二度目に目が覚めたとき、俺はひとりだった。
ゆっくりと上半身を起こして、あらためて部屋を見る。
質素な部屋。あるのは俺が横たわっている小さなベッドとサイドチェスト。窓際に立てかけられた折り畳み机といす。それから収納スペースっぽい引き戸が見えた。必要最低限の物しか置いていない部屋は俺のアパートとちょっと似ていて落ち着く。
「よっと。とりあえずハク・レン様を探すか」
ベッドを離れて窓の外を見ると、ハク・レン様とリンの姿を見つけた。リンは外で薪わりをしていて、ハク・レン様はそんな彼女を見守っている様子だ。ガツッ、ガツッという重たい音が規則的に響いている。
どこかのジムのインストラクターみたいな肉体美。鍛え上げられているからこその壁胸なのかもしれないが、それはそれでいい。美少女の壁胸は刺激するツボが違う。ちなみに俺は巨乳でも、そうでもなくてもいい派ですっ!
と、俺の嗜好は置いといて。
かわいい美少女が持っているのは重たい斧のはずなのに、プラスチックのピコピコハンマーを振っているようにしか見えないのはどうしてなんでしょうなあ。
とんでもない速さだぞ、斧の振り方! どんだけ振り慣れてるの!?
部屋を出て、音を頼りにふたりのいる納屋のほうへ向かう。
「ああ、トウマ! やっと起きたのかよ?」
ふぃ~っとリンが額の汗を拭いながら、呆れたように肩をすくめた。なまってるなと、さも言いたげだ。彼女の引き締まった上腕二頭筋に比べたら、俺の腕なんてもやしみたいなもんだ。肌が褐色だから余計に筋肉ラインがくっきりと浮かび上がって見える彼女のほうが断然たくましい!
そりゃ、こんな力仕事していれば強いだろうな、俺よりも。
いや、そもそも意識飛んだのも俺のせいじゃないぞ! おまえが石頭過ぎるんだぞ!
ぶうっと唇を突き出しながら、俺はハク・レン様の隣に腰をおろした。
「すまないな。リンは口のきき方を知らなくて。悪い子ではないんだ」
「まあ、そうでしょうね」
悪い子じゃない。明るいし、人懐っこいし、かわいいし。
でも俺のこと、ときどきすっごいさげすんだ目で見るけどな!
「この世界のこと知りたいんだけど」
俺の言葉にハク・レン様は大きくうなずいた。
「この世界はな、猫神シン様によって創られたものだ。猫による猫のための世界、それがこのシャンミャオなのだ」
「シャンミャオ? なんか上海みたいだな」
ハク・レン様が首をかしげる。ごめん。わからないなら続けて。
「何百年もの間ずっと猫神シンによって守られていたのだ。神はすべての民を慈しみ、平等に扱った。しかしその中でひとり強欲な者が生まれた。神を独り占めしたいと思った強欲な者は神の留守中に人々にウソをバラまいた。神の掟を破るようにそそのかして、自分以外を神から引き離そうとしたのだ。争いが生まれ、病気が蔓延し、自然は豊かさを失った。戻った神は嘆き悲しまれ、この世界から去る決意をされた。去る前に強欲な者と彼に従った者たちが他の従順な者たちに近づけないように、神は呪いをかけた」
「呪い?」
「近づいたら苦しみ、近づき続けたら命を落とす『死の呪い』だ」
近づいたら苦しみ、近づき続けたら命を落とす? ん? これってなんか『猫アレルギー』に似てないか?
猫アレルギーの人って猫に近づくとくしゃみがとまらなくなったり、鼻がぐずぐずになったりするし、あまりにひどいと命の危険があるし。
それにしても、こっちの世界だとアレルギーは死の呪いになるのか、ふむふむ。
「そして神はその者が誰の目からでもわかるようにと『サル』に姿を変えた」
猫アレルギーのサルかあ。そりゃあ、たいそう厄介そうだわ。サル、すばっしこいだろうなあ。
「神は残った者たちに祝福と守りの術を残すと天へと帰ってしまわれた。再びこの世界に平和が訪れたときにまた戻ってこようとそう告げてな」
「へえ……で、守りの術って言うのが酔拳ってこと?」
「ああ、そのとおりだ」
「だったらそれ、俺じゃなくってもよくない? この世界に酔拳の使い手なんてゴロゴロいるわけでしょ?」
そう問うとハク・レン様は眉間に深いしわを刻んで「む~ん」とうなった。長いほほひげがしょぼんと下がる。
「もはや酔拳の使い手はひとりしかおらぬ。しかもその使い手は、敵の罠にかかって呪いをかけられてしまっている」
「え? 使い手がひとり? じゃあなに! あとはみんな死んじゃったってこと?」
「ああ、みな奴ら暗黒拳の使い手たちによって命を奪われた」
ちょっと待て! 神様が授けた護身術でも勝てないって言うのなら、俺ががんばったところでどうにもならないんじゃないの?
「残りのひとりは!? どうしてるの、今? 呪いって命を奪われるようなものじゃないんなら、その人の呪いを解ければ解決ってことじゃないの?」
「呪いで済んだのは運がよかっただけじゃ。それに呪いを解くには術者の命を奪わねばならない。暗黒拳の宗主ワン・タンメンの命をな」
ワンタンメン? なにそれ! 強そうじゃないんですけど! それにぜんぜん怖くないんですけど! むしろおいしそうなんですけど!
「その……ワンタンメンって強いわけ?」
「ああ、とんでもなく強い」
はあっとハク・レン様はため息を吐いた。くしゃっと耳が垂れ落ちて背を丸くする姿がものすごく愛らしい! ああ、抱きしめたい! もふりたいっ!
どおどおどおっ! 落ち着けー、落ち着け、トウマ! それをやったらなぶり殺しだぞ!
「ゆえにトウマ。おまえには修行が必要だ」
「え?」
「今のままのおまえではワンどころか、その手下にでさえ勝てぬ」
「だって酔拳使えば楽勝なんじゃないの? ほら、すんごいパワーの出る、すんごい猫様吸ったら百人力ってなるわけでしょ?」
「バカ者! 中毒者の放つ猫酔拳はな、もろ刃の剣なのだ! 強い力はそれだけ生命エネルギーを酷使する。吸えば吸うほど命を削るものなのだ! 鍛錬もしてないおまえの精神力では数秒使っただけでも二日間も寝込んでおったのだぞ!」
え? 俺、エクスタシー体験から二日も寝ちゃったの? まあ、寝不足だったのもあると思うけど。
でもでもでも、酔拳ってやっぱり使用頻度高くなると死ぬわけ? 吸えば吸うほど命削るの? ちょっとそれ、聞いてねえぞっ!
「だからこそ、酔拳に頼らずとも手下くらいは倒せるように心身を鍛えねばならない。鋼の肉体から繰り出す拳は、今のふにゃふにゃなぜい肉だらけの拳よりもずっと威力も増す。それに酔拳に対しての免疫力も向上させねば、ワンとの長時間の戦闘に耐えられぬだろう」
「いや、あの……修行とかちょっと……痛いの苦手っていうか。そもそも俺、平和主義だし?」
痛いの反対。戦争反対。出血スプラッター、まじ勘弁。
「ほお……では、もう猫は吸わなくていいと? ああ、そうだろうなあ。わしのとびきりの匂いで絶頂《エクスタシー》まで味わったんだからなあ。もう、あんな体験は二度としなくても生きていけるよなあ。思い出せばいいわけだから」
ハク・レン様があごを上に向けながら、白くて長いひげをピンっと張った。どや顔だ。俺の弱点を突いて、どうだと言っている!
なんていじわるなんだ! 猫が吸えなくなったら俺、死んじゃうのに!
「うわああああ! 俺の負けです! 修行しますうううう!」
背に腹は代えられない。
猫吸いは俺のステータス! 猫を吸わなくなった俺など俺じゃない!
俺の答えに満足したらしいハク・レン様はリンに向かって「ク・クルを呼んでくれ」と言うと、わかったとうなずいたリンが納屋へ走っていく。
ク・クル? 鳥か? さっきリンが言っていた豹文ハトかな?
しばらくしてリンが胸になにか小さなものを抱えて小走りに戻ってきた。
「ク・クル寝てたんだ」
そう言って、俺とハク・レン様の前にリンは抱えていた小さなものを差し出した。
彼女の手の中で丸くなって眠っている毛玉。
茶色と黒の柄の三毛だ。ふわっふわした毛並みは顔の前で手をクロスさせて、アンモナイトみたいに丸まって、すやすや眠っていた。
ふおおおおっ! あれはリラックスのポーズ! 猫ちゃんが安心しているという肉体《ボディ》動作《ランゲージ》!
至福なり! これ至福なり!
「ク・クル。ほら、起きないか。英雄様の前ぞ?」
ハク・レン様がク・クルという丸っこい毛玉をちょんちょんとつついた。すると毛玉はクロスさせていた手を開いて伸ばすと、ふああああっと大きなあくびをこぼした。
うわああああ、かわいいっ! もふもふのふわっふわ。それでいてピンクの肉球がまた小さくてキュンキュンじゃないかああああっっっ!
ああああ! 吸いたい! 今すぐ吸いたいっ!
「ん? ハク様?」
毛玉は寝ぼけ眼をこすって身を起こす。
キトンブルーのつぶらな瞳がまっすぐに俺を見た。
「あれ? サル? なんで?」
三毛の子猫ちゃんがきょとんとした後で、にっこりとほほ笑んだ。
だああああっ! 天使のほほえみ~っ!
俺の意識が三度吹っ飛びかける。
ハク・レン様。子猫ちゃんは反則です。
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