さて、僕はこれから、なぜ僕が【作り手】になれなかったかを話して聞かせたいと思う。堂々と恥を晒してのけるが、僕は今まで何度も『クリエーターになるのだ』と周囲に宣言してきた。
けれども、僕がどんなにモノを創りたいと訴えても、「貴方はお金だけ出していれば良いのです。後は僕らで上手くやっときますから」としか周囲の人間に言ってもらえなかったのだ。
つまり僕は、相場で身ぐるみを剝がされて初めて、最初の一歩を踏み出したことになる。だが諸君、誓って言うが、かつて僕にモノを創らせようとはしなかった周囲の人たちの判断はやはり正しかったのである。
分かりやすく、相場に例えて言おう。トレードとは、自分がどう考えるかではなく、『他人がどう考えるかを正確にとらえる技術』の事である。そしてこの、他人がどう考えるかを意識するということは、それ自体が病気なのだ。
つまり、創作者を志す者が、他人の目を気にして作品を作っているうちは、何時まで経っても自分の作品を金には出来ない。他人の視線を意識することは、作家を目指すうえで何のメリットもないのだ。ハッキリと断言するが、他人にどう思われようとまったく気にしない人間にしか、成功というものは掴めないように出来ているのである。
諸君はきっと、僕がこんなことを書くのを、「本当はお金のためだ。相場師として復活するために、悪趣味ながら自分の人生を切り売りし、可哀想だと思った善良な読者から新たな金主を見つけようとしているのだ」と考えておられるに違いない。
しかし諸君、他人のお金を運用しようというのに、自分の病気を自慢げに語る相場師がどこにあろう? しかも、それを案外得意げに感じている奴なんて、僕以外にいるはずがないではないか?
いや、僕は一体なにを言っているのだ? 誰だって自分を大きく見せようとしているではないか。つまり皆、自分の病気を自慢しているのだ。少なくとも、作家を志そうとする人間は皆そうである。僕などは、おそらくその最たるものだろう。
「私は、皆の幸せにために書いています。皆の幸せが、私の幸せなんです」
みたいな事を真顔で言う作家も中には居るが、それは結局のところ、自分の事しか考えてないという事を、別の言葉で言い換えているにすぎないのだ。
別に議論をするつもりはない。信じたくなければ、信じなくたって構わない。だが僕は、この意識の問題に関してだけは、心の底から確信している。意識の過剰どころか、どんな種類の意識であろうと、他人の視線を気にしてモノを書く奴は、すべからく病気なのである。勿論、そんな病気を抱えてるうちはまともな作家には決してなれない。
僕のこの主張は、大半の読者からは受け入れられないであろう。なので、この主張が真実であることを実感していただくために、まずはひとつ、僕の質問に答えていただきたい。この質問の回答いかんで、僕と諸君との【距離】が決まるからだ。
どうして僕は(そして、もしかしたら君たちは)、あの大切な瞬間に、つまり、普通の人間が到底なしえない「美しくして、深淵なるもの」を手中にしようとする瞬間に、見ぐるしい所業をやってのけ、自らの幸せを放棄するような真似をしてしまうのか?
しかもそれは――皆もそうに違いないと、僕は確信しているのだが――決して不注意から起こるミスではない。絶対に、そんな事をやってはならないと十二分に意識しているにもかかわらず、愚かな行為を好んでやってしまうのである。
つまり、「美しくして、深淵なるもの」を手にしたいと、はっきり意識すればするほど、いよいよ深く自意識の泥沼にはまりこみ、すべてをぶち壊しにするより、他に手がなくなってしまうのだ。
何よりも困ったことは、どうもそれが偶然ではなく、そうならざるをえないように仕組まれている点である。つまりこれが、僕の正常な状態であって、けっして病気でもなければ、変態でもないらしいのだ。
結局のところそれは、他人の目を意識しているから起こる問題であろう。つまり、幸運を掴むとか、何かを成しうる人間になるためには、努力とか能力の問題以前に、「他人の事などまったく気にしない」というスタンスが、どうしたって必要なのだ。
「読み手がどんな気持ちになるかを、常に考えながら書きましょう」などと言っている輩の事を、絶対に信じてはならない。それは、まばゆい才能をもった人間を少しずつすりつぶすための罠である。既に伸びしろを失ってしまっている彼らは、自分らの食い扶持を減らされると困るのだ。
他人を喜ばせよう、理解させよう、幸せになってもらおうと思った瞬間から、作品は腐っていく。彼らはそのことを骨の髄まで知っているから、「まずはテンプレ作品を作ってみましょう」などと勧めてくるのだ。
奴らの言葉を信じてしまったおかげで、僕には自分を主張しようという気持ちがまるでなくなってしまった。一時期は彼らに感謝までし、「文章を使って他人に奉仕すること」が自分のノーマルな状態であると、信じかねない状態に陥っていたのだ。いや、ことによったら、本当に信じ切っていたかもしれない。
「読者を喜ばせるために書きましょう」
このクソみたいな言葉のせいで、一体どれだけの才能が闇に葬られたことだろう? 皆この言葉をウソだとは思わない。真実に気づいた人間は、自分より才能のある人間にそれに気づかれると困るから、この言葉はずっと、常識としてまかり通った。まるで、呪いでもあるかのように。
僕は、他人に尽くすなど不可能な人間であることをちゃんと理解していながら、素直にそれ信じた自分を恥じた。だが、真実に気づいた時には、僕は他人の視線をシャットアウトすることなど、到底不可能な人間になってしまっていた。
だから僕は、自分というものを捨て、何をやったら、他人が自分を愚かな人間だと思ってくれるかだけを考えて生きる、下劣な生き物になることを決断したのだ。
「今日もまた、愚劣なことをやってのけた。しかし、やってしまったことは取り返しがつかない」
一生懸命、意識の中でそうくり返しては心ひそかに自分を責め苛み、我が身を噛み砕き、しまいにはこの意識の苦汁こそが、一種の呪わしい汚辱に満ちた甘い蜜に変わってゆく。そして最後には、この状態を心の底から望むようにまでなってしまうのだ。
そう、これは快楽なのだ! 僕はそれを主張する。僕がこんな手記を書き始めたのは、他の人にもこんな快楽があるものか、それを知りたくてたまらなかったからだ。僕は諸君に説明しよう。
この快楽は、強烈に、自己の愚かさを意識するところから生まれる。
つまり、自分がどんづまりの壁にぶつかって、その苦しさを痛感しながら逃れるべき道がない、今さら別人になる訳にもゆかないといった袋小路に嵌って、ようやくたどり着ける真の愉悦なのである。
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