「人間の熱狂は、どうしても矯正せねばならないなどと、一体誰が言い出したんだろう? 何故、こうした矯正が、人類に利益をもたらすなどと言う結論に、疑問を挟まないでいられるんだろう? それは多分、権力者にとって、都合のいい考えに過ぎないのに……」
僕はそう独り言ちた。理性や数学の推論によって保証された本当のノーマルな利益に逆行しないことが、いつも人間にとって有利であり、かつ全人類に適用されるべき法則であるなどとは、僕にはどうしても思えない。少なくともそれは、「種の法則」ではないはずだ。
「私は、そう言う人たちの意見をすべて否定するつもりはないわ」
「何故?」
「人間は創造的な動物であって、意識的に目的にむかって突進していく生き物だから」
「そのことに異論はないよ」
僕はそう答えた。
「何を目指すにせよ、土木技師的な仕事を蔑視しないで、恐るべき怠惰に身をまかさないことが肝心だ。それを為すためには、どうしたって理性がいる」
「ならば、争いはないじゃない?」
「ある。僕が担保したいのは、いま自分の目の前にあるものを、好きな時に、自由にぶっ壊す権利だ」
「ぶっ壊す権利?」
「そうだ。作るだけが創造じゃない。基礎からやり直さないと、新しい建物なんて絶対に作れないんだ」
「別の場所に、作ればいいじゃない?」
「ダメだ。それを是としないと、引きこもりみたいな人間になる」
「なるほど、それもいいですね」などと言っているうちは、人は絶対に『壁』を打ち抜けない。何事かを為す人間には、どうしたって【確信】が必要なのだ。
「『意識的に何もしない生活』は、悪徳しかうまないと?」
「そうだ。ひきこもりは優しすぎた。人を傷つけることを恐れ過ぎたんだ。だから奴は妄想に耽り、優秀な頭脳を創造に使うことが出来なかった」
「人間なんて、いくら傷つけたってかまわないって事?」
「そうだ。人間は創造を愛し、行路の開拓を好む生き物だ。大事なのは、自分も潰される覚悟を持ち、相手を潰すことをためらわないことだ。妥協は新たな妥協しか生まない」
ひきこもりはただ、自分の欲望のままに熱狂すればよかった。そしたらきっと、立派な仕事を残せたはずだ。僕は、そのことを確信している。奴は理性を信じすぎた。
「貴方はきっと、最大多数の最大幸福を否定したいのね」
「確かにそれも主張の一つだ。皆にとって、少しでもマシな世界を目指すというのは、一見正しく思える。実際、為政者を選ぶ手段としては正しいだろう」
「だが、種としては正しくない、と?」
「だってそうだろう? その道の行きつくところは、妥協と堕落と画一性だ。大事なのは、常に別の道を歩むことであって、その道がどこに向かっているのかは問題ではない。道はただ、続いてさえいればいいんだ」
「それならそれで構わないけど、本来創造を愛するはずの人間が、破壊と混沌をも同じように熱愛するのは、いったいどうした訳かしら?」
彼女は特に感情を示すこともなくこう続けた。
「決まってる。自分の造っている建物が完成するのを、僕らは本能的に恐れているのさ」
「何故、恐れるのよ? 完成させるために作るんでしょうに」
「その通りだ。だが、完成したら住まなきゃいけなくなるだろう? 僕らはその事には、まったく興味がない」
これまで察しが良かった彼女も、僕のこの言葉を直ぐには理解できないようだった。
「無理に住んでみたところで、きっとすぐに逃げ出すことになるはずだ。僕がアニメと美食の生活に、半年と耐えられなかったようにね」
「人間は、建設することにのみ情熱を持つ生き物だということ?」
「その通りだ。将棋指しと同じさ。目的までの最善の径路を考え、それを突き進むのが好きなんだ。目的そのものは、何だっていいんだよ」
人間が生きる意味というのは、この目的獲得のための絶えざるプロセス、すなわち「創造的な生活」そのものにあるのであって、目的の中には存在しない。だから人間は、真実の発見のためなら自分の命すら賭けるにもかかわらず、それを本当に探し当てることを、本能的に恐れている。発見してしまえば、もう他に探すものがなくなるからだ。
労働者なら、ひと仕事終えた後に居酒屋へ出かけて行き、泥酔して警察のご厄介になることも出来るが、創造を愛する者はそうはいかない。つまり、人間は到達を好むには違いないけれども、目的を達するたびに、何らかの居心地の悪さを感じてしまう生き物なのだ。
もう一度繰り返そう。人間は、目指すことにしか興味がない。むろんこれは、恐ろしく滑稽なことに相違ないが、それもまた人間という種を後世に残すために必要なシステムに違いないのだ。
「理性が立派なものだということには、僕にも異存がない。しかし、いっそ何もかも褒めることにするなら、二x二が三になったり、五になったりする事も、時によると愛嬌のあるシロモノなんじゃないかな?」
「とんでもなく、ディストピアな世界ね」
そう言って、少女は苦笑した。
「人間の理性は、断じて利害の判別を誤らないのだろうか? 人間が愛しているのは、安寧無事ばかりだろうか? 人間は苦痛というものも、同じくらいに愛しているんじゃないのか?」
そう。ことによったら苦痛も、人間にとっては安寧無事と同じくらいに価値があるのだ。人間は時に、恐ろしく苦痛を愛する生き物である。今さら歴史など調べるまでもない。それは、間違いのない事実だ。もし諸君にまっとうな人間の自覚があるなら、自分の胸に聞いてみるがいい。僕の意見を率直に言わせてもらえば、安寧無事のみを愛するのは、何となく不躾にさえ思われるのだ。
善いにせよ、悪いにせよ、【何かをぶち壊す】ということは、愉快なものだ。それが一生懸命、丁寧に積み上げてきたものなら猶更である。だが誤解はしないで欲しい。僕は特別に苦痛の肩を持つでもなければ、安寧の弁護をする訳でもないのだ。
僕が大事だと主張するのは、自分の気まぐれと、その気まぐれに沿って生きる自由が、間違いなく保証されていることである。
ところで僕は確信しているのだが、人間は普通の動物と違って、破壊と混沌を、けっして拒もうとしない唯一の生き物である。引きこもりも、こう言っていた。
苦痛――これこそが自意識の唯一の原因なのだ。
僕はこの手記の始めに、「自意識こそ、人間にとって最大の不幸だ」と書いたけれども、人間がその不幸をこそ愛して、他のいかなる満足にも変えようとしない事も、ちゃんと知っているのである。
この自意識というものは、理性よりも無限に優れている。何故なら、二x二が四のあとでは、何一つすることがなくなるばかりか、知ることさえ尽きてしまうからだ。その時になってなし得ることは、ただ自分の五感を塞いで、瞑想に沈むだけのことだろう。
だが、自意識を保っていれば、結果からいえば同じ事になるけれども、少なくとも、自分で自分をぶん殴ることだけはできる。これはなんといっても、多少の気付けにはなるのである。非常に退嬰的ではあるけれども、それだって何もないよりはマシに違いないのだ。
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