トントントン……遠くのほうからリズミカルな音がする。
そう、これは『つき合っている彼女とにゃんにゃんした翌朝に、彼女が台所で朝食を作っている』という、男なら誰しも一度は夢見るシチュエーションにある音!
手慣れた包丁の音。かぐわしい味噌の匂い。
甘く濃厚な夜を超えた先にあるラ~ブ・ステージ!
「お~い! 飯できたけど起きられるかあ? なあ? 目ぇ、開けられるぅ?」
俺の甘い夢を打ち砕くような声がして、びろんっと右目のまぶたが引っ張られる。
やめろ! 俺はこれから大好きな彼女とキャッキャ・うふふの朝ごはん……
ん? 待て。いつ、俺は彼女ができた! いつ女性とそんな楽しい中になった!?
「もしも~し! 生きてるかあ?」
ぼやけた視界が次第にはっきりして、目の前にくりっとした金色の猫目がふたつ見えた。
あれは八重歯か? 小さな牙みたいな歯をのぞかせた美少女の顔がものすごい近くにあった。
「あわわわわっ!」
跳ねるように身を起こして身支度を確認する。
よかった! 服は着てる! パンツも大丈夫!
それから今度はゆっくりと周りを見た。
俺の前にいる褐色の肌の美少女は見覚えがある。
そうだ。
俺の最後の記憶に残っているのは彼女の強烈な回し蹴りと白いブーツなんだから。
しっかし、まぢでいいキックだった。
本来、猫キックは前足で飼い主の腕や足、あるいはぬいぐるみなどの獲物をホールドした状態で、後ろ足を使ってガシガシと蹴りつけるものなんだ。
連続キックする姿がめちゃくちゃかわいいんだけど、威力はわりと高めでね。下手すると爪で蚯蚓腫れを作られちゃう場合もある。
しかし猫好きにとってはそれすらもごほうびになっちゃう魔の蹴り技!
今回、そんな連続キックでなかったことは不幸中の幸いだった。蹴りの威力とごほうびヤッターの脳天ハッピーであの世行きになるところだったんだから。まあね、一発でも充分に死にかけましたけど……
「ん? 痛く……ない?」
ほほをさする。腫れもなければ痛みもない。ものすごい痛みがあったはずだし、脳を揺らすような衝撃もあったはずだ。あご粉砕も必至の強烈な回し蹴りを食らったはずなのにな。
歯をカチカチと合わせてみる。かみ合わせは良好っと。
そんな俺の様子を傍から呆れたように見ていたケモ耳の美少女が「あったりまえだろう?」と言った。
「なんで?」
「だってユンが治療したんだもん。ケガなんて残るわけないじゃん?」
「ユン? キミはたしか……」
「あたいはリン。リン・ジョイ。ハク兄ぃの弟子で養女だよ」
「ハク兄ぃ……ああ、ハク・レン様ね」
周りを見回す。俺を異世界に連れてきた張本人である白猫様の姿を探すが見当たらない。
「ハク兄ぃは今、クウ・メイ様とお会いになっている。おまえのことを報告しにいったんだ。で、おまえの面倒を看るようにって言いつけられて。まあ……そもそも、あたいが悪かったから仕方ないんだけどさ。っていうかさ、あれくらい避けろよな! おまえ、伝説の酔拳使いだろう?」
「いや、俺。普通に武術できないから」
「は?」
「だから俺はただの猫が吸いたい猫大好き大学生ってだけで、酔拳どころか武術なんてまったくできないし。特技はそうだな。猫をとろけさせるマッサージくらい?」
リンが金色の目をまんまるにして俺を見る。
「ガチで?」
「ガチで」
途端にリンは「ああああ!」と頭を抱えた。彼女の頭のケモ耳がふにゃっと倒れて外に向いている。
やだ! イカ耳じゃん! めちゃくちゃかわいいじゃん! 触りたい! その耳触りたいわ!
「なんで武術もできねえおまえが英雄なの!? ちょっと、それじゃあ普段はなんの役にも立たないただのポンコツじゃん! だあっ! もうウソでしょ! 誰かウソって言ってええええっ!」
そう言って頭を抱えて膝をつく彼女のお尻から生えたしっぽがぴったん、ぴったん床をたたいている。
うわあああああっ! しっぽでぴったん、ぴったんされたいっ!
「こら、リン!」
目の前で苦悶しているリンよりも少し高い声が飛んできた。
声のほうに視線をずらすと、ベトナムのアオザイのような白い上衣に身を包んだ美少女がお盆を手にしてやってきたところだった。
お盆の上の木の器からはほくほくとした湯気が立ち上っている。
リンと同じ金色の目。
しかしこっちの美少女のほうがリンより少し年上に見える。
ボブショートにした銀髪の彼女の頭の上にも三角形のケモ耳が生えている。こちらは鯖柄だ。リンよりも釣り目な彼女は髪の色と同じ銀縁の小さなメガネをかけていた。
「トウマ様に失礼なことを言うものではありません。本当にいろいろ申し訳ありません、トウマ様」
「いや、ぜんぜん……事実だし」
「そうだよ、ユン! 失礼なのはトウマのほうなんだからな!」
「リン!」
ユンにたしなめられて、リンがしゅんっとなると彼女の耳まで下向きになった。
ちょっと待って! なにこれ! 俺、萌え死にそうなんですけどもっ!
「トウマ様、お食事をお持ちしました。ずっと召し上がっていないって伺って。お口に合うといいのですが」
「あっ……ありがとう」
ユンがそう言って俺にお盆を差し出した。受け取って器を見る。漂う湯気から味噌の香りがする。大根やニンジンみたいな野菜にお肉が入っている。豚汁?
器を手に取ってズズッとすする。
おおうっ! やっぱり豚汁だ! めちゃくちゃコクがあってうまい!
箸で肉をつまんで口に入れる。
肉厚なのにとてもやわらかい。たっぷりの脂身がまた口の中に入れた途端、とろんと溶けていった。
「この豚汁、めちゃくちゃ美味いなあ」
異世界でも豚汁食べられるなんて至福じゃん。これならこっちの世界でもやっていけそうだ。
「そっか。そう言ってくれると捕ってきたあたいもうれしいよ」
「捕ってきた? 豚を?」
「ブタ? なにそれ?」
「え? 豚じゃないの?」
「違うよ。それ、大袋ねずみの肉だよ」
ブブーッ!
思わず味噌汁を噴き出してしまう。
なに? 大袋ねずみってなに! 捕ってきたって狩り!?
「リンは狩りがすごく得意なんです。豹文ハトとか、大袋ねずみとかをいつも捕って来てくれて。すごく助かっているんですよ? お肉は市場で買うととっても高額なんで」
「多めに捕獲して市場に売りに行ってるしな」
「そ……そうなんだ」
猫は狩猟動物で肉食。だから驚くことはないんだけど、実際に自分がねずみを食べることになろうとは思わなかった。まあ、言われなければ豚肉にしか思えないし、想像しなけりゃいいんだし、なにより美味いんだからよしとする!
出された味噌汁をたいらげて、ふうっと息をついた。
ああ、胃が満たされた。
あとはそう、猫を吸えればそれでいい。
「なあ、おまえ。本当に酔拳使えるのかよ? ハク兄ぃはすばらしい素質の持ち主だって絶賛してたけどよお」
リンが訝しげに俺を見る。
そんなこと言われてもなあ。実際に俺、自分で意図して酔拳なんか使えねえし。
「マッサージなら得意なんだけどなあ。俺のこの指先のタッチで落ちなかった野良猫様は一匹もいない!」
俺は胸の前でピアノを弾くみたいに指をしならせた。
そう、俺はこの神の指で数多の野良猫様を落としてきた。俺の指に掛かった猫様はみな骨抜きになる。俺の指技を知った猫様方が長蛇の列を作ってたのを思い出すよ。
あれは最高の光景だったなあ。
「マッサージ? おまえが?」
「ああ。コツがあるんだよ。耳のつけ根とかほほのラインのところとか、こうやってさ」
もう一度なめらかに指を動かしてみせると、リンが興味津々と言ったように大きな金色の目をくりくりっとさせた。
「じゃあさ、じゃあさ! あたいにやってみてよ!」
「は?」
「あたいも猫カテゴリーだろ?」
それはそうですが、ケモ耳の女の子にマッサージ!?
「いや、それは……」
「ええ!? いいじゃんかあ!」
言うや否や、リンは俺の膝にごろんと頭を預けた。
ちょっと待ってええええっ! こ・れ・は! 逆膝枕って言うんじゃないでしょうかあああっっっ!
「ほいっ! やってみて」
「え? あ? ええ!?」
「早くしろよお~」
ええいっ! ままよっ! ケモ耳娘は猫娘! 猫娘は猫カテゴリー! イカせてみせるぜっ、黄金の指!
リンの甘え声に腹をくくってマッサージを始める。頭の上の黒いケモ耳のつけ根を丁寧にほぐすように指を動かす。
「んにゃん」
くすぐったいのか、気持ちいいのか、リンがほほを赤らめながら背中を丸めた。マッサージをしているケモ耳がときおりピクピクと動いて俺の膝を小さくこする。
ふははははっ! やった! やったぞ、トウマ!
俺の膝の上で気持ちよさそうに身をよじりながら吐息をもらす美少女!
なんという破壊力抜群な姿!
ああ、ここへ来て、俺はなんと罪深い人間となったんだろう。
猫様だけでなく、ケモ耳の美少女までもを虜にするこの指! この技!
ブラーヴォ!
ちらりと傍で俺たちを見守るユンを見る。顔を赤らめた彼女がもじもじとしている。まるでうらやましいようにこちらを見て――
いや、なにそれ! キュン死しそうなんですけど! 俺、世界を救う前に萌え死にそうなんで・す・け・どっ!
清楚で可憐で豊かな胸の美少女と大胆不敵で胸の小さな褐色肌の美少女。真逆タイプふたりの間で俺、揺れまくりだよ。
選べない! 選べるわけないっ!
「おお、トウマ。ずいぶん元気になったじゃないか?」
「ハク兄ぃ!」
ゴロゴロとのどを鳴らすように俺の膝の上で丸くなっていたリンが跳ね起きた。その瞬間、彼女の頭突きが俺のあごに炸裂して、俺はそのまま後ろへ倒れ込んだ。
目が回る。星が見える。ぐわんぐわんする。
なんて石頭だよ……とほほ。
「あれっ? お~い、トウマ? え? ちょっとトウマ白目むいてるけど!」
「やれやれ」
呆れたようなハク・レン様の深いため息が耳が届いた。
だけど、俺の目の前から星が消えてなくなることはなく……
天国と地獄は表裏一体、合掌。
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