君の特別になりたかった

一話完結の短編集です。甘さ控えめ塩分濃いめ。
沙耶
沙耶

初恋

公開日時: 2020年9月1日(火) 18:21
更新日時: 2020年10月14日(水) 22:47
文字数:2,493

 久しぶりの晴れた週末だからか、馴染みの居酒屋は普段より賑わっていた。


 *


「そういえば、彼女できた」

 浅野あさのはそう言って、何本目かの煙草に火をつけた。薄い唇から白い煙をふっと吐き出す。

「へえ、よかったね」

 私は平坦な相槌あいづちを打ちながら、自分のグラスをマドラーでぐるぐるとかき混ぜる。この店のレモンサワーはいつも底の方ばかりが濃い。初めて飲んだ時は、後半の暴力的なアルコール濃度に、氷が溶けるのを待ちながらちびちび舐める羽目になった。

「反応、薄」

「だって、先月も同じこと言ってたし。これで何人目?」

「……忘れた」

 呆れた顔で問いかけると、浅野は悪戯いたずらっぽく肩を竦めてみせた。


 今更、彼女ができたくらいでいちいち嫉妬なんかしない。


 浅野は大学のゼミの同期で、当時から異性に不自由しない男だった。

 身長の割に痩せ型。重めの前髪で表情は見えづらいものの、鼻筋の通った綺麗な顔立ちをしている。喫煙所で一人気だるげに紫煙しえんくゆらす姿は寡黙かもくで近寄りがたい印象でも、話しかければ意外と親しみやすく、よく笑う。猫背で構内をのそのそ歩く様子に、熱っぽい視線を向ける女子は多かった。

 ただ、来る者拒まずで付き合ってみては、疲れた飽きた面倒臭いとすぐ別れるのがお決まりのパターンだった。卒業して二年が経つ今も変わらず、着々と元カノを増やしている。月に一度、こうして飲みに来るたびに、彼女が変わっていることも珍しくない。


「今度は長続きさせなよ。せめて半年くらいはさ」

「俺だって別に、最初から別れるつもりで付き合ってるわけじゃないんだけど」

 浅野は苦笑気味にこぼして、人差し指で灰皿に灰を落とした。

 煙草を止めろと言われたから、と二週間で別れたのは前の前の彼女だったっけ? その前だった気もするが、曖昧だ。思い出そうとしてすぐにやめた。どうせ浅野自身も覚えていない。

「俺から連絡くれないとか冷たいとか、言われると萎える。連絡したいと思えばするし、会いたければ誘うし、俺は俺のしたいようにしてるだけなのに文句言われてもさ」

「連絡したいとか会いたいとか思わない時点で関係値として微妙じゃない? 根本原因としてそもそも彼女に大して興味なかったでしょ」

 私の言葉に、バレたか、とくつくつ喉を鳴らして笑った。


 浅野は少し残っていたウーロンハイを、ぐいと呷って飲み干した。グラスが空になったを見て私は店員を呼び止める。注文はジャスミンティーを二つ。飲みに行くのが好きな割に浅野の飲む量は少なく、許容量はグラス二杯まで。三杯目はソフトドリンクで酔いを醒ますのがいつもの流れだ。

 まじまじと私を見つめる視線に気付いて見つめ返す。浅野は浅く頬杖を突き、口端を吊り上げた。

「はは、由佳ゆかが一番俺のこと知ってる気がする」

「付き合い長いからね」

「親友だもんな。俺、由佳と飲むのが一番好き」

 不意打ちの発言に、慌てて壁のメニューに視線を逸らす。しれっとそういうことを言うところが人たらしたる所以ゆえんだ。頬が熱くなるのをアルコールのせいにしてジャスミンティーを流し込んだ。


 *


 終電の時間に合わせて店を出た頃には、すっかり辺りに人気はなくなっていた。

 等間隔に街灯が立ち並び、誰もいない道路に薄明かりを落とす。夏の夜風が頬をさらりと撫でて心地よい。

「満月」

 隣を歩く浅野の声に、空を仰ぐ。雲のない空に白い月がぽつんと浮かんでいた。

「キレイだね」

 真っ黒の画用紙に開けた穴みたいだ――と学生時代好きだった歌詞が浮かぶ。妙にシチュエーションもあっているのが可笑おかしくて、小さく笑みが漏れる。


「また飲も」

「うん」

「連絡する」

「私も」

 左耳に囁く声が優しい。


 言葉にすれば簡単なんだろうな、と思う。

 面倒臭がりで気まぐれな浅野のことだ。取り留めのないメッセージをやり取りしたり、定期的に二人で飲んだりなんて、誰にでもはしない。特別扱いだって分かっている。好きだと告げたら、俺も好きだと笑ってくれるくらいには、憎からず思われているだろう。

 それをしないのは、未来が見えないから。

 一時手に入れるのは簡単でも、失わずにいることはどれだけ難しいだろう。誰と付き合っても本気になれない浅野が、彼女たちを過去にするのを何度も見てきた。私だけは大丈夫と自惚うぬぼれるほど盲目にはなり切れない。肩を並べて歩けるこの距離を、無くしてしまうことが怖かった。

 恋も愛も知らないなら、友情のままでよかった。


 *


 二か月、三か月が過ぎても、彼女とは続いているようだった。


「最近どう?」

「ぼちぼち」

 さらりと答える浅野に、少しだけ違和感を覚えた。

 他愛もない雑談をしながら浅野の様子を窺う。表情も振る舞いも、いつもと変わらないように見えるのに。グラスを空けるペースもいつも通りだ。何に引っ掛かりを感じているのが自分でも分からず、気のせいだろうかと首を傾げる。

 浅野は胸ポケットからジッポーライターを取り出して、くわえた煙草の先端に宛がう。オレンジ色の火が灯るのを何気なく眺めていて、ふと気が付いた。

「煙草、減らしてるの?」

 いつもならもう既に何本か吸い終えている頃なのに、今日はこれが一本目だ。浅野は私の問いかけに、少しね、と歯切れ悪く頷いた。

「彼女が煙苦手らしいから、何となく」

 照れ臭そうに頬をく浅野は、私の知らない顔をしていた。


 胸がざらつく。その台詞と表情で全て分かってしまった。

 ああ、浅野は恋をしているのか。


「彼女のどこが好き?」

 思わず口に出して、すぐに後悔した。

「……真っ直ぐなとこ」

 浅野の声色は柔らかい。微笑みをたたえた口元は、彼女を思い浮かべているんだろうか。


 テーブルの下でスカートの裾をぎゅっと握り締める。喉の奥が焼かれたように熱い。

 望み通りじゃないか――内心で自嘲じちょう気味に呟いた。浅野が恋をしても、変わらず私は友達として傍にいられる。望み通りの現実が、こんなにも痛い。

 誰に対しても本気になれない浅野に安心していた。ずっと二人で停滞していられると信じていた。浅野が誰かを好きになるなんて、思ってもみなかった。


 初めての恋をした親友に精一杯の祝福の言葉を告げると、浅野は幸せそうに笑った。

 震える声を誤魔化ごまかすように口に含んだレモンサワーは、涙が出るほど苦かった。

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