「ええっと、次は香草がほしいなあ」
小さな紙に書かれたメモを見ながら、リンがつぶやいた。メモはユンに渡されたものらしく、ハングル文字っぽいものの隣に漢数字が並んで記してある。ただ残念なことに文字は読めない。話ができるスキルはデフォルト装備だったけど、文字を読むことについては修業獲得スキルのようだ。
「香草?」
「ああ、そうだよ。薬の調合に使うんだ。薬草は山に行けば採れるけど、香草は育てないといけなくてさ。土地によって育つものと育たないものがあるから、栽培できないものは買わないといけない。ちなみにユンはこの村で治癒師の仕事をしてるんだよ」
治癒師かあ。俺たちの世界で言うところのお医者さんって感じなのかな。魔法で治すだけじゃなくて薬も使うってことか。なるほど。
「でも、それならユンと一緒に来たほうが効率よく買い物できるんじゃないか? 直接品物見たほうがなんかいいような気もするけど?」
「うん。そうなんだけど。ちょっと問題があってさ」
リンが言葉を濁す。彼女のネコ耳がくたりと垂れた。
だから、それ! そのかわいい耳やめて! めっちゃ頭とか嗅ぎたくなっちゃうから!
でもここはガマンだ、トウマ。こんなたくさん人がいるところで美少女の頭をクンクンするのはどう贔屓《ひいき》目に見たって『変態』以外になりえない。
それにリンは俺の何百万倍も強い。猫を吸っていない状態で彼女の頭を嗅ぐのは自殺行為に値する。
『いのちだいじに』と俺の中のコマンドが入力された。
リンはふうっと小さく息を吐いた。心なしか足も重たくなっているらしく、歩みが遅くなった気がする。
「実はさ、香草を売っている店ってのがこの村の長の店でさ。しかもワンの一派。薬の調合に使うものは特に高価なんだけど、そこのバカ息子がさ、ユンにぞっこんで。ユンが結婚するなら店の商品は好きなだけ使っていいって言ってくるんだ。だけどユンはそれを断り続けてて……面白くないバカ息子は法外な値段で売りつけてきやがるのさ。そのせいで薬もすごく貴重になっちゃって」
ものすごいパワハラじゃん、それ。そんな力業で女の子に結婚迫っても、そりゃいやがられるだろうに。顔面偏差値がものすごくいいとか、頭がすっごくキレるとか、めちゃくちゃ強いっていうのなら、それでも仕方ないかなって思わなくもないけど。話を聞いている限り、頭がいいっていう線はなさそうだ。
「失礼なことを訊くけどさ。ユンとリンって年いくつなの?」
「ああ、あたいが十六で、ユンは十八」
おおうっ! めっちゃ未成年じゃん! 俺よりもやっぱり年下じゃん!
でも日本の場合は民法で男子は十八歳から、女子は十六歳から結婚できるってなってたな。今度の民法改正で男女ともに十八歳に統一されるみたいだけど、どっちにしても日本基準ならユンは結婚できる年ってことだ。
「ちなみにこっちの世界っていくつで結婚できるわけ?」
「結婚できる年? そんなもの、子供が作れるようになったら許されてるよ」
おおうっ! まぢか! さすが猫人族、猫ルール感半端ない!
実際の猫も子供が生める発情期がきたら大人って感じだからな。
「つーか、トウマ。おまえ、なんかやらしいこと考えてるんじゃないだろうな? ああ?」
リンが金色の目を三角に尖らせて俺を睨む。しっぽが大きく揺れている。
「やややや、誤解だって。そんな未成年に俺、手なんか出せないよ!」
女性経験はないが、脱童貞と言えど未成年はやっぱり抵抗ありまくりなんだ。どうせならすんごいテクニック持ったお姉さまに筆おろしはしてもらいたい。あくまで個人的な願望です。
「ユンのこともあたいのことも、変な目で見たら承知しないんだからな!」
「わかってる! わかってるって!」
どうどう……両手を前に突き出して、今にも飛び掛かってきそうなリンを落ち着かせる。リンは「ならいいけど」と唇を尖らせて歩を進めた。
「あそこの店だ。トウマ、なにがあっても反抗するなよ? いいな。あたいたちがここで問題を起こせば、ハク兄ぃに迷惑がかかる」
「わかった」
お口はチャックしておきます。
市場の外れの大きい屋敷がユンに頼まれた香草を買う目的の店の前だ。
金色の立派な看板のついた店は今にも崩れそうな掘立小屋みたいな屋台で細々とやっている人たちとは比べ物にならないほどに立派だ。
いかつい店構えに俺はごくりと唾を飲み込んだ。ここで粗相したらハクに迷惑がかかるのかと思うと緊張して汗ばんでくる。
「香草が欲しいんだけど」
店に入るなり、ぶっきらぼうにリンは番をしている中年の男に向かって言った。小奇麗な恰好をした恰幅のいい男だ。指を耳の穴に突っ込んで中を掃除をしていた男は、こちらに見向きもせず、爪先についた耳クソをふっと吹いた。
「香草、買いに来たんだけど」
再びリンが少しいら立って声を掛ける。すると男はちらりとだけこちらを見てから「へえ、今日は男連れか」と揶揄するように笑った。
「香草……」
「その男とはもう寝たのか?」
リンの言葉をさえぎるように男が質問した。
うわあ。こういうヤツ、俺、すっごい苦手だわ。人の話をぜんぜん聞かない超マウンティング男だよ。うっざ!
「そんな話、関係ないだろう? 客なんだ。香草を売ってくれ」
リンが怒りを抑えながら男に言うが、男はそんな彼女の言葉を鼻先で一蹴した。
「ここは俺の店だ。俺のルールに従えないんなら商品は売らない。俺はその男と寝たのかと訊いたんだ。ちゃんと答えろ。話はそれからだ」
リンがギリっと唇を噛む。それから早口に「寝てねえよ」と答えた。
「ほう、寝てない? おまえの男じゃねえのか、そいつ? それともあれか? そういうことにはめっぽう疎い奥手なのか? ん?」
「だから、こいつはそういう奴じゃねえって言ってんだろう! こいつはなあ、うちの居候になったんだよ! ハク兄ぃの新しい弟子だ!」
「あの病人の新しい弟子だと?」
男がげらげらと腹を抱えて笑いだす。
「あんななにもできないご老体になにを習うってんだ? 武術か? ん?」
男が俺をじろじろ見て問う。
「いや……まあ、そんなところ……なのかな?」
「ふ~ん。それで? いつから居候になってるんだ? ん?」
「それは……その。昨日……から」
「昨日から……ねえ」
男がいぶかしげに俺を見る。嘘はついてない。
だけど、どうにも声がうわずる。男の迫力に気圧されているせいか。
そんな俺と男の前にリンが立つと「おいっ」と男を呼んだ。
「これで満足だろう? 香草を売ってくれ。ユンに頼まれたんだ」
しかし男は「はてね?」としらを切った。
「俺は売るなんて言った覚えはねえ。出直してきな」
「は!? なに言ってるんだ!」
「気に入らねえのよ、そいつ。ユンとひとつ屋根の下で暮らすってことだろう? そんな男連れのおまえに、ユンから頼まれたからって香草を売る? いやだね。そんなに欲しけりゃユンが買いに来たらいい。そうしたら、いくらでも売ってやるよ」
「ドンガ! おまえってやつはどこまで腐ってやがるっ!」
グググッとリンは両手を強く握り込んだ。
聞きしに勝るマウンティング男だ。こちらの弱みにつけこんでやりたい放題じゃねえか!
「お~い、お客さんが納得いかないようだ。少しかわいがってやんな!」
ドンガがのれんの奥のほうへ声を掛けると、柄の悪そうな男たちが数人やってきて俺たちの腕をつかんだ。そのまま店の奥へ引きづりこまれ、中庭に連れていかれる。
石畳の広い中庭の真ん中に放り出された俺たちを取り囲むように男たちが立つ。
俺はリンと背中合わせになって男たちを見る。
どいつもこいつも屈強そうだ。下卑た笑いを浮かべながら、ぽきぽきと手や肩を鳴らしている。
クズいっ! さすが三下! そりゃあ、ユンに嫌われるわけだ。
「リン……俺、今ククルいないんだけど」
ぼそっと耳打ちをする。リンはわかっているとうなずいた。
「この人数ならあたいひとりでなんとかなるから、トウマはすぐに裏へ向かって走れ。裏門から逃げるんだ。いいな?」
「ああ、了解だ」
俺がうなずくのと同時に男たちが食ってかかってくる。
身を屈めて攻撃を避けると、すかさずリンのしなやかでスピーディーな蹴りがひとりの男の顔面にクリーンヒットした。ものすごい重たい音がした後で、男がどさっと後ろ向きに倒れる。
ああ、わかるよ、それ。俺も食らったもん。痛いよねえ。目ん玉破裂しそうなくらい痛いよねえ。ご愁傷様。
「トウマ! 行けっ!」
リンの掛け声とともに俺は一直線に走り出した。
裏門! 裏門! 裏門!
俺の後に続けて、リンも走ってくる。男たちが「待て、こらっ!」と大声を張り上げて俺たちを追いかけてくる。リンが立ちどまって素早い突きを繰り出す。「ぐはっ!」とつぶれた悲鳴を上げた男がまたひとり、その場に沈む。
リン強い! めっちゃ頼れる美少女だ! それなのに俺、女の子に守られて、ぜんぜん英雄でもなんでもない。残念すぎる!
「見えた! 裏門!」
必死に走って裏門から出ると「こっち!」と後からやってきたリンにひっぱられるように市場のほうへ駆けていって、人ごみの中へまぎれこんだ。
ドンガの手下たちが追ってくる気配はない。
「ごめん。俺のせいで香草買えなかったな」
息を整えながら謝るとリンは「いいんだよ」と答えた。
「いつも難癖つけて売ってくれないんだ。大丈夫。譲ってもらえる伝手はあるから。あたいのほうこそ悪かった。こんなケンカに巻き込むつもりはなかったんだ。もっとうまくおまえのことを説明できたらよかったのに」
リンがしゅんっとうつむく。うなだれたときの丸い背中とか困ったように倒れるケモ耳とか、本当にかわいくてさ。俺は思わず彼女の頭をポンポンしちゃったよ。
そうしたらリンはびっくりしたみたいに俺を見た。すごく困った顔してね。
「いや、充分じゃないか? だって酔拳の使い手だってことは秘密にしたんだからさ」
あそこで酔拳の使い手なんて言っていたら、もっとひどい目にあっていたのは易々と目に浮かぶ。それが避けられただけでも儲けものだったんじゃないか。
「そっか。ありがとう」
「買い物をさっさと済ませて帰ろう。きっとユンが心配する」
「ああ」
リンはにっこりと八重歯を見せて笑った。
その愛らしい笑顔に俺の中に湧き上がる『猫吸い』の本能を押し殺しながら、それでも強くなったら彼女も吸えるのかな? なんてやましい思いを抱く俺を、神様どうかお許しください。
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