「ねぇ、文化祭で初めて会った時さ、私が間宮さんの事を良ちゃんって呼ぶのって変だなって思わなかった?」
「あぁ、でも何故か不自然な感じがしなくて、抵抗感っていうのかな。そういうのがなかったよ」
あの時はそう思っていたけど、今思えば優香の妹だったからと自己解決済みだ。
「そうなんだ。あれってさ、実は知らなかったんだよね。良ちゃんの苗字」
「……え? それって」
「お姉ちゃんが良ちゃんの話をする時って、ずっと良ちゃんとしか言わなくて、亡くなった後もお父さん達も良ちゃんの名前を口にしなかったから、ずっと知らずにきたんだよね。だから茜さんと兄妹って事にも気付かなくてさ」
だから俺と茜が再会するまで優希も兄妹だと知らなかったのかと、疑問だった事が繋がって間宮は納得したと大きく頷いた。
「そうだったんだな。あ、それじゃ――」
「それは無理!」
「最後まで言ってないんだけど……」
「これからは間宮って呼べって言うんでしょ?」
「そうだけど」
「それは無理だって! だってさ……」
そこで話すのを止めた優希は、間宮に差し出していたプレゼントのラッピングを解いて、中身を手に持った。
包みの中身はカシミヤのマフラーで、優希は間宮に歩み寄りマフラーをふわりと首回りに軽く巻いた。
突然の事で呆気にとられていた間宮だったが、巻かれたマフラーにそっと触れて受け取れないと優希に返そうとすると、そうはさせじと優希は間宮の胸の真ん中を人差し指を射抜くように突き刺す。
マフラーに触れた手を止めてポカンとする間宮にクスッと笑みをこぼす優希もそのまま動かない。
僅かな時間、2人の間に沈黙が生まれる。突き刺すような冷たい風が吹き抜ける中、やがて優希が白い息と共に言葉が零れだす。
「宣戦布告だよ、お姉ちゃん! 香坂優香が愛した人を、香坂優希が貰うから!」
そう宣言する優希が決してふざけているわけではないのは、顔を見れば一目で分かった。
ついさっきまでとは違い、真剣な、いや、少し睨みつけるような眼差しを、突き刺している間宮の胸に向けていたからだ。
ドクンと1度だけ間宮の心臓が大きく跳ねて、思わず一瞬息が詰まった。
得体のしれない衝撃に間宮が戸惑っていると、優希は巻かれたマフラーにそっと触れる。
「どう? 気に入ってくれた?」
「え? あぁ、凄く温かいよ。でも、やっぱりこれは――それに優希の気持ちは嬉しいけど――」
「――私ってさ」
巻かれたマフラーに感謝しながらも、優希の気持ちを断ろうとした時、また優希が言葉を遮るように口を開いた。
「お姉ちゃんと違ってさ。ガサツだから色々と端折ったりしちゃうんだよね」
言って、優希は触れていた手を返してマフラーの生地を握り、間宮を自分の手前に引っ張り寄せた。
「え?」
いきなりの行動に思考が追い付かない間宮は、目の前に迫った真剣な優希から目が離せなくなった。
「嫌だったら、避けてくれていいよ」
呟く言葉と共に、元々近づいていた優希の顔が更にゆっくりと間宮に近付く。
避けないといけない事は頭では分かっているが、体が思うように動かない。脳からいくら指示を出しても指先1つ動かないのだ。
原因は分かっている。
それは僅か30㎝程に迫った優希の顔が、間宮には優香にしか見えなかったからだ。
「……分かってるから」
息がかかる程に近づいた優希に口から、小さく言葉が漏れる。
〝分かってる〟その言葉の意味が理解出来ずに、言葉を詰まらせた間宮に優しく、でも強い気持ちが籠った声色で優希が言葉を綴る。
「入口は気にしない……だから今はお姉ちゃんだと錯覚してても構わないよ。きっといつか好きにさせてみせるから――」
人間の体は微弱な電気で動いていると言うが、微弱の電気が一瞬、脳で滞留して放電したような感覚が走り、その痺れで拒もうと抗った力が抜け落ちていく。
間宮の強張った両肩から力が抜けるのを確認した優希は、残り数センチまで顔を寄せて、静かに目を閉じて動きを止めた。
「――ごめん」
小さく、本当に小さく間宮が誰かに謝る言葉が漏れる。
そして目を閉じて待っている優希の唇に、自分の唇を重ねるのと同時に、間宮も目を閉じた。
――ごめん。
誰に向けた言葉なのか、間宮自身も分かっていない。
最愛の優香になのか……それとも。
絶景といわしめた夜景をバックに、今まで誰の侵入も許さなかった間宮の内側に、優希が熱い口づけと共に入った瞬間だった。
◆◇
同時刻。
瑞樹はルーティンになっている受験勉強に勤しんでいた。
昼間にあんな事があっても、目標にしているK大を目指す為に今日も変わらず机に向かっている。
「……ふぅ。珈琲飲もう」
言って椅子から立ち上がって、リビングに降りていく。
寝静まった家は静かすぎて、少し耳鳴りに似た音が小さく鼓膜に響く。
やがて、コポコポと子気味のいい音が静寂を破り、瑞樹の心を落ち着かせる。
婚約者の存在を知って、完全に動揺してしまった瑞樹。
高校生の瑞樹にとって、結婚なんて全然考えられない事であった。
だけど、間宮に結婚を決めた相手がいた事で、考えた事もない世界に目を向けようとすると、どうしても婚約者がどんな人だったのかと考え込んでしまい、自然と間宮を避けるようになってしまった。
「……あちっ」
猫舌の瑞樹はいつも十分に冷ましてから飲んでいた珈琲を、カップに移してすぐに口を付けてしまい、舌先に痛みが走り思わず舌をペロっと出す。
キッチンの電気を消して自室に戻った瑞樹は、カップを手に持ったままベッドに腰を下ろして、ぼんやりと天井を見つめる。
本屋で偶然に間宮と会ってしまった時、不自然な感じで逃げてしまった事を思い出す。
間宮はいつも通りで、柔らかい笑顔を見せてくれていた。
いつも、その笑顔に胸を躍らせていたはずの瑞樹だったが、あの時だけはあの笑顔が酷く胸の中を掻きむしった。
「……だからって、あれはなかったよね」
色気のない場所ではあったが、クリスマスの日に会えた偶然。
心配していた風邪も治まったようで、瑞樹が頼めば夕食くらいは一緒にできたかもしれない。間宮の性格を考えれば、昨日のお礼だと言ってくれるシーンまで容易に想像出来る。
背を向けて立ち去った時、間宮はどんな顔をしていたのだろう。
何か言おうとしていた気がしたが、何て言おうとしていたのだろう。
考えれば考える程、瑞樹の中に後悔が溢れてくる。
間宮は何も悪くない。
悪いのは、亡くなった婚約者にまで嫉妬の気持ちを向けてしまった自分だと、瑞樹は自分に嫌気がさした。
勉強するには邪魔だと、一束に髪を纏めていたシュシュを解く。
サラサラと零れ落ちるように、デスクライトに照らされたダークブラウンの髪が、瑞樹の肩に舞い降りる。
ふぅふぅと息をかけて、カップに口を当てて珈琲を口に含む。
いつもなら、口に広がる香りと味を楽しみながら喉に通すのだが、今日の珈琲は何だか苦みが強い気がした。
「いつもと同じ淹れ方したはずなんだけどな……」
瑞樹は首を傾げながらカップをテーブルの上に置くと、テーブルの真ん中に置いてあった包みが目に入った。
その包みには可愛らしくリボンが巻かれていて、それがクリスマスプレゼントだと一目で分かる物だった。
「……結局、プレゼント渡せなかったな」
プレゼントしたかった相手は勿論間宮で、誕生日に貰った腕時計のお礼がしたくて、以前から間宮に似合いそうなマフラーを探してやっと探し当てた物。クリスマスライブの日に渡すつもりだった。
だが、間宮が急病で来れなくなり、追い打ちをかけるように元婚約者の存在を知ってしまった瑞樹は、プレゼントを渡す機会を失ってしまったのだ。
「……絶対、間宮さんに似あうと思ったんだけどなぁ」
苦労して探し当てたマフラーを巻いた間宮の姿を想像すると、自然と顔が綻んだ。
日を改めて、クリスマス関係なくお礼として渡せばいいのだが、これからどういう顔をして間宮に会えばいいのか分からない瑞樹は、包みをクローゼットの奥に仕舞い込んで再び机に向かった。
間宮から貰った腕時計から、0時を知らせる小さなアラーム音が鳴る。それはクリスマスが終わる事を示しており、瑞樹は1人小さな溜息をつきながら、ペンを走らせるのだった。
(……せめて、メリークリスマスって言いたかったな)
そんな事を思う瑞樹は知らない。
ここから車で1時間程離れた場所で、想い人である間宮が神楽優希の気持ちを受け入れて、口づけを交わしている事を……。
「29」~結び~ 4章 錯覚 完
これにて4章完結となります。
他の章と比べて60話という長い章になってしまいましたが、如何だったでしょうか?
さて、5章ですが、1日お休みを頂いて6月19日から連載させていただきます。
現在5章執筆中でして、最終話まで書き終えるまでは2日毎の更新になります。
突然のペースダウンになりますが、執筆する時間の確保が難しい為、ご了承下さい。
ここまで読んで下さった皆さん、ありがとうございました。
引き続き、お付き合い下さると嬉しいです。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!