ある相場師の手記

伊集院アケミ
伊集院アケミ

第十七話「いま一度、あの言葉を」

公開日時: 2024年12月29日(日) 05:31
文字数:2,537

「貴方は自分のちっぽけな虚栄心に駆られて、自分だけの真実を見せびらかしに創作クラスタに乗り込み、裸踊りをしているだけだわ」


 黒衣の少女は、更に煽りを続けた。


「それの何がいけないんだよ? 真実なんか伝わらなくたって、僕の文章を面白いと思ってる奴らはいるだろ?」

「ならば伝わらないことを拗ねて、こんな『手記』なんか書くべきじゃない」

「仕方ないじゃないか。僕は現時点では何者でもない。僕の周りにいた、あの人たちとは違うんだよ」

「違うからなんだって言うのよ! それをいい切るだけの決断力がないだけでしょ? 何者でもない人間には、真実を言う資格もないっていう訳?」

「そうさ。まだ何者でもない人間の言葉に耳を傾ける人間なんて、この世にはいやしない。ただでさえ創作クラスタの人間は、自分の事にしか興味がないんだ」


 堂々巡りだ。今、真実を書くことに、一体何の意味がある? 僕はウソつきが服を着て歩いているような男だが、「自分の文章を読む人間を笑わせたい」と思っていることだけは、本当に本当だ。


「下卑た娯楽だわ。この『手記』を見て笑ってる人なんか、誰一人いやしないじゃないの」


 黒衣の少女は、そう僕をなじった。


「それは書き手としての僕の技量と、受け手の知的水準の問題だ。僕は最初から、この手記をコメディとして書いていた。僕が真剣であればあるほど、この作品は面白くなるんだ」

「貴方はそのエンタメ精神がご自慢らしいけど、本当はただ、狐疑逡巡しているだけだわ。貴方の心の中は、淫蕩に曇らされているから」


「淫蕩で結構だ! 芸術家とは、すべからく淫蕩な生き物だよ」


 そうでない者に、小説なんか書けるものか! 面白いと思うことにしか人は耳を傾けない。真実とは、たいてい詰まらないものだ。いつかそれを語るべき時が来るとしても、それはずっと先のはずだ。


「純潔な心を持たないものに、正しい意識は得られないわ。貴方の言葉には、処女性がない。貴方の苦しみは本物かも知れないけど、その苦痛をいささかも尊敬してはいないのよ!」

「おいおい。そこまで言ったら、それはもう罵倒じゃなくて、ご褒美だろ?」

「ご褒美?」

「これ以上、僕を喜ばせてどうするんだよ。第一これは、悪い方の話じゃなかったのかい?」

「……ッ!」


 彼女の罵声を浴びながら、僕はえもいわれぬ幸せな心地に浸っていた。確かにこの黒衣の少女は、僕の理想の女性だ。そして、その魅力が誰にも理解されなければされないほど、僕の快楽は増すのである。


「なんといううるさい男だろう。貴方は実に、芝居じみた真似ばかりをしたがる人だ! 嘘つき! 嘘つき! この嘘つき!」


「だから僕は、最初から嘘つきだって断りを入れてるじゃないか。ところで、もう一つのいい話って言うのは、一体なんだったんだい?」




 これらの少女の言葉は、全て僕(伊集院アケミ)が自分でねつ造したものだ。正確に言えば、引きこもり生活の妄想の中から、勝手に生じたものである。回路のおかしくなった僕の脳ミソは、眠っている時以外の全ての時間、いや、眠っている時でさえも、こんな風に不思議な言葉を紡ぎだしている。


書かなきゃ狂いそうになる」から、僕らは書くのだ


「書けない」という、ワナビのつぶやきを見る度に、僕はいつも失笑を禁じ得ないでいた。脳ミソの回路の狂った人間には、何もしなくとも言葉が自然に浮かんでくる。そのうちに、言葉がそらで暗記され、妄想そのものが文学的な形式をとるようになっているのだ。


 自分の異常性をちゃんと自覚しながら、それを更に加速させようとする奴だけが、文章で飯を食えるのである。


 作家と言う仕事は、キチガイが社会に奉仕できる唯一の仕事である。だから、貴方がいま病気を治そうと精神科にかかってるなら、今すぐ通うのを止めた方が良い。そして、貴方が聞いている幻聴や、内部から沸き起こる心の声を全て書き止めよう。それはきっと将来の飯のタネになる。少なくともその行為によって、他人に害を及ぼすことだけは止められるはずだ。


 いま一度、あの言葉を繰り返すが、他人を意識して物を書く奴は、それだけで病気である。それは不治の病であって、考えなきゃ言葉も出てこないような輩に、作家になる資格などないのだ。



 しかし僕は、自分の身の程はわきまえている。この『手記』を紙に印刷し、大衆に届けようなどとは、ちっとも考えてはいない。僕がここまで、そしてこれから叙述するであろう告白は、印刷すべきものでもなければ、他人に読ますべきものでもないのだ。


 どんな人間の追憶のなかにも、少数の親友を除いては、誰にもうち明けたくないようなことがあるはずだ。それどころか、そこから更に歩を進めて、思い返すことさえ恐れるような思い出さえある。そういう過去は、どんな身なりの良いちゃんとした人でも、大抵幾つかはあるものだ。


「まっとうな人間でありたい」と思っているからこそ、そういう苦い記憶は増えていく。直情行動的な人間、つまり、神が「そうあれかし」と望んだ人間は、そもそも過去なんか振り返りはしないのである。


 僕自身、過去に起こったある種の出来事を追想してみようと決心したのは、つい最近のことだった。今年の四月から、今日にいたるまで、僕はずっと不安を感じながら、自分のことだけを書いてきた。そして、その不安を誤魔化すために、すべてをフェイク・ドキュメンタリーだと主張し、物語を極力エンタメ方向に振ってきたのだ。


 ところが、単に追想するばかりでなく、手記に残そうとさえ決心した今となっては、はたして自分自身に対して完全に赤裸々な態度をとり、いっさいの真実を恐れないということができるかどうか、それを実験してみたいと思ったのである。


 ドストエフスキーの断言するところによると、この世には正確な自伝というものはあり得ないそうだ。人間は自分自身のこととなると、間違いなく嘘をつく。彼にいわせれば、たとえば、ルソーなどもその懺悔録の中で、いつも必ず自己中傷をやっているそうだ。


 僕は彼の意見を正しいと信じる。僕にはよくわかっているのだが、時によると、人はただただ虚栄心のために、大それた犯罪を捏造して、それを自分の仕業にすることさえある。そして、これがいかなる種類の虚栄心であるか、僕には十分に理解できるのである。



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