自分の恨みを晴らしたり、自己の主張を押し通したりする人間は、一体どんなふうに自己を正当化するのだろう? 僕が思うに、彼らは復讐の念に駆られると、頭の中にはその感情以外、何も残らなくなってしまうのではなかろうか?
彼らは【壁】にぶつかると、むしろそれ以前よりやる気を出し、その能力によっては、たやすくその壁を乗り越えていく。僕らならきっと、もっけの幸いとばかりに進むことを止めてしまうだろうが、直情行動派の人間たちはそうではないのだ。
僕はこうした直情行動派の人間こそ、ノーマルな人間だと考えている。これこそ慈母のごとき自然が、僕らを優しく地上に生みおとした時、「そうあれかし」と望んだような人間なのである。
こういう人間を見ると、僕は腸が煮えくり返るほど羨ましくなる。勿論、こういう連中は頭の鈍い、愚鈍な連中ではあるのだが、人間とは馬鹿であることが正常なのだ。
正常な人間のアンチテーゼ、即ち、他者の意識に反応するためだけにカスタマイズされた、強烈な自意識を有する人間を例にとってみると、僕らは相手を愚か者だとちゃんと理解しているにも関わらず、彼らの異常な熱量の前に、何故か圧倒されてしまうのである。
そして僕らは、自らの強烈な自意識を活かせないまま、好んで自分をハツカネズミかなんかのように考えて、自身を人間扱いしなくなる。いくら上等な知性と意識を有していたところで、要するに鼠は鼠であり、相手は人間だから、最初から勝ち目なんかないという訳だ。
ここで肝心なのは、僕らは自分で自分をハツカネズミ扱いにしているということである。誰もそんなことを頼みはしないのに、僕らは自らの意志で自身を貶めているのだ。僕がしばしば【堅気】という言葉を使い、自分自身を貶めるのは、正にそう言った心理の表れなのである。
さて次に、このハツカネズミの行動ぶりを拝見しよう。この鼠が侮辱を受けて(こいつはほとんど一年中、侮辱を受けているのだが)、僕と同じく復讐を念じているとする。この鼠の心中には、堅気に対する憎悪の念が、積もり積もっているに違いない。
しかしながら、まっとうな人間は生まれつき愚鈍なために、そういった感情を殆ど持たない。仮に持ったとしても、自分の復讐を単純に【正義】と考え、何ら悩むことがないのである。ところが僕らは、その強烈な自意識のために、自らの正義を否定してしまう。そうして結局、仕事そのもの、つまり自身の復讐を諦めてしまうのだ。
僕らは、「他人のために生きなさい」、「他人がどういう気持ちになるかを常に考えなさい」という世迷言を信じてしまったがために、さまざまな穢らわしいものを、自分の周囲に積み重ねてしまった。忌まわしい暗渠の中で、侮辱と冷笑に打ちのめされたハツカネズミは、冷たくも毒々しい、未来永劫消えることのない憎悪に自ら浸ってゆくのである。
これまでの人生で受けてきた、浅ましい侮辱の記憶の数々を、きわめて詳細な点まで残りなく思い起こし、その都度その都度、いっそう浅ましいディテールを付け足しながら、自分の空想の中で意地悪く自分を嘲弄し、いら立たせたりするのだ。
己の過去を恥じながらも、やはり一切のことを思い返し、再三再四、心の中で捏ねくり回したあげく、「こんなことも起こりうる可能性があったのだ! いや、きっと起こっていたに違いないのだ!」とありもしない事実を捏造し、自分で自分を侮辱するのだ。
僕らはきっと、臨終の床にあっても同じ事をしているだろう。つまり、今わの際まで、ありったけの屈辱を思い返す訳だが、その時には長年の間の積りに積もった利息までが、おまけにくっついてくるのである。
何か復讐を始めるにしても、そんな復讐の試みのために、相手よりも自分の方が何百倍も苦しんで、先方はケロリとすましているに相違ないのを、僕らはちゃんと知っている。それでも僕らは、いつか復讐を遂げたいという自分の気持ちを抑えることが出来ない。
この未解決の問題は、永久に解消されることがない。諸君は僕らを、救いようのない愚か者だと考えるだろうか? 僕は「否」と答えよう。何故なら僕らは現実的には誰も傷つけてはいないし、僕らのような人間にも、幸せを追求する権利は担保されてしかるべきだからだ。
一体、僕は何を主張したいのか? それは、このいまわしい絶望的な状態、つまり、『女性の肌も知らぬまま、四十五年間、一人ぼっちの生活を続けてきた苦しみ』や、『永久に変わらぬ決心をした後の、すぐ次の瞬間に湧き起こる悔恨』や、『僕の過剰な意識と妄想が作りだした、熱に浮かされたような混沌』の中にこそ、これまで何度も申しあげて来た【快感の秘密】が隠されているという事である。
しかし……もうたくさんだ。どうせ理解などしてもらえないのだから、諸君にとって並み並みならぬ興味を有するこの主題については、もうこれ以上、語らないことにしよう。
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