ある相場師の手記

伊集院アケミ
伊集院アケミ

第二章「黒衣の少女」

第十一話「本当の始まり」

公開日時: 2024年12月29日(日) 05:31
更新日時: 2025年1月3日(金) 22:43
文字数:2,623

 ここまで書き終えた時、僕(伊集院アケミ)はこの手記で述べたいことは大体書き尽くしたと思った。とはいえ、本番はこれからである。まだ『引きこもり』(ここまでずっと創作論を語ってきた男の事を、以後こう呼ぶ)の思想を描写しただけで、物語は何も始まってはいない。


 僕はずっとこの手記を笑いながら書いていた。とはいえ、テキトウに書いていた訳でも、嘘をついていた訳でもない。引きこもりはある意味で僕の分身であり、僕のもう一つの可能性でもあった。


 現実の僕は、相場の世界に身を置き、沢山の人たちと関わりあった。勿論、良い事ばかりではなく、何度も裏切られてきたが、それでも、現実世界で出会った『片隅で生きる人々』の美しい姿を描きたいと思いながら、小説を書き続けている。


 だが、もし若い頃に師匠と出会わなかったり、自宅から株価をチェックすることが可能だったとしたら、僕はおそらく、彼のようにずっと部屋に引きこもっていただろう。そしてきっと、真っ当な人間に対する呪詛の言葉を呟きながら、四十五歳の誕生日を迎えていたに違いない。


 再び創作への道を歩もうと決意した時、僕は自分にとって大切な人たちを描くだけでなく、かつての自分も救わなければならないと思った。引きこもりは僕にとって、「片隅」のアケミと同等に、いやそれ以上に大切な存在なのである。


「後は、いつものようにエピローグを書くだけだ」


 僕はそう独り言ち、サイドテーブルの上のお茶を一気に飲み干すと、執筆で疲れた体をソファーに投げだした。


「少し寝た方がいいかもしれないな……。昨日はこの『手記』に苦戦して、殆ど休んでいなかったから……」


 起きたらもう一度始めから読み返して、それからゆっくりエピローグを書けばいい。そう思った瞬間、何者かが僕に声を掛けた。


 人間が好んで愚かな行為をするのは、何故だかご存じ?


 僕は自分の耳を疑った。このヤサの場所を知っているのは、僕の相方だった男と、かつて愛した人妻だけだ。今はもう二人とも傍に居ない。居場所すら分からない。僕は慌てて体を起こし、辺りを見回した。


「人間が愚かな行為をするのは、ただ自己の真の利益を知らないからである」などといったのは、誰だかご存じ?


 再び声が聞こえた。その声の先には、全身黒ずくめの小さな修道女シスターが立っていた。体つきは幼いが顔立ちは大人びていて、相当な美人だった。とにかく、何か返事をしなくちゃいけない。


「人間が愚かな行為をするのは、それが人間の本質だからだよ」


 僕はそう答えた。


「人間というものは、その知性をどんなに啓蒙してやっても無駄だという事?」

「無駄だとは言っていないさ。だが、真の利益だなんて馬鹿げた概念を持ち出すのは学者だけさ」


 どんなに人間の知性が発達しようと、どんなに正しさを教え込もうと、人間は善行のうちに己の利益を見いだしたりなんかしない。むしろ逆だ。


「正しさを啓蒙すれば、人は自分の利益を正しく認識し、いわば必然的に善を行なうようになる……なぁんてことは、世間知らずな赤ん坊の夢と変わらないってことね」

「その通りさ。この世に立った一人でも、自分の利益のためだけに生きた人間があるだろうか?」

「というと?」

「人間はね、安全で指定された道を正直に歩んでゆくのは嫌だと、ただそれだけの理由で、骨の折れる道をわざわざ進む生き物なんだ」

「少なくとも、貴方はそっちの側のようね」


 人間というものは自己の本当の利益を承知しながら、大抵それを二の次にしてしまう。誰にも何も強制されてないにもかかわらず、わざわざ危険な道へと突進してゆく生き物なのだ。別に僕だけに限った話じゃない。彼らは、これらを証明する無数の事実を、いったいどう説明するつもりなのだろう? 


「僕らは真っ暗闇の中を手探りしながら、自らの道を強情に開拓していきたいと願う。つまり、もし学者たちの言う事が本当に正しいなら、この強情とわがままの中にこそ、どんな利益をも上回る【本当の人間の利益】が隠されているということになる。しかし奴らは、それを正しいとは言わないだろう」


 少女は静かな笑みを浮かべたまま、何も言わずに黙っていた。まるで、僕の言いたいことは、すべてわかっているといわんばかりだ。


「ところで、もしその人間の利益なるものが、自己に有利なことでなく、自己の不利を欲することに帰着するとしたら、いったいどうなるのかしらね?」 


 僕は思わず苦笑してしまった。まさに今、それを言おうとしていたところだったからだ。


「もしそうとだしたら、この世のすべての法則は木っぱ微塵に消し飛んでしまう訳だけど」


 どうやら彼女は、僕をからかいに来た訳ではないらしい。ならばこちらも真剣に答えよう。 


「君の考えている通りさ。少なくとも僕は、自己に不利な事を望む人間が一定の比率で生まれてくることを信じる。でなければ、文明というものはここまで進歩しなかったはずだ。その事の是非はともかくとして……」


 学者たちは、『人間の利益台帳』を作成するのに、目に見える社会学的・経済学的状況の平均値をとって来たに過ぎない。つまり、彼らのいう正しい利益とは単に、自由とか、平等とか、平和とか、人権とか、株価とか、貯蓄額とか、そういったものの集合体に過ぎないのだ。

 

 社会の安寧を乱す行動は悪であり、統計上の数字を良化させる行動は善である。我々は悪を減らし、善を為すべきだ。


 たったそれだけの事を、彼らはいつも声高に主張している。政治家ならそれでもよいのだろうが、全ての人間にその尺度を当てはめようとするのは、いくらなんでも横暴だろう。


 僕はいつも不思議に思うのだが、こうした啓蒙主義者たちが利益を算出する際に、先ほど僕が言ったような、人間の本能ともいえる『未知の世界への渇望』を意図的に捨象しているのは、いったいどういう訳なのだろう? 当然とり入れなければならぬその思いを、奴らは決して勘定に入れようとはしない。だから、全体の帳尻が狂ってくるのだ。


 ちょっと考えれば、なにも大したことではないから、その利益を取り上げて表に記入すればいいように思える。だが、この厄介な利益はいかなる分類にも当てはまらないし、より正確に言えば、分類そのものを拒否するのだ。


 人間という生き物は、体系とか抽象的機能とかに執し過ぎて、ただ自分の論理を是認せんがために、故意に真実を曲げることさえするようになってしまった。僕が奴らをボンクラと思うのは、あまりに明瞭な反例がそこら中に存在しているからだ。


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