【完結】『29』~結び~

葵 しずく
葵 しずく

第31話 真冬のひまわり 前編

公開日時: 2021年8月17日(火) 22:49
文字数:5,771

 間宮と瑞樹が初詣デートをした同日。ここにも緊張した面持ちで待ち合わせ場所に立っている男がいた。


「……はぁ」


 男は快晴の空を見上げて、深く白い息を吐く。


 モスグリーンのダウンジャケットに青いマフラーを巻いた男は、チラチラと腕時計を頻繁に覗き込みソワソワと落ち着きが無かった。


(急に誘ったりして迷惑だったかな……)


 また腕時計に視線を落とすと、待ち合わせに時間を10分程過ぎていた。男は遅れている事に腹を立てているわけではなく、急に誘って迷惑をかけてしまったんじゃないかと、今更のように危惧していたのだ。

 いきなり前日に誘ったのだから、待つのは一向に構わない。

 だが、コートのポケットに忍ばせていたスマホにも遅れる事を知らせる連絡はきていない事で、何かあったのではと不安が危惧していた。


 快晴といっても吹き抜ける風はとても冷たく、痛く感じる程に体に刻み込まれる。かれこれ40分近く待っている体はすっかり冷え切ってしまっていた。流石にこれ以上このままではキツいと体を少しでも温めるのに缶珈琲を飲もうと、一番近くにある自販機に向かおうと数歩足を進めた時、靴の音とは違う独特の足音が男に耳に入った。


「遅れてしまってごめんなさい!」


 足音が止まったかと思うと、聞き慣れた弾ける様な声が男の鼓膜を刺激すると、ずっと寒空の下でそわそわと待っていた男の体が瞬時に声をかけられた方に振り向く。

 そこには深い緑を基調とした大人っぽい落ち着いた刺繍があしらわれた着物姿の加藤が立っていた。


「あ、あの……怒ってます……よね?」


 走るのには全く不向きの草履でここまで走ってきたようで、苦しそうに息を切らせた加藤は少し怯えるような表情で返答のない男にそう問う。


 元気印という言葉がよく似合ういつもの加藤に姿はそこにはなく、頬をほんのりと染め上品な雰囲気を漂わせている加藤に姿に、目を奪われた男は何も言えずに突っ立ていた。


「……なんで」


 ようやく男が言葉を絞りだす。


「あの……松崎さんに誘って貰ってから、姉夫婦がやってる美容院に着付けを頼んだんですけど、2人でやってる小さい店なので思ったより時間がかかってしまって」


 加藤をここへ誘ったのは松崎だった。

 前日に加藤から電話があったのだ。特に用はないのだと言ってはいたが、松崎にはクリスマスライブのあと佐竹に呼び出された事が気になっているのはすぐに察せた。

 だが、ストレートに訊いてこない事を理由に煙に巻いたのだ。

 他愛のない話が明日からの正月の話題になった時、間宮と瑞樹が初詣に行くのだと加藤が羨ましそうに言うものだから、松崎は気が付けば加藤を初詣に誘っていた。

 加藤もその誘いを待っていたようで「行きたいです!」と即答し、こうして元旦から松崎は加藤と会う事になった。


 加藤が必死に遅れてしまった事情を説明するが、松崎はそういう意味で「なんで」と言ったわけではない。


「遅れそうだから連絡しようとしたんですけど、慌てて家を出たから部屋にスマホ忘れてしまって……」


 必死さに早口になり、焦りのせいか目が少し赤くなっている加藤。


(……そうじゃない。初詣に誘ったの昨日なんだぞ?元旦は特に予定もないから、家で家族と過ごすって言ってたよな!?俺は少しでも受験勉強の息抜きになればって誘っただけなんだぞ?……なのに何でわざわざ――)


「そうじゃくて……何で振袖なんて……」


 頭の中いっぱいに広がった疑問がそのまま口から零れると、加藤は自分が着ている着物に視線を落とした。


「あ、やっぱり似合ってませんか?」


 加藤は頬をポリポリと掻いて苦笑いを浮かべる。

 確かに加藤のイメージからは相当ギャップがある恰好だ。

 だが松崎にはとって、そのギャップはマイナスなんどではなく――寧ろ。


「凄く似合ってる。今までの愛菜ちゃんと違って、凄く大人っぽくて綺麗だよ」


 普段なら絶対に言わないであろう台詞が、するりと口から零れた松崎は慌てて口を塞ぐ。


「へ? き、綺麗……ですか? 私が……?」


 口を塞いでも勿論手遅れで、加藤は頬を赤く染めながらも困惑しながらも、慌てている松崎の様子を伺う。


「あ、いや! その……いい年したおっさんに言われても気持ち悪いよな……ごめん」

「……そんなわけないじゃないですか……。えっと、ありがとうございます。といってもお姉ちゃんの御下がりなんですけど、無理言って着せて貰っちゃいました」


 素直に礼を言われてしまって調子が狂うと苦笑いを浮かべた松崎は、すぐに気になった事を口にする。


「……なんで無理してまで振袖なんて」


 夫婦だけで営んでいる美容院というのなら、早々に正月休みに入っていたのではないだろうか。であるなら相当に無理を言ったはずだと察するのは容易い事だった。


「昨日誘ってくれたとき言ってたじゃないですか。1人暮らしが長くなってくると正月も関係なくなってきて、いつもの休みと同じようにしてるって」


 確かに言った事は覚えている。だが、それがどうしたというのだと松崎は首を傾げる。


「だから初詣に振袖着てる子が一緒にいたら、少しでもお正月気分を味わってもらえるかなって」


 ニッと白い歯を見せて笑顔を向ける加藤に、松崎は言葉を失って黙り込んでしまう。


(……そんな事の為にわざわざ……この子は)


 松崎の中にある何かが込みあがり、気が付けばポンポンと加藤の頭に手を乗せていた。


「へ!? あ、いや……その……へ!?」


 加藤は松崎の突然の行動に慌てふためいた様子を見せたがそれも一時的は事で、乗せられた手を振り払う事もせず、ただ顔を真っ赤に染めて借りて来た猫のように大人しく、松崎に手の感触を心地よさそうに目を細めた。


「そっか。ありがとな」


 そんな加藤を見て我に返った松崎は、素直に感謝の気持ちを口にして頭を撫でる手を離すと「あっ」と名残惜しい声が加藤に口から同時に漏れた。


「さ、さて! 何時までもここに居ても仕方ないし、愛菜ちゃんの合格祈願に行きますか」


 名残惜しいと感じたのは松崎も同じで、加藤の漏れた声に完全に動揺してしまったのだが、出来るだけ平静に努めて学問に神様で有名な神社を目指して駅に向かった。

 道中の電車の車内での話題は間宮や瑞樹達、共通の友人の事が中心だった。

 元々人見知りしない性格の加藤と、これまた更に輪をかけて人見知りしない松崎のコンビが、大人しく電車の揺られているはずがなく、2人はまるで気心が知れた旧友かのように笑い声が絶える事がなかった。

 初めて会う間柄ではない。だが、こうしてゆっくりと顔を合わすのは初めての事だった。しかも2人きりで会うのはあの痴漢騒動の時以来だ。本来なら気恥しさから暫くは変な空気が流れてもおかしくない場面のはずなのだが、この2人は例外だったようである。


 電車を降りて神社の鳥居前に着くと、松崎は足を止めて手を軽くパンと叩く。


「え? なに? どうしたんですか?」

「ん? いや、ここからマジ参拝モードだから」


 神社の敷地に足を踏み入れる前から合格祈願は始まってるんだと聞かされた加藤は、思わず吹き出した。


「あっはは! 気が早過ぎませんか!? まだ本堂も見えてないんですよ!?」

「いやいや! 相手は神様だぞ!? 新年なんだから本堂に閉じ籠らずに、もう俺達を見てるって」


 言って、松崎は鳥居の前でお辞儀をする。参拝の作法なんてあったものではなかったが、真剣な松崎の横顔を見て加藤も同じようにお辞儀をするのだった。

 他人の受験の合格祈願にあそこまで真剣に祈ってくれる人なんて、世の中に何人いるのだろう。加藤は普段では見た事がない真剣な顔をしている松崎を見て思う。


 初めて会ったのは確か合宿帰りの時だった。

 あの頃から正直あまりいい印象ではなかった。

 お調子者って感じで慣れ慣れしいチャラい奴。これが加藤が松崎に抱いた印象だった。

 ただ同期だからとはいえ、間宮と親し気に接する松崎を見て段々と偏見で人を見るのはよくないかもと思い直した。


 文化祭では瑞樹を助ける為に、間宮と共に裏で平田達を黙らせたと聞いた。

 それ以外でも助けられたって瑞樹に聞かされてもいた。

 加藤自身も痴漢から助けられた。

 そんな事案が重なっていく度に、加藤は最初にもった印象は全部間違っていたのだと気付いた。


(……きっとこの人は人一倍照れ屋なんだろうな)


 そんな自分を見せるのが恥ずかしくて隠す為に、普段はあんな風に振舞っているんだと加藤の中でそう結論付けたのだ。


(本当の松崎さんは、シンプルに優しくて不器用だけど一生懸命な人なんだって今ならわかる。そんな人だって知ってしまったから……私は)


「よし、愛菜ちゃん! 本堂に行こう」

「へ? あ、はい」


 松崎をぼんやりと眺めながら物思いに耽っていると、不意にそう話しかけられハッとした加藤も慌てて松崎の後を着いて行くのであった。


 本堂前には参拝客の長い列が出来ていた。


「おぉ、これぞ正月って感じだな」

「あはは、お正月気分を満喫できて良かったですね」


 長い列に並んでいる時もこうして話題を提供してくれる松崎に、加藤から笑顔が絶える事はなかった。

 最前列に到着した2人は賽銭を投げ入れて、真剣な顔つきで手を合わせる。勿論、願い事は2人共同じだ。


 参拝を終えた2人は列から外れて、一息入れる事にした。


「あ、そうだ。ちょっとそこで待っててくれる?」

「え? はい。いいですけど……」


 松崎はそう言うと足早にどこかへ向かって行く。

 加藤は言われた通り大人しく待っていたのだが、ついさっきまで賑やかな松崎がいた為か、こうして1人になるとやけに寂しさを覚えた。

 1人で行動するなんてよくある事だ。加藤も例に漏れず1人でいるのを特に気にした事がない。

 だが、松崎が離れて少しの間1人になっただけだというのに、寂しいと感じている自分に困惑してしまい、気を抜くとフラッと探しに行きそうになる衝動に駆られた。


(なにやってんの! 親に置いていかれた子供みたいじゃん!)


 そんな葛藤に苛まれている事など知らない松崎が、加藤の元に戻ってきた。時間にして僅か数分の出来事なのに、その時間が妙に長く感じた加藤はホッと顔を綻ばせた。


「ごめん! ごめん! ちょっと混んでた」


 謝りながら小走りで加藤の元に戻る松崎の手に、小さな紙袋が握られていた。


「いえ、大丈夫です」


 ほんの少し離れただけで寂しくなったなんて知られてなるものかと、加藤なりにクールに受け流してみせる。


「ちょっとこれ買いに行ってたんだ。まずはこれな!」


 松崎は手に持っていた紙袋の中から可愛らしい色のお守りを取り出して、加藤に手渡した。


「……これって合格祈願のお守りですか?」

「当たり前じゃん。安産のお守りなんて渡すわけないでしょ」

「あ、安産!?」


 冗談なのは勿論分かってる加藤であったが、例えが不味かった。他にも交通安全とか色々あったはずなのに、よりによって安産のお守りなんて言うものだから……。


「セ、セクハラです! 松崎さん!」

「え、えぇ!? 冗談じゃんか」


 冗談であっても松崎の年齢を考えると妙にリアルで、あの一瞬で加藤は松崎の子を身籠った自分が思い浮かんだのだ。


「て、ていうか……これ可愛いですね」

「そ、そうだろ!? ご利益があるように一番高いやつにしたんだぞ」

「え!? あ、えっと……いくらでした?」


 一番高いお守りと訊いて自分の財布の中身が気にはなった加藤だったが、お守り代を支払おうと鞄を開けた。


「いや、いいよ。こういうのは厄払いと一緒だと思うから」

「厄払い……ですか?」


 まだ若い加藤には厄払いという単語に馴染みがなく首を傾げる。


「そ! 厄払いする時ってお祓いやお札を自分で支払うとご利益がないんだよ。だから合格祈願もそんな感じだと思うんだ」


 合格祈願も同じかどうかは確認していない松崎だったが、こういうものは同じだと加藤に説いた。


「それに自分で買うから一番高いやつ選んだのに、愛菜ちゃんに支払わせたら……ね」


 松崎の言い分は加藤にも理解できた。だが、以前のお礼の事が頭を過った加藤は食い下がる。


「いえ! それは私の為にそういてくれただけなんですから、松崎さんの気持ちは嬉しいです。でもそれはそれです。お金は払いますからいくらだったか教えてください」


 加藤が意固地になっている理由は松崎にも察するところがあった。その気持ちを酌んでやりたいと思った松崎だったが、合格祈願の件はご利益の為にどうしても譲る気にはなれなかった。


「そっか……。それじゃ仕方がないな。金を受け取らないといらないって言うんなら――これ今から捨ててくるわ」

「え!? 何言ってんですか! そんな事したらバチが当たりますよ!」

「そうだなぁ。そんな事したら愛菜ちゃんの受験失敗に繋がっちまうかもなぁ」


 ニヤリと笑みを浮かべて、加藤の目の前にお守りをぷらぷらと躍らせる松崎。


(ズルい! そんなの脅迫じゃん! そこまでして……そこまでして……)


「そこまでして、そんなに世間体ってのが大事なんですか!?」


 ずっと松崎に言いたかった事だが、こんな日に言う事ではないと理解はしていた加藤。

 だが折角の初詣が台無しになると頭では解っていても、心が言う事を訊いてくれなかった。


「えっと……。それってこの前のハンバーグの時の事言ってる?」

「……そうですよ」

「そっか。あの時は愛菜ちゃんの気持ちを考えないで、悪かったなって思ってる……。ホントにごめんな」


 ポカンと口を開ける加藤。

 訴える内容は間違っていないとは思ってる。だが、この場で言うのは間違っているとも自覚していた。

 だというのに、松崎は気分を害するどころか謝罪の言葉が出てきた事に、加藤は言葉が続かなかった。


「でもな、これはそんなんじゃないんだ。俺なりに愛菜ちゃんの受験の応援がしたかっただけだから、金を払うなんて頼むから言わないで欲しい……」


 真っ直ぐな目で嘆願する松崎に、益々言葉に詰まる加藤。

 松崎の気持ちが真剣な目から伝わってくる。

 きっと松崎はこれをしたくて、初詣に誘ったのだと。そんな気持ちを踏みにじってしまった事にようやく気付いた加藤は、目の前のお守りを松崎から受け取った。


「私ってば、松崎さんの気持ちを考えないで……ごめんなさい」

「い、いやいや! 元々の原因は俺なんだから、謝るのは俺の方だ。ごめんな」


 お互いがお互いの気持ちを尊重して謝った結果、オロオロした仕草がお互いのツボにハマったのか、2人は同じタイミングで吹き出して笑い合った。


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