※百合です。
※作内の表現は全て創作であり、特定のセクシュアリティを貶める意図はありません。
「大学生になったら、格好いい彼氏作ろうね」
卒業を間近に控える春の日の放課後。秋帆は優しく笑って、私の呼吸を止めた。
薄暗い教室に静寂が漂う。
「……彼氏なんか、欲しくない」
「どうして? せっかく新しい出会いがあるんだから。茜は可愛いから、きっと素敵な恋人ができるよ」
どうして、なんて。分かっている癖に。
ぐちゃぐちゃの感情が胸の中を渦巻いて、何も言えなくなる。スクールバッグにつけたお揃いのキーホルダーが目に入り、鼻の奥がツンと痛んだ。
*
告白されたのは、生まれて初めてだった。
私に好きだと告げた秋帆は、色素の薄い肌を耳まで真っ赤に染め上げて、華奢な肩を微かに震わせていた。同性を恋愛対象に見たことはなかったし恋愛感情を向けられるなんて予想もしなかったけれど、秋帆の緊張が伝染したかのように高鳴る胸は、確かに恋の始まりだった。
授業中、周囲にバレないように目配せをしては、声を殺して笑い合った。帰り道で手を繋ぎ、人目を盗んでキスをした。初めて触れた他人の唇は柔らかくて、リップクリームの甘い匂いにくらくらした。
付き合おうとも恋人になってくれとも言われたことはなかったけど、二人の間には同じ気持ちがあったはずなのに。いつから違う景色を見ていたのだろう。
合格したらお互いのキャンパスを案内し合おうねと未来の約束を交わした時、秋帆はどんな顔をしていたのか思い出せない。
あれから、秋帆とは会話できずにいる。学校では二人きりになることを避けられ、メッセージを送っても既読が増えるばかりだ。友達には喧嘩でもしたの? と心配されるが、曖昧に笑うしかできない。
喧嘩じゃなくフラれたんです。しかも、別れ話さえしてもらえずに、新しい恋を応援されたんです――なんて言えるわけがない。
二人だけの密やかな関係は、秋帆が口を噤んでしまえば、まるで最初から存在しなかったかのように不確かで。こんなにあっけなく終わりが来るなんて知らなかった。
*
唐突に秋帆から連絡がきたのは、卒業式の前日だった。
指定された空き教室に顔を出すと、秋帆は窓際の席に一人座って校庭を見下ろしていた。視線に気付くと、ひらひらと手を振って私を招き寄せる。
「ピアス開けてみない?」
久しぶりの会話だというのに秋帆はいつもと変わらない様子で、少し面食らう。机の上には、駅前のドラッグストアで買ったらしい新品のピアッサーが二つ並んでいる。
「……明日卒業式なのに?」
「大丈夫だって。髪で隠せばきっと分かんないよ」
秋帆は悪戯っぽく口端を吊り上げた。
鞄を適当な席に放り、秋帆の前の席に腰を下ろす。秋帆は肩と耳で挟むようにして器用に保冷剤を固定し、空いた両手でパッケージを開けた。まごつく私を余所に、秋帆はどんどん準備を進めていく。
「先、茜が私にやってよ」
手のひらサイズの機械を私の前に置いて、肩まである淡い栗色の髪を掻き上げる。白く細い首筋が目に毒だ。さあ、と机に身を乗り出す秋帆に、堪らず私はストップをかけた。
「ごめん、待って。……話がしたいの」
どうして彼氏を作れなんて言ったの? 本当にこれで終わりなの? 私のこともう好きじゃなくなったの?
言いたいことは山ほどあるのに、いざ秋帆を目の前にすると何から話せばいいのか見当もつかない。途方に暮れる私に、そんな顔しないでよ、と秋帆が人差し指で頬をつついた。
「茜には感謝してるんだよ。私のこと気持ち悪がらないでくれて」
「そんな、当たり前のこと」
秋帆はかぶりを振る。
「茜みたいな子は少数派だよ。大抵は面白がるか同情するか毛嫌いするかだから」
きっぱりと言い切るのは実体験に基づくものだからだろうか。中学時代は苦労したと過去に話していたことを思い出す。
「好きになってくれて嬉しかったし、茜のおかげで高校生活楽しかった」
「なら、どうして終わりにするの」
私の問いかけに、秋帆は困ったように笑う。
「将来誰かと結婚して、真っ白なウェディングドレス着てお祝いして、いつかは子供を産んでお母さんになってって、そういう普通の幸せ、全部要らないって今ここで言える?」
言葉が出なかった。
沈黙を埋めようと口を開くけれど、逡巡の末、何も言えずに唇を噛む。咄嗟に言葉を返せなかったこと自体が答えで、今更何を言っても薄っぺらい。
ずっと同じ関係でいられると妄信していた。未来のことなど何一つ考えなかった。その結果、結末を秋帆一人に押し付けた。
「ごめん、意地悪な言い方した。でも、茜には幸せになって欲しいからさ」
秋帆は私の髪を優しく指で梳いた。
遠くで微かに吹奏楽部の金管楽器の音が鳴っている。明日演奏する曲の練習に熱が入っているのだろう。聞き馴染みのある別れの曲に耳を塞ぎたくなる。
「……秋帆と一緒にいて楽しかった。幸せだったよ」
幸せになれと言うけれど、秋帆といて不幸だったことなんて一度もないのに。未練がましい私に、知ってるよ、と秋帆は小さく笑った。窓から差し込む夕日が秋帆の横顔をオレンジ色に照らしている。
「それでも、寄り道はもう終わり。――ねえ、ほら。暗くなる前にやっちゃおうよ」
湿っぽい話はもう終わりとばかりに明るい声を出して、私の手を取りピアッサーを乗せる。
結論はずっと前から決めていたのだろう。秋帆の気持ちが変わらないことを悟って、私は手の中の機械をぎゅっと握り締めた。
この関係が続いたとして、いつか、先のない関係に辟易して秋帆を置き去りにする日が来るのだろうか。未来を見通せるほど大人ではないし、そんなことあるわけないと無邪気に否定できるほど子供でもなかった。その時秋帆に与える痛みはどれほどかを考えると、何も誓えない私に、これ以上言い縋ることなどできない。
左手を秋帆の肩に添え、反対の手で秋帆の耳に針を宛がう。小さく深呼吸をしてから握る手に力を込めると、予想より強い衝撃。恐る恐る秋帆の顔色を窺うと、特に痛がる様子もなく手鏡を覗き込んで、満足げに頬を緩めている。
「茜はどっちの耳に開ける?」
少し考えた末に右を選んだ。理由は秋帆には言えない。左右対称の方が隣に並んだ時に様になる気がしたからなんて、もう隣に並ぶこともないのに。
少し緊張したような面持ちで秋帆が私の頬に触れる。自分の耳に針が突き刺さるシーンを想像して、思わず目を眇めた。注射と同じで待つ時間が一番怖い。数秒の間を置いて、ばちん、と耳元で音が鳴ると共に軽い痛みが走る。
「ほら、お揃い」
私の鼻先に手鏡を突き付けて、秋帆は嬉しそうに目を細めた。
小さな傷と鈍い痛みは、秋帆が最後に残した感傷。
秋帆は馬鹿だ。こんなものなくても、忘れるわけがないのに。
見上げた窓の向こうで、夕焼け空に飛行機雲が白く伸びている。もうすぐ日が沈む。
この狭い学び舎の中で、私たちは確かに恋人だった。
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