諸君に質問するが、自分自身の屈辱感の中にさえ快感を見いだそうとする人間が、はたして自己を尊敬し得るものだろうか? 僕がこう言うのは甘ったるい慚愧の念のためではない。そもそも僕は子どもの時から、『ごめんなさい、お母さん。これからはもうしません』などと言うのが許せない性質だった。
もっともこれは、自分の非を認めるのが嫌だったという意味ではない。こういうセリフを上手く言える自分が嫌いだったのだ。
勿論それは、余計な諍いを避けるための処世術だった訳だが、思ってもいないことを、心の底からそう思っているかのように言える自分が、昔から大嫌いだったのだ。
僕は、てんで悪いことをしたような覚えがない時に、よくわざとこの手のヘマをやってのけた。誰かが笑えば自分も道化の笑いを返し、誰かが怒れば、僕も心の底から反省して、後悔の涙を流したのである。無論、これは自分で自分を欺いたのだが、何も芝居を打った訳ではない。ただなんとなく、僕の心が突然そんな嫌な真似をさせるのである。
この習慣は、これまでの人生で何度も何度も、こっぴどく僕を痛め続けて来た。こんな記憶は思い返すのも厭わしいのだが、実際ものの一分もたつと、僕はもう毒々しい気持ちを抱きながら、「こんなことはみんな嘘だ! いまいましい嘘だ! こんな後悔も、感激も、更生の誓いも皆、何もかも嘘だ!」と言って、自分で自分を苛むのである。
今度は本当に苦しんでいるのだが、何故だか信じてもらえない。だから僕は、自分の苦しみや悲しみを、他人に理解されることを諦めた。そもそも僕はなんのために、自分で自分をひん曲げたり、苦しめたりして来たのだろう?
試しに聞いてみるがいい。その答えは、『ただボンヤリと生きているのが、退屈でたまらなかった』だけなのだ。いや、まったくその通りなのだ。
僕の事を罵る前に、よくよく気をつけて自分自身を観察して見たまえ。なるほどその通りだと、きっと合点がゆくはずだ。これは程度問題であって、何者でもない人間が、このつまらない世界で生きてゆこうと思うなら、自分で何か冒険を見出して、物語を創作しなければならないのである。
僕はその創作のために、これまで何度、腹を立てて来たか分からない。勿論、最初はただ、なんとはなしにわざとやるのだ。自分でも、そんなことに腹を立てる訳はないと承知している。だが、自分で自分に油をかけて行くうちに、ついには腹の底から怒り出すようになってしまうのだ。
回路のおかしくなった僕の脳ミソは、こういう芝居を打つことに慣れてしまっていて、自分の意志を支配することすら出来なくなってしまった。つまり、それが演技であるのか、自分の本当の気持ちであるのか、自分でも分からなくなってしまっているのだ。
無理に恋をしようと思ったことさえある。しかも相手は人妻であったのだ。正直なところ、僕はずいぶん苦しんだ。魂の奥底では、自分の苦しみなど微塵も信じられず、むしろ冷笑の気持ちが働くのだけど、それでも、とにかく苦しんだ。本当に、正真正銘の苦悩を体感した。
嫉妬の念に駆られて、前後を忘れたこともある。だが、それもこれも、結局は皆、【退屈】から出たことなのだ。
諸君! すべての悪癖は退屈から生ずるのだ。人間は何かを演じていないと、惰性に圧倒されてしまう。実際、意識というものから直接生ずる合法的な結果は、この惰性なのだ。いい換えるなら、「意識的になにもしない生活」である。このことは、既に前に述べておいた。
くり返していうが、とくに強調してくり返していうのだが、すべての直情行動的な人間は、彼らが鈍感で、思慮の浅い人間であればこそ、あのように行動できるのだ。彼らは自身の浅薄な思慮のために、本質でも何でもない第二義的な原因を根本的なものと取り違え、「絶対不変の原則を発見した!」と、恐ろしくせっかちに確信する。そこでホッと安堵の息をつくのだ。
ここがもっとも重要な点である。人間が何か活動を始めようとする時、【なんの疑惑も残らないようにするという作業】が、どうしても必要なのだ。ところで、たとえば僕などは、どうしたら自分を安堵させることができるのだろう?
自己の支柱とすべき『生きる理由』は、一体どこにあるのだろうか? 肝心かなめの基礎は、どこに置けばいいのか? 仮にそれが分かったところで、どこからそれを、持って来たらいいのだろうか?
僕は思索の自己鍛錬をしているので、一つの根本的原因を突き詰めることによって、更なる原因が次々と湧き出してくる。これが即ち、すべての意識とか思索とかいうものの本質なのである。
そうすると、結局、最後はどうなるのだろうか? 結論としては、やはり同じことになるのである。思索に思索を重ねようと、何も考えてなかろうと、見た目は殆ど同じ怠け者なのだ。当然、その態度を咎められる訳だが、僕にはそれが、とても理不尽に思えてならなかった。
さて諸君、つい先ほど、僕が復讐について話していたのを思い出してもらいたい(どうせ諸君は、ろくすっぽ聞いてはいなかったとは思うが)。
前にも述べたとおり、人が人に復讐するのは、その行動に【正義】を見いだすからである。自分は正しいことをしてると思い込むからこそ、あらゆる点において迷いがなくなる。つまり人は、「自分は正しい事をしている」という確信を抱いて初めて、他人を攻撃したり、目の前の【壁】を打ち破ったりすることが出来るという訳だ。
ところが僕のような人間は、その行為に正義も発見しなければ、意義などもいっこうに見いだせないので、せいぜい【被害者ぶる】事しか出来ない。そして、次々と自虐を始めるのだ。
ところがこの【自虐】という奴は、相手を苦笑させる事しかできないにせよ、誰かを傷つけることはなく、少しは楽しい。だから立派に、根本的原因の代わりを勤めることが出来るはずなのだ。
しかしもし、「俺って可哀想」という気持ちすら湧かなくなってしまったら、一体どうしたらいいのだろうか?
憤怒は感情としては存在しながら、ここでもまた、例のいまわしい意識の法則の作用でバラバラになってしまう。論証は霧のごとく消え失せ、責任者は見つからないで終わってしまう。そして、侮辱はもはや侮辱ではなく、宿命みたいなものになってしまうのだ。
いうならば、誰を責めることもできない、「他人を喜ばせるために、書きましょう」みたいなものに変わってしまうのである。
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