「例えば、散歩の途中で雨が降ってきたとする。傘を持っている人間は、傘をさすし、持っていない人間は雨宿りの出来る場所を探す。それが合理的な思考だよね?」
「そうね」
「だが、僕は違う。誰かと一緒に雨宿りをするくらいなら、ずっと雨に打たれ続ける方がマシだと思う」
「何故?」
「雨に打たれる事にも快楽はあるし、悪い方に転がっても、せいぜい風邪をひくぐらいで済む話だからだ」
「その行為に、誰も理解を示さないとしても?」
「示さないとしてもだ」
僕はそう答えた。
「たかだか雨如きの事で、自分のやりたいことを邪魔されるのが嫌なんだ。僕はきっと、予定通りのコースを駆け足もせずにちゃんと回って、そのまま家に帰るだろう。まあ、天気予報も見ずに外に出た自分を、呪うくらいはするだろうけどね」
「それで?」
「僕はずっと、そんな感じで生きてきた。合理的な社会、安寧平和な社会とは、このような願望を人の頭から完全に取り去った時に、初めてもたらされるものはずだ。ならば、取り替えてもらおう。代わりのもので。そんなものが、本当にあるというのなら!」
彼女が何者だか知らないが、もし向こうの味方だって言うのなら、今すぐ僕の欲望を殲滅し、より優れたものを示すべきだ。そんなものが、この世に存在してたまるものか!
「僕はこれまで、ずっと周りの人間に馬鹿にされてきた。これからもずっとそうだろう。僕はこの世のありとあらゆる嘲笑を甘受するが、それでも飯を食いたい時に『満腹です』などと言う訳にいかない」
「本当に、まっとうに戻る気はないの?」
「ないね。むこう百年の契約で、唸るような大金が毎月入るとしても、僕はそれを、自分の熱狂の代償としては受け取らない」
「いつからそんな、拗ね者になったのかしらね?」
この少女は、僕に轡をはめに来たのかもしれない。引きこもりは、世間になんら害をおよぼしてないけれど、僕は違う。僕のような人間を野放しにしておけば、頭のよくない人間には、確実に悪影響を与えるからだ。
僕は今、これまでと違って真面目に考察をしている。彼女が何者なのかは、僕にとっては問題じゃなかった。幻覚だろうが、幽霊や物の怪の類だろうが、そんな事はどうでもいい。この少女が敵か味方か? 大事なのはそれだけだ。
「さあてね。でもまさか、自身の存在が誤魔化しにすぎないという結論に到着するために、こんなふうに創られた訳でもないだろう? とにかく僕は、今のところはまだ生きていて、自分としてはマトモな積りでいる。君がここへ現れた理由は何だい?」
「私は貴方の敵でも味方でもないわ。ただ、言葉を伝えに来ただけ。良い話と悪い話を一つずつ持ってきてるけど、どっちから、先に聞く?」
「じゃあ、悪い話から」
「悪い方からね……」
黒衣の少女は、そういってため息をつくと、こう続けた。
「この『手記』は誰からも読まれてない」
「えっ?」
「誰からも読まれてない。貴方が必死に、分かりやすく、面白く書いたところで、誰の心にも届いてない。それは最初から、読まれてないのと同じ事じゃないかしら?」
「そうだね。元々僕は、大して期待はしていなかった。一人でも二人でも、この『手記』の価値に気づいてくれる人がいれば、それでいいと思ってた」
僕は素直にそう答えた。
「その一人すらいないという話をしているの。だったら、なんにもしない方がまだマシじゃないかしら?」
「瞑想的惰性ってことかい?」
「そう。貴方の産み出した、あの引きこもりのように……」
確かに僕は、引きこもりとは違う人間だ。彼と同じく、堅気の人間を羨んではいるが、だからと言って、「マトモになるくらいなら、狂った方がマシだ」とまでは思っていない。堅気の世界の辺境に住む、片隅に生きる人間なのだ。勿論、今さら堅気に戻れるとも思っていない。
だから僕は、彼らが僕をマトモに戻そうとしてるのと同じように、僕も彼らを、キチガイの世界に引きずり込もうと画策しているのである。
「引きこもりの方が、まだ幸せな人間じゃないかしら? 少なくとも彼は、他人から理解されない苦しみを快楽に変えてるわ」
「それは僕も同じさ」
「いや、貴方はまだ、自分を理解されることを諦めていない。だからこの『手記』を、単なる創作論で終わらせなかった。そしてここに、私を呼んだの」
「僕が君を呼んだ?」
「そう。このまま自分の色を付けずに、この『手記』を終わらせたくなかったからね」
「……」
確かに僕は嘘をついていた。何故なら僕は、ひきこもりの事を愛していながらも、けっして彼の生き方が正しいとは思っていないからだ。
「貴方は本当に、自分の書いたことを信じていて?」
「信じているさ。世界の全てが敵に回ろうと、僕は最後まで、引きこもりの味方だ」
「彼を外に引きずりだそうとしていたくせに?」
「それは、物語を面白くするためだ。僕は彼に救いを用意していた。僕がそれを望むように」
僕がこれまで書いたことの中で、何か一つでも自分で信じることができたなら、どんなに素晴らしい事だろう? 僕は今まで書き散らしたことを、ひと言も、それこそタダのひと言も信じちゃいなかった。いや、信じたいと思ってはいるのだが、どういう訳か、自分ではずうずうしいホラを吹いているような、そんな気がしてならないのだ。
「では貴方は、何のためにこの手記を書いたの?」
黒衣の少女は僕の心を見透かすかのように、そう尋ねた。
「あんな優秀な人間を、周囲の人間はキチガイと見なし、四十年も部屋に閉じこめた。仕事もさせずにね。その期限が切れた時、世間の人たちが彼をどういう風に扱うのか、それを描いてみたいと思ったんだ」
「貴方はもう、その答えを知っているんじゃない?」
「かもしれない。だが、彼らがどんなに彼の事を嫌おうと、引きこもりの頭の良さだけは認めざるを得ないはずだ」
天賦の才を与えられた者には、それを行使する義務がある。いったい本当に才能のある人間を、四十年も放って置いてよいものだろうか?
「だから、それが伝わってないと言ってるの。この手記を読んでる人は、まるで珍獣を眺めるような気持で、貴方の作った引きこもりを、遠巻きで眺めてるだけだわ」
「いまの僕自身もね」
「開き直りね。その態度は卑怯じゃないかしら?」
「卑怯?」
「貴方は今、自分で相場が張れないものだから、人生の諸問題を、混乱した論理で解決しようとしているだけよ」
「それは、確かにその通りだ」
今まで優勢に議論を進めて来たように思うが、これは完全にやりこめられたと思った。
「貴方は一見、馬鹿なことばかりいって、真面目に創作に挑んでる人たちを振り回して、それで満足しているのよ」
「否定はしないさ。だが君だって、思わせぶりな事ばかり口にしながら、何も身になる事を言ってないじゃないか? よくもまあ、そんな口を叩けるもんだよ」
「だって私は、貴方の理想の女だもの」
「理想の女?」
「美人で、性的でなくて、意地悪で、それでいて、いつも自分だけを見てくれるメンヘラな女。貴方の描く女性は、全部同じだわ。そんなのが一般受けする訳ないじゃない」
「……っ!」
「思わせぶりが嫌だというなら、はっきりと言ってあげましょうか? 貴方は何も怖くないと大見えを切っていながら、大衆の歓心を買おうとしている。ボンクラとは関わりたくないと主張しながら、彼らを笑わすために、下らぬ洒落ばかりを振りまわしている。貴方は自分の洒落が、洒落になってないのをちゃんと自覚しながら、この手記の本質でない創作論が受けるのを見て、おおいに大満悦だったはずよ」
黒衣の少女は一気にこう捲し立てた。彼女のいう通りだった。だが僕は、自分の小説が世間に理解されないなら猶の事、この作品を無意味なものにしたくなくて、せめてエンタメに仕立て上げようとしたのだ。でもそれを抗弁してみたところで、所詮は僕の負け惜しみに過ぎない。
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