、俺も見かけの上では男性として扱って、不満を感じることはなかったはずだ。自分が求めた振る舞いを、自他共に認めてくれる環境があったのだから」
語る言葉は空虚。だって話してる自分が、その言葉を否定したがっているのだから。あの人は不満を感じていなかった? 馬鹿を言うな。そんな訳がないだろう。
「でもあの人はいつも苦しそうだった。男性であるということに苦しんでいた」
師匠の泣いている顔を一瞬幻視して、言葉に詰まる。
気を落ち着かせるために目を瞑る。そして、言葉を続けようとした矢先。
「アルトは何を聞かせたいの?」
ヘテルの強い口調を聞いた。
✳︎
強い語気に意識を少し刈られた。そのためすぐに反論することは出来なくて、捲し立てるようなヘテルの言葉の対応に遅れた。
「やめろって言いたいの? 後悔することになるから!?」
血走った、とまでは言わないが、それでもすごい形相だ。先程まで塞ぎ込んでいた人物がする類の顔ではない。ヘテルにとって、今の言葉はそれだけ禁忌だったということだろう。
「それは!! それは!! ひど」
「違うよヘテル」
はっぱのまえに吹き飛んだ言葉。それをようやく思い出したから静止をかける。
興奮しているヘテルをなだめるため、敵意はないよと笑みを向けた。その表情は、俺とセアの喧嘩を仲裁する時、彼がいつもする表情と恐らくは似ていただろう。
いつの間にか立ち上がっていたヘテルだったが、やがて意気消沈して、とぼとぼ歩いて、また長椅子に崩れるように腰掛けた。
「違うんだ。そういうことじゃない。そういうことを結論には持ってこない」
ヘテルの誤解を解くために強調して言う。椅子の上で丸まった彼はそれを聞いて、立てた膝に頭をつけて、小さくうんと頷いていた。
「まあ、つまり……」
師匠申し訳ありません。
心の中で謝りながら、改めてヘテルに結論を伝える。
「ヘテルと師匠じゃ、状況が全く違うんだ」
表情暗く、どんよりしていたヘテルだったが、信じがたい言葉を聞いたと言うように、顔を上げた。長く垂れた耳は、ぴくぴくと動いていた。
良い流れに乗れたのだと思う。師匠には申し訳ないが、それでも師匠の話を続ける意味が証明されてしまった。話を始めた責任がある、続けなくてはならない。
ヘテルの表情が良くなるのと反対に、俺の顔は、きっと色を失っただろう……。でもまぁ、月明かりしかない深夜だ。きっと顔色までは分からない。俺と同じような眼は持っていないと、信じるよ。
「師匠は男性になりたかったんじゃない。女性であることをやめたかったんだ」
ヘテルが絶句したのが分かるようだった。
状況が異なると言ったのは、つまりそう言うこと。ヘテルは【女性になりたい】。師匠は【女性をやめたい】。そういう違いがあったのだ。
「だからあの人の男性は歪だった。女性としての振る舞いの方がどう考えてもあっていた。側から見ててもそんなだ、苦しむのは火を見るよりも明らかだったよ」
師匠の心は女性を望んでいた。身体と頭が女性を否定していた。自己矛盾に陥るのはどれだけ辛かったことだろう。
「ヘテル。お前は師匠とは違う。お前は女性だよ。自分の性をやめたいんじゃなくて、【なりたいんだろう?】」
改めて確認する。ここが違えば俺の理解が全く見当違いなものになるから。でもきっと、この部分が違うことはない。だってこの裏付けを取るために、先程俺は『女性に憧れたか、女性性の役割に惹かれたか』を聞いたのだ。
女性性の役割に惹かれたのであれば、色々慎重になる必要が、俺の経験則ではあった。しかしヘテルが言ったのは、ヘテルがした動作は。
「そう……うん、そう」
大切な思いを抱えるように。弱く強く脆く美しく、ヘテルは繊細な思いを口にした。不安があるのだろう、どこか落ち着きは無かったが、それでも肯定の意思を示した。
それを聞いて安心して、言葉を重ねた。
「気持ち悪いか、気持ち悪くないかなんて、俺にとっちゃどうでもいい。どうせ俺は他人を測るだけの人間だ。心で理解することが難しい。でも、ただ、たった一つ、心から心配できることがあるとしたら」
少しためを作る。何も演出でやっている訳ではないが、ついそうなってしまう。我ながら嘘くさいと思う、だとしても俺が伝えたい大切なことではあるから、印象的に映るなら、もうそれでいいだろう。
「望んだことで、苦しまないでほしいってだけだ」
性別に悩むことなんてない上に、人の気持ちも測れるだけ。ヘテルの気持ちは、本当の所、分かっていないかもしれない。ただこの言葉だけは本物だ。だって見てきたから。
「より正確に言うなら、自分の願いを自分でも正しく理解できず、結果を間違えてしまうこと。これが恐ろしい」
賢いヘテルのことだ。要点は掴んでいるだろう。だから必要ないかもしれないが、一様補足した。
「まぁ、大丈夫だろうがな。お前はお前の願いを分かっている。だったら自分を嫌悪しなくていい。現状の話だからあれだが……どうせ今お前と一緒にいるのは、俺と、いかれてるほどのお人好しだ。誰もお前に、お前自身を嫌悪させることは言わないよ」
「でも、それでもやっぱり心配で、怖くて。アルトは大丈夫でも、セアさんは……セアさんは……」
ヘテルが不安を口にする。しかしその言葉は全くの杞憂で。ヘテルだってあいつの人格を分かってるだろうに。でもそれでも不安が勝るなら、言ってやる。
「あいつを甘く見るな。お前が、分かってるだろう」
これまでと同じように、ヘテルの方は見ない。しかしこれまでのような独白ではなく、明確に彼に向けて言った。
だからヘテルは少しびくりと体を震わせて、怯えるようではあったが、「……うん」と認めて頷いていた。
こちらからヘテルに伝えたいことは、もうほとんど伝えた。だからここまでの言葉で、何も響くものがなければ、俺にはもう、大分どうしようもない。最悪、無理矢理連れ帰るが、それでは何の解決にもならないし、話すだけ話させてしまったのだから、これまで通りという訳にもいかなくなる。だからなるべくなら、彼の口から、『もう大丈夫』といった言葉を聞きたい……。
態度にはおくびにも出さないで、そんな憂慮をする。そしてヘテルの口からついて出たのは、「訊かせてほしい」というものだった。
「何を?」
当たり前の疑問を口にしたら、少しもじもじと聞き辛そうな様子をヘテルは浮かべた。でも質問の内容が分からないので、こちらからできることはない。だからしばらくまた待つこととなった。数秒から十数秒時間が経って、ようやく彼は口を開いた。
「その、アルトの師匠さんは、どうして男性になりたかったの?」
意表を突かれたが、考えてみれば当然の疑問だったかもしれない。似て非なるものとはいえ、同じ境遇に置かれた人物の事情は気になるものだ。
今日何度目の謝罪かも分からないが、ここまで来てだんまりはなしだ。
心の中でまた師匠に頭を深く下げて言った。
「ああ。そうだな。強いて理由を言うなら……【化粧が下手だったんだよ】」
「へ?」
「ああ、俺の想像の範囲な。実際どうかは違うかも……でも俺の目にはそう見えてた」
ヘテルの狼狽は見なくても分かったが、これ以上語る言葉を持っていない。無理すれば話すこともできるが、これ以上は本当に、何の手掛かりもない想像だ。
やたらめったら確証もない情報は伝えたくない。そんな建前のもと、やっぱり自分は師匠の事情について、自分でも分からない、隠したい何かがあったのだ。
けれどヘテルは、何か会得してくれて、頷いてもくれた。
その動作を見て、負い目があった。嘘はついていないが、なんだか騙しているようで気が引けた。ただ、本人が納得したのだ。だったら言わなくても構わない……はずだ。
「……帰ろう、ヘテル。もうすぐ夜もあけるぞ?」
ヘテルの純粋さから逃げるように言った。そうしたら彼はうんと頷いた。それで動き出す気配も感じ取ったから、これで一安心かと思った。
でもその気配は一瞬だった。ヘテルは動きかけた身体を止めると、俺の顔の、そのずっと奥にある、白みだした空に視線を向けた。
「あのね。一つ、まだ不安なことがあるんだ」
ヘテルはそう言って、地面まで届かない足をぷらぷらと揺らす。その様はまさに、まだ自分が地に足ついていないんだと、主張するようで。
「僕だって分からない。このまま男のままでも。そう時々思う自分もいるから」
先程の話に触発されたのか。そんな不安を口にした。失敗したかな? 考えもしたが、すぐにそれは違うと否定した。なんでかって言うと、最初ヘテルが、自分を語り始めた時にこう言ったことを思い出したからだ。
『僕は女の子だったと思います』。
【だった】に【思います】。もし失敗したと言うのなら、これを見逃したことが、俺の今日一番の失敗だ。
師匠とは事情が違うとは言え、あの人よりも一致しているとは言え、それでも迷っていたのは明らかだったじゃないか。
自分の対応に自分で悔いて、懺悔室で神父の言葉を待つ罪人のように、俺は続くヘテルの言葉を待った。
「でも辛いのは、もう時間が残っていないこと。異業種だし……僕がいずれ死ぬのは分かってる」
「それは、あいつが頑張る。異業種は言い訳に使わなくていい」
「厳しい」
むっといじけたように口を膨らませる。でもこのことは否定しなくちゃいけない。なにせ今の旅の目的のほとんどは、ヘテルの異業化をどうにかするための旅だからだ。このことを肯定するようなら、それは今の旅の否定、なによりセアの努力の全てを無視することに繋がる。
それはだめだろう。悪辣で酷い自分が言うならまだしも、人の痛みが分かる良い子に、そんなことを言わせたくはない。
そうした自分の思いが、言わずとも伝わったのか、ヘテルは思案したように俯き静かになると、やがて顔を上げ主張を変えた。
「異業種じゃなくっても。時間がない」
どういうことだろうか? 先程の話もそうだったが、実際の所、時間がないが何を指しているか分からない。話ぶりから命の時間という意味でないのは、最初から分かっていたが、他の何を指しているか察することは出来なかった。
ただ続く一言で理解できたし、たしかにそれは、俺では察っせなかった感情だと思った。
「身体が成長していくんだ」
重い一言だ。俺には理解できないが、何を言うかは、もう十分すぎるほど理解できる。
続く話の中身は、もう分かっていたが、だからと言って止めることもできなかった。
「僕が女性を夢見れるのは今だけだって分かってる。身体が男性に近づくのが分かる。声変わりなんかしたくない」
寂しげな瞳。諦めたように項垂れて、手や足も気力をなくしたように、行き場をなくしだらんと垂れていた。
「ねぇどこから朝なの? どこから取り返しがつかないの?」
ヘテルの瞳が真っ直ぐにこちらを見ていた。答えを求めるその姿は強く映えて、今日初めて彼の顔を見た気がした。
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