君の特別になりたかった

一話完結の短編集です。甘さ控えめ塩分濃いめ。
沙耶
沙耶

視線

公開日時: 2020年11月3日(火) 22:07
更新日時: 2020年11月3日(火) 22:08
文字数:2,205

「ごめんね、もう疲れちゃったんだ」

 はるかは小さく呟いて、アイスティーのグラスに手を添えた。外側に付着していた結露が細い指を伝って滑り落ちる。言葉と裏腹にその表情が柔らかいのは、思い悩む期間はとうに過ぎ、結論を出しているからなのだろう。

 突然の別れ話に驚きはしなかった。話がしたいと駅前の喫茶店に呼び出された時から何となく用件は想像が付いていた。テーブルを挟んで向かい合っているだけの距離がひどく遠くに感じる。微かに湯気の漂う珈琲を一口啜り、判決が下されるのを待った。


 遥と付き合い始めてもう半年が経つ。

 初めて顔を合わせたのはゼミの親睦会で、遥は同期の一人だった。お互い積極的に異性と交流するタイプではなく、授業以外で言葉を交わしたのは数えるほど。毎週顔を合わせているとはいえ、最初はただの顔見知りでしかなかった。ただ、しゃんと背筋の伸びた立ち姿や、ひだがきちんと整えられたプリーツスカートが、真っ直ぐな性格を滲ませているようで印象的だったのを覚えている。

 目が合う回数が妙に多いなと気付いたのはいつ頃だったか。討論の合間、休憩時間、酒の席でも。ふとした瞬間に視線がぶつかり、その度遥は恥ずかしそうに目を伏せる。生憎あいにく俺はその辺りの機微に疎く、真意を邪推するどころか理由があるとすら思っていなかった。交際を申し込まれて初めて、どうやら偶然ではなかったらしいと気が付いたくらいだ。


 予期せず始まった関係でも、遥といるのは楽しかった。

 異性の扱いは昔から苦手だったが、遥とは不思議と会話が弾んだ。沈黙すらも心地良くて、隣にいるだけで息を吸うのが少し楽になるような気がしていた。大切にしたいと思っていたし、大切にしているつもりだった。けれど――

「私ばかり好きみたいで寂しかった。だって、一度だって自分から好きだって言ってくれたことはないでしょう?」

 カラン。グラスの氷がバランスを崩し、涼やかな音を立てる。

 遥は手慰みのようにストローをくるくるとかき混ぜてアイスティーを飲んだ。目を伏せると長い睫毛が色白の頬に影を落とす。


 感謝はしている。愛着もある。しかし、これが恋愛感情なのか確信が持てずにいた。胸を焦がすような情熱も狂おしいほどの嫉妬も知らないのだ。あるのはただ、凪いだ海のような穏やかな静寂だけ。

 俺は遥を好きだと言えるのだろうか。たまたま好意を向けられたから特別視しているだけじゃないのか。誰でも良かったわけではないと、相手が遥だからだと、胸を張って言い切れる根拠はどこにある。承認欲求を満たし愛情を注いでくれる都合の良さに執着しているだけだとしたら、そんなものはただの自己愛でしかない。


 答えが出ないままでも傍にいられたらと思っていた。傍にいれば、いつかは答えが見つかるだろうとも。けれど、遥が苦しいと言うのならここまでだ。

「……ごめん。今まで、ありがとう」

 逡巡の末、ありきたりな言葉を吐く。弁解も釈明もしない。傷付けた相手に許しを請うなんて傲慢だ。

「――良かった。今更好きとか愛してるとか口先だけの薄っぺらいことを言われたら、思い切り怒ろうと思っていたから」

 遥は自嘲気味にそう言って、鞄を手に立ち上がる。律儀に自分の代金を置いていこうとするのを手で制すと、ありがとうと小さくはにかんだ。

「じゃあ、また、ゼミで」

 去り際の声が微かに震えていたような気がして、振り返ることははばかられた。背後でドアベルが鳴ってからもしばらくは動けず、空のグラスをぼんやりと眺めていた。

 グラスの氷が半分以上溶けた頃、ようやく椅子にもたれかかった。覚束ない手つきでカップを口に運ぶ。すっかり冷めてしまった珈琲はどろりと苦く、飲み干すには時間がかかりそうだった。



 ゼミの忘年会が開かれたのはそれから二月後のことだ。何かと理由を付けて断ろうとしたものの、年に一度の機会なのだから顔を出せと周囲にせっつかれ逃げられなかった。

 大衆居酒屋の暖簾をくぐり、店員に通されるままに座敷の奥に腰を下ろす。遥と席が離れたことに落胆とも安堵とも言い難い感情が胸を渦巻いた。あれから、遥とはろくに言葉を交わしていない。


 参加する前は億劫だったイベントも始まってしまえばそれなりに楽しく、憂鬱な気分を紛らわせられた。

 何杯目かのジョッキを傾けながら隣のテーブルを横目で窺う。そこには同期の話に耳を傾ける遥の姿。見慣れた横顔をしばらく見つめ続けるも遥は気付かない。こちらに一瞥いちべつもくれず、愉快そうに肩を揺らしている。当然だ。俺の一挙一動を目で追っていたあの頃とは関係も感情も違うのだから。自ら恋に幕を引いた今となっては、遥の瞳が俺を映すことはもうないのだろう。

 内心独り言ちた後でふと考える。目が合うようになったのはいつからだった?

 視線が絡むのは双方が見つめているからだ。一方だけでは成り立たない。今、俺と遥の視線が交差しないように。つまり、よく目が合うと感じていたのは、遥が俺を探したように俺も遥を目で追っていたからじゃないか。

 遥の視線の理由は俺に好意を抱いていたからだった。それなら、俺が遥を見ていた理由は。

「――馬鹿だな、俺。今更気付いたって遅いのに」

 思わずこぼれた言葉は喧騒に掻き消される。なんて間抜けな話だろう。探し物は最初から手の中にあったのに。

 この胸に巣食う、喪失感とも罪悪感とも違う痛みの正体をようやく悟り、もう二度と振り向かない横顔に苦く笑う。失って初めて恋の輪郭を知れた気がした。

診断メーカー『お題ひねり出してみた』より

お題:目で追ってしまうのは、つい癖で

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