1話 始まり
高校二年の春。
最低限の手入れしかしていないぼさぼさの漆黒の髪に分厚いレンズの黒縁眼鏡、夏でも暑苦しい長袖を着て、無口で根暗でネガティブで大人しい性格。
古典的だがテンプレートないじめられっ子の僕は現在進行形で嫌がらせを受けている。
朝、通っている高校に登校してみると、僕の靴箱スペースはゴミで溢れかえる。
しかし本来そこにあるはずの上履きが無い。
なんと古典的な嫌がらせだろうか。
まだ、こんな古典的な嫌がらせをする奴がいるのか。
まあ、これが僕の日常の一コマだけれど。
ゴミ箱を漁ってみるとそこには前日より黒く汚れた僕の上履きが捨てられてあった。
はぁ……。
溜息を一つ吐き出してゴミ箱から上履きを救出しようとした。したのだが……。
「……しーねよ、×××!」
「……っ」
汚い暴言と共に僕に投げられたのは、カフェオレの入った紙パック。暴言を吐いた女子が持っていたモノだ。
残っていたカフェオレが僕の頭と肩にかかり、ついでにゴミ箱から救出しようとした上履きにもかかった。
一瞬、つい眉間に皺を寄せてしまった。
すると、暴言を吐いただろう女子生徒とそのお友達さんが甲高い耳障りな嗤い声を上げてその場から去って行った。満足したのだろうか。それはヨカッタ。
とりあえず鞄に入れてあったタオルで頭と肩にかかったカフェオレを拭き取り、汚れて可哀相な上履きを救出。上履きはもう本当に申し訳なくなるくらいに汚れてしまっていた。
でも、新しいのを買ってもまたこうなるのは目に見えている。
こういうことがよくあるため持ち歩いていたウェットティッシュで上履きを軽く拭いて履いてみたけれど、履き心地はお世辞にも良いとはいえない。でも、仕方ない。
僕は二年の教室がある三階へと繋がる階段を上がっていく。僕が収容されている教室が近づく程に他の生徒の顔つきや目の色、雰囲気はより厳しいモノになっていく。
時折、「あいつ、くさいよね」「きもっ」「しねよ」などと暴言――正論――が聞こえてくる。それが、現実のモノなのか、僕の脳が作った幻か、僕には分からない。
――ブー、ブー、ブー……
何処から僕の電話番号が漏れたのか、知らない番号からの着信も多々来るから意味が無いので諦めている。相手はこんな人間にわざわざ労力を割いてご苦労様だと思う。
それに番号を変えたりしても、バイト先とか学校の連絡網でもしもがあるから消せない。まあ、学校の連中は律儀に僕なんかに連絡網を回してくる奴なんかいないけれど。
幼い頃から嫌がらせは日常茶飯事だったが、義務教育を終えれば少しは変わるのではと少し期待していた。そんな期待は見事に崩壊した。
嫌がらせをされる側には何も非は無く、ただ、周りの気まぐれでそんな環境にいるという人もいるようだけれど、僕の場合は僕に全ての原因があるようだ。
そう、醜い僕が全て悪い。
「そんなことないよ」と受け入れてくれた人が現れたと思ったら、嫌がらせだったこともあった。
その『嘘』は罰ゲームだった。
「(……早く、死にたい)」
僕が居なくなればこの学校は他の生徒にとってそして世の中にとって楽園になるんじゃないか、僕さえ居なくなれば……。
そればかり考えてしまう。
精神を安定させるために、僕は教室の手前にあるトイレの個室に入り、制服のポケットに忍ばせていたカッターナイフで自身の傷だらけの左腕からまた赤い液体を流した。
それはもうこんな馬鹿げたことで泣くことに疲れた僕の涙だった。
和式の便器に赤が落ちるのをボーッと眺めていたら、その赤を消し去るように上から雨が降ってきた。
朝のホームルーム。ジャージ姿の僕を見ても担任は何も言わない。
僕の存在を担任すら否定。いや、削除。
抵抗も反論もしない。電子での繋がりがある以上どうせ何も変わりやしないしただただ面倒くさい。
保護者に学校で嫌がらせを受けていることを気付かれ学校側に抗議されたことがあったが学校での状況は改善されることなく、むしろ悪化した。
もうなにもかも面倒くさい。嫌がらせをしてくる奴等も、隠蔽がお好きな学校も、世間体を気にして仕方なく保護者をしている大人も、偽善的に僕に構ってくる兄的存在もなにもかも面倒くさい。
そんなとある日だった。
僕の日常をぶち壊した『あの人』と出逢ったのは……。
「洵(じゅん)、おかえり」
僕が監獄(がっこう)終わりにバイトに勤しんでから帰ると、音楽系の大学院に通っている従兄弟の雅(みやび)さんが帰ってきたところだった。彼は大学の近くで一人暮らしをしているがバイトがない日などはちょくちょく実家に帰ってくる。
「……ただいま、雅さん」
雅さんは僕の母の兄の息子。僕は随分前から雅さんの家に……母方の叔父家族の家に居候している。
僕の親は僕が小学生の時、心中した。
学校から帰ると、両親がお互いの腹を包丁で刺し、血の海で死んでいた。
なんで僕も連れて行ってくれなかったんだろう……。
その時の父とは血が繋がっていなかった。本当の父親は、母も知らない。
養父(とう)さんと母さんは心から愛し合っていたから、僕が邪魔だったのだろう。
……それなら僕を殺してくれたらよかったのに。
自分の存在意味が分からない。なんで僕は生きているんだ。なんで僕なんかが生きているんだ……。
「……洵」
ふいに雅さんが僕の名を呼ぶ。切ない、そんな顔で。
僕は咄嗟に傷だらけの左腕を隠す。だけど雅さんはその醜い左腕を逃がさない。
どうして気付かれてしまったのだろう……。
雅さんと僕は正反対の人間だ。
彼は外見も性格も『綺麗』な部類に入る。友人も多いらしいしよくモテる方だとも思う。
僕は、希望に向かって努力している雅さんを尊敬している。だけど、たまにこういう顔をされると癪に障る。
不思議と昔から浮いた話の無い雅さんはやはり自分が『綺麗』な部類に入るからそれだけ理想が高いのだろうとずっと思っていた。
「また、傷が増えてる……。早く腕の傷の治療しないと」
「……大丈夫だよ、自分でなんとかするから」
貴方には何も分かりやしない。優しい従兄弟にそう言いかけて、やめた。どうせまたあの切ないって顔をするから。
「洵」
「何だよ! 治療なら一人で出来るって言ってるだろ!」
「……父さんと母さんに聞こえる。気付かれる前にこっち」
雅さんはヒステリーを起こす僕を二階にある自分の部屋だった場所に引きずり込み、慣れた手つきで僕の汚い手首の消毒を始める。
嗚呼、やっぱり雅さんのその偽善者的な表情が僕は嫌いだ。
でも、その時の雅さんの表情はいつもと何かが違った。
「今週末の土曜日、確かバイトは休みだよね?」
「……は?そ、そうだけど……」
僕は少しでも生活費の足しになればとコンビニでバイトをしている。
居候の分際でタダ飯食いは罪悪感があるし、ましてや小遣いまで寄越せとは言えないし、なにか僕の存在を肯定してくれるモノが欲しいから。
そしてもう僕も高校生だし社会勉強を兼ねていた。
自分達の息子には勉学優先でバイトなんかするなと言っていたのに僕にはあっさり許可する辺り笑うしかない。
「じゃあ、一緒に気分転換しにいこう。決定な」
「……は?」
その時の僕の顔は見事な間抜け面だったと思う。
雅さんは優しすぎて損をしているんじゃないかというくらいお人好しで、こんな強引に物事を決めたりする人じゃない。
そういう少し女々しいところが恋人として異性から支持されないところなのだろうか。
「……俺の友人がさ、バンドを組んでるんだけど、隣町の駅前路上ライブで俺が作曲した曲を演奏してくれるんだ。一緒に観に行かない?」
雅さんの高校時代からの友人がバンドを組んでいるらしい。
そのバンドマン達がどんな人達なのかは知らない。
でもたぶん知っている。
叔父さんは自分の息子を音楽の道へと引きずり込んだ友人達を毛嫌いしていたから雅さんは高校時代の友人をこの家に呼んだことがない。恐らくその彼らだろう。
この言葉を雅さんがどんなに勇気を振り絞って言ったのか僕は分からなかったけれど、何故か僕はこの言葉に頷いていた。
くだらない日常をぶち壊したかったのかもしれない。だから尊敬する大嫌いな従兄弟の提案に無意識に頷いていたんだ。
路上ライブを観に行っただけで何かが変わるとは思わなかった。ただ僕はくだらない日常にどんな些細でも刺激が欲しかったんだ。
ーつづくー
読み終わったら、ポイントを付けましょう!