キトンブルーの瞳をした三毛の子猫はとろんとまどろんだ目で俺を見上げた。
「ク・クル。おまえはこれからトウマの供猫となりなさい」
「ハク様……トンマ?」
「違う! トウマ! 俺の名前はトンマじゃなくてトウマ!」
子猫は相変わらずとろんとした目で俺を見て「トンマ……」とつぶやいた。
ああ、もういいっ! かわいいからトンマでいいっ! もう俺はキミの下僕だよ~、子猫ちゃああああんっ!
ふああっと再び寝てしまう子猫ことク・クルの首根っこを掴んだハク・レン様は俺の肩にひょいっと乗せた。
子猫は俺の肩に移動してもぜんぜん気にすることなく、すぴーすぴーとかわいらしい寝息を立てている。
猫型フックみたいに俺の肩にぶら下がっている子猫に鼻先を向けてクンッと嗅いでみる。
イチゴミルクみたいな甘い匂いがふわんっと漂った。
なんともやさしい! イチゴの酸味と甘みをやわらかなミルクで包んだ香り!
う~ん! トレビア~ンッ!
その瞬間、バシッと俺の頭頂部に痛みが走る。
ハク・レン様の猫パンチがさく裂していた。
「こんな子猫で酔うでない、トウマ! もっと平常心を保てるようになれ。猫は吸っても飲まれるな、だ!」
それを言うなら『酒は飲んでも飲まれるな』なんじゃ……
「っていうか、『ともねこ』ってなんなんですか?」
「簡単に言えば従者だな。子猫ゆえ、それほど力もない。ゆえにどれだけ吸っても、わしを一回吸うのには及ばない。好きなだけ吸って、慣れるがよかろう」
子猫を。
好きなだけ。
吸えるっ!
「いいか、トウマ。己の身は己で守る。これが猫神シン様の教えだ。そしておまえはその神に選ばれた男だ。己の心身を磨き、みごと誠の英雄となるのだ」
「その話なんだけど、ハク・レン様。本当に俺、なんすかねえ? たしかに俺は変態レベルの猫好きだし、猫を吸わないと死んじゃうと思いますけど。いまいち信じられないっていうか……その、本当に酔拳なんてもんが使えるのかなって」
「ふう。では信じられたら、わしの言うことを聞くと?」
ハク・レン様の目が座る。ブルーアイズが殺気に満ちている。
「や……その……信じてないわけじゃなくって。でも、神様もまちがえること、あるんじゃないかなあって……」
「なに言ってんの? そんなことあるわけないじゃんっ!」
俺とハク・レン様の間にリンが割って入った。
「ねえねえ、ハク兄ぃ。トウマと試合させて。今度はちゃんと猫吸ってからでいいからさ」
リンが請うと、ハク・レン様は「いいだろう」と小さくうなずいた。
「ただし、トウマはふにゃふにゃだ。おまえの鍛え抜かれた一撃を食らったら、もちこたえられん」
「うん。手加減する」
「では、ふたりともこちらへ」
そう言うとハク・レン様は納屋の向こうの小さな空き地へ俺たちを誘った。
「これより試合を行う。勝敗についてはわしが決める。特にルールも定めないとする」
ルールなし? 勝敗はハク・レン様次第?
「よっしゃ!」
ポキポキッとリンが拳を鳴らす。やる気満々の彼女はすでに軽やかに足でステップを踏み始めている。
ちょっと待て! だから俺は……
「トウマ。ク・クルを常に吸っていないとリンの動きには順応できまいて」
ク・クルを常に吸える!?
なにそれ! なにその天国ルール!
よっしゃあ! 好きなだけ吸っていいなら吸うぞお! 吸ってやるぞお!
「はじめ!」
ハク・レン様の開始の声があがったと同時にリンが目の前から消えた。
「遅いぞ、トウマ!」
その声にビクッと震えたのはク・クルだった。
「ひいっ! ビリビリでんぱこわいっ!」
と突然わめき始めて俺の顔にビタンッと張りついたのだ。
子猫の細いやすりみたいな爪がこめかみにぶっ刺さって、超絶痛いっ!
「いだっ! ちょっ! こらっ! ククルッ! 離れ……」
「やあだあっ! ビリビリでんぱこわい~!」
子猫はさらに強く俺のこめかみにしがみつく。
ぐあああああっ! 爪がめり込んで死ぬほど痛ええええええっっっ!
子猫によって完全に視界と鼻がふさがれている。
くそっ! これじゃ前が見えないっ!
子猫の腹が俺の鼻にぴったりと当てがわれた状態で息を吸うと、否応なく匂いが鼻孔を上ってきた。さっき嗅いだイチゴミルクの香り。
そのほんのり甘い香りが脳に到達した瞬間、俺の中の細胞が一斉開花するように覚醒した。
体中を熱がほとばしった。
指の一本一本、爪の先までエネルギーで満たされて、ジンジンする。
筋肉の筋のひとつひとつが意図的ではなく、勝手に動くんだ。視界がク・クルの腹で閉ざされているのにも関わらず、空気の流れでリンの動きが手に取るようにわかる。
右、左、揺さぶってからの下段蹴りが来る!
彼女の動きを受け流すようにふにゃふにゃに柔らかくなった体が動いていくんだ。
ひえええええっっ! なんだ、これ! すごすぎるっっっ!
「ほっ!」
突きが来る。正面だ!
「はっ!」
両腕で挟んで押し返す。
間髪入れずに蹴りが来る。右からだ!
「やっ!」
身を弓のようにしならせて、彼女の蹴りをかわしながら反撃する。
「うわあんっ! こわい! ビリビリでんぱこわいぃぃぃっ!」
「クク……ル! く……るしい……離れ……て!」
リンの猛攻を踊るようにすれすれでかわし続けながら、必死にしがみつく子猫を引き離そうと試みる。
頼む。頼むよ、ククル! このままじゃリンにやられる前に俺、酸欠でぶっ倒れるよ!
「もらったっ!」
「うわあああんっ! いたいのいやああああっ!」
パッとク・クルが俺のこめかみにめりこませていた爪を戻した。彼が逃げるように俺の顔を踏み台にして宙へ飛ぶと、俺の体から急激に力が抜ける。立っていられなくなり、その場にへたり込んだときだ。
「やめっ!」
とハク・レン様の掛け声が上がった。
その声にリンの動きがとまった。顔面すれすれのところに白いブーツの裏側が迫っていた。彼女は俺から離れると、片手をパーに、片手をグーの形にして胸の前で合わせるとその場で静かに頭を下げた。
俺もそろそろと立ち上がってリンのマネをしてお辞儀をした。
「これでわかったであろう?」
ハク・レン様が俺の顔をじっと見つめて尋ねた。腕組みをして仁王立ちするハク・レン様の鼻袋が大きく広がっていて、長いひげが張るようにピンっと伸びている。
俺はハハハッと乾いた笑いをこぼした。
猫を吸ったときの体の感覚は通常とはまったく異なっていた。
自然に体が動いたし、リンの俊敏な動きに対して少しも遅れをとっていなかった。ゆえにケガひとつしていない。むしろク・クルが残した爪痕のほうが痛い。
これじゃ認めるしかない。
自分が猫を吸うと強くなる『猫酔拳』の使い手だということを。
問題は猫を吸わなかったら武術もなにも使えない、ただの大学生に戻ることなんだろうけどね。
「おっしゃる通りにいたします。ハク・レン様」
俺は小さくお辞儀をする。
するとハク・レン様は「その呼び名はやめよう」と言った。
「呼び名をやめるって、どうして?」
「その名を外で呼ばれるのは少しばかりマズいのだ。これからはハクと呼べ、いいな」
「あ……はい。承知……しました、ハク……」
俺より年上っぽい人を呼び捨てにするのはかなり抵抗がある。それでも事情があるのなら仕方ない。俺はしぶしぶ了承した。
「さて、これからは忙しくなるな」
ハクとリンがうんうんと大きくうなずいた。
そんな俺の足元にククルがやってくる。小さな三毛の子猫は俺の足にはしっとしがみつくと「ごめん、トンマ」と泣きながら鼻をすすった。
俺はその小さな体を抱きかかえると「いいんだよ」と頭を撫でた。
「ビリビリでんぱ、こわいの」
そういや何回も言ってたな、そんなこと。
しかしビリビリでんぱってなんだ? リンから静電気でも出てたのかな?
そう思ってリンを見ると、彼女は「ああ」と小さく笑った。
「ク・クルの言うビリビリでんぱって言うのは殺気のこと。この子はすっごく敏感でさ、気の流れってやつに。三毛の男の子は希少種だから誘拐の可能性もすんごく高いし、高額で売買されるんだよ。だから人の集まるところは苦手で、いっつも納屋の奥のほうに隠れてるんだ。でもおまえと一緒にこれから行動するなら、ク・クルの安全確保はしてもらわないといけないし、なによりこの子が安心していられるようにしたほうがいいだろうな」
こっちの世界でも三毛の雄が貴重なのは同じらしい。
実は三毛は染色体異常で生まれてくると言われている。だからめったに出ないんだ。特にオレンジ色が入る子は生まれてくる確率がとても低くて、その希少性から『航海の守り神』なんて言われているんだよ。これ、猫の豆知識!
「安全の確保と安心……か」
小さな体をぶるぶる震わせている。よほど怖かったらしい。
そんなク・クルに俺は自分を重なる。
俺も人づき合いが苦手だった。人から漏れる悪意みたいなものにすごく敏感で、大学の講義でもいつも端っこの席にひとりポツンと座っていた。
友達と呼べるヤツは2年生になってもまともにできていない。コミュ障ゆえに自分から輪の中に入っていくのも得意なほうじゃない。
いつもどこか不安で、だからこそ猫を吸って落ち着くことが日課になっていたんだ。
でも、そうだな。これから行動を共にするときに、売買目的の輩に襲われて、さっきみたいなことが頻発してもらっても困るし。
となると、この子を隠せて、かつ落ち着いていられるような袋みたいなものがあればどうだろう? 有袋動物みたいに小さなバッグを首から下げていれば、敵が現れたときでもク・クルの身を守りながら戦える――ような気がする。それに袋ならすぐにク・クルを取り出せるし、しまえるわけで。好きなときに好きなだけ猫吸いができるのではないだろうか?
「バッグ……あるといいな」
そう言うとリンはニカッと八重歯を出して笑った。
「それなら市場へ行ってみるか? 明日なら案内できるよ。ユンに買い物に行ってほしいって頼まれているからさ」
こうして俺はリンと一緒にク・クルの袋を買いに明日市場へ出かける約束をした。
それまでは俺の肩に乗っていてもらうことになったク・クルがうれしそうに「にゃあ」って鳴いたんだ。
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