早い話が、僕は恐ろしくプライドが高い。のみならず、猜疑心が強くて怒りっぽい。けれども本当のところを言うと、もし仮に、「お前は間違っている!」と善良な人々に平手打ちでも喰わせられたなら、僕は却ってそれを喜ぶかもしれないのだ。否、きっと喜ぶに違いないのだ。
真面目な話、僕はそんな場合でも一種独得の快感を見つけだす自信がある。それはいわば【不幸を楽しむ快感】である。絶望の中にこそ、ひりつくような強烈な快感があるのだ。ことに、自分の進退きわまった窮境を痛切に意識する時は最高である。
その平手打ちを喰った場合、相手が僕の好きな、あるいは大嫌いな人間であればあるほど、「もう二度と世間へ顔出しができないほど、面目をまる潰しにされた」という意識が、否応なく頭からのしかかって来る。そして、ここで一番重要なことは、どんなに僕が理屈をこねてみたところで、僕が全ての点において、一番の悪者になってしまうということなのだ。
何よりも癪に障るのは、『他人を意識して書け』という事を教えたのは堅気であり、僕をこのような人間にしたのも彼らであるのに、いわば自然の法則として、僕が悪者にされてしまうことである。本当の悪党は堅気の商業作家様なのに、今日も奴らはワナビたちの尊敬を集め、僕の事をキチガイ扱いしている。その事に納得がいかないのだ!
諸君! 念のために申し上げるのだが、僕自身は叩きを一切やっていない。これは決して自己弁護のために言っているのではなく、僕の方が彼らよりも【劣等な】生き物であるという事を主張したいのだ。
苦渋の中にすら快楽を見出すようなクズの中でも、やはり厳粛な階級があって、いかに稚拙な叩きであろうとも、他人に関わる行動力のある奴はエリートなのである。
僕のような意識の奴隷ともいうべき生き物になると、自分の行動が他人の目にどう映るかを瞬時に考えざるを得ないのだが、脳内でその後の展開を何百通りもシミュレートし、その行動の意義を考え、結局のところ「何もしない」という結論に陥るのである。
何でいつもそうなるのか真剣に考えて見たのだが、まず第一に、僕が周囲の誰よりも賢いのが悪いのだ。
僕はいつも、周囲の人間の発言レベルの低さに辟易しつつも、それを指摘することも出来ず、ずっときまりの悪さを感じていた。だからいつも引きこもっていた訳だが、どうしても公の場に顔を出さざるを得ない時には、僕はいつもそっぽを向いてばかりいたのだ。
はっきりと言うが、僕はこれまでの人生で、他人の顔を真正面から見たことが一度もない。そんなことが出来る奴っていうのは、途方もない恥知らずか、あるいは詐欺師かのどちらかでしかないと思っている。
第二には、僕が非常に高潔な人間であることが問題なのだ。「自身の高潔さなど、一体なんの役に立とうか?」と自問したり、「自身の快楽のために、他人を貶めることなど許されない」と意識することによって、結局のところ、何にもすることが出来ないのである。
正直に言えば、稚拙な叩きをして袋叩きにあう同類を妬ましくすら思うのであるが、自身の高潔さゆえにそれが出来ず、「怠惰」だとか「口ばかりの奴」だとかいった、理不尽な責め苦を負う程度の痛みしか、今だ味わえずにいるのである。
さて、諸君らの中には疑問に思う人もおられるだろう。お前は「平手打ちなど、一度も喰らった事は無いと言っていたではないか?」と。
その通り。その言葉は嘘ではない。僕はどんなに頑張っても、他人の嘲りを受けるくらいが関の山で、他人からの暴力をこの身に受けると言う経験をすることは、これまでの人生で一度もなかった。何しろ僕は、物心ついてからはずっと部屋に引きこもっていて、たまに人と会ったとしても、ずっとそっぽを向いているだけの男に過ぎないのだから。
だから僕は意識の中で、自分の大嫌いな人間や、あるいは素晴らしい人間たちの姿を思い描き、妄想の中で自分を攻撃した。そして、そこで感じる痛みや悔しさを、まるで本当にあった事であるかのように振る舞ったのだ。
自分はそうされて当然の生き物なのだと屈辱に耐えたり、「僕のような高潔な人間を貶めるとは何事か!」と、怒りを感じたりしながら生きて来たのである。そして僕は、その妄想の中からすら、何とか快楽を得ようとしてきたのだ。
諸君! これが病気の人間の自意識なのである!
汚辱に満ちた甘い蜜を得るために他人を貶めるクズにすら嫉妬するようなイキモノに、もはや生きる価値などない。価値はないのだが、僕をこんな人間にした、「読者を喜ばせるために書きましょう」とか、「読み手がどんな気持ちになるかを考えながら書きましょう」と言った綺麗事を抜かす連中の欺瞞だけは、どうしても暴かずにおられないのである。
けれども、これも言葉遊びだ。もし僕が本気で復讐を望んだとしても、何ひとつ成し遂げることは出来ないだろう。仮に実現可能なアイデアがあったとしても、僕のような人間は、何一つ決行する気になれないに違いない。
どうして決行できないのか? このことについて、僕はとくに主張したい。これは煽りではなく事実だから言うのだが、意識しすぎる人間は、「思い付き」によって行動する事が出来ないのだ。「なんとなく」もダメである。全ての行動には理由が必要だからだ。
そして、その理由を子細に検証しているうちに、「無駄だ」とか、「自分にはその資格がない」だとか、「良い人に思われたら堪らない」だとか言って、結局のところ、何もしないのである。
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