では、根本原因も理屈も抜きにして、ほんの少しの間、意識をおっぱらい、盲目的に自分の感情に引き摺られてみる事としよう。つまり、ただ腕組みしてぼんやりと坐っていないために、誰かを憎むなり、愛するなりをしてみるのだ。
そうすると、どんなに遅くとも三日たつ頃には、自分で自分を軽蔑するようになる。自分で自分を騙していることに気づく。その結果として残るのは、ただしゃぼん玉と惰性ばかり。ここまで言えば、もうお分かりだろう。
諸君! 僕が自らを賢者だと自認しているのは、冷静な論理的思考の帰結として、「なにもしないのが一番マシ」という結論に辿り着いてしまったからである。僕のような人間は、ただ普通に生きるだけで、他人を騙したり、不幸にしてしまう宿命を持っているからだ。
もし、僕の無為が単に怠惰のためであったら、僕はどんなに自分を尊敬できたことだろう。それは、「自分がどういう人間であるか、自分自身で規定できた」という、その点に対する尊敬である。それがたとえ『怠惰』であろうと、自分で自分を確信できるような、自己同一性を持つことになるではないか!
「あれはいったい何者だ?」と人が尋ねた時、誰かが「あれは、怠け者です」と答える。怠け者。これは実に一個の肩書であり、使命であり、履歴ですらあるのだ!
諸君! これは別に諸君を笑わせるために言っているのではない。まったくその通りなのだ。その時こそ、僕は一流クラブの堂々たる会員となり、絶えず自分自身を尊敬することが出来るようになるだろう。
一つ具体的な話をしよう。かつての僕の相方は、まだ「男の娘」という言葉のない頃から、女装漫画の第一人者であることを自慢にしていた。男の娘こそが萌えジャンルの最先端だと信じ、おのれに判断に疑いをさし挾んだことがなかった。彼は勝ち誇るがごとき顔をして死んでいったが、それはまさに当を得たことといわねばならぬ。
もし、それが僕だったら……。いや、彼の事を悪く言うのは良そう。何故なら僕は、今でも彼に感謝しているし、すべての『美しくして、深淵なるもの』を尊重する者だからである。
僕は怠け者にすらなれなかった。脳みその回路の狂った、ただの異常者だ。それは間違いないけれど、僕はまた、全ての『美しくして深淵なるもの』に対して理解を示す事の出来る人間でもあるのだ。
如何です? これはお気に入りませんか? 僕はもう何年も前から、彼のようにくたばりたいと願っていたのだ。もし僕が、僕にとっての『男の娘』を手に入れることが出来たとしたら、彼のように、自信をもって人生を終えることが出来るはずだからね。
もし諸君が、幸福に包まれたまま人生を送りたかったら、僕の相方だった男と同じように、自分が心から熱狂できるものに対して祝盃を挙げることです。『美しくして、高遠なるもの』といっても、愛だとか正義だとか、そんな高尚なものでなくて全然構わないのだから。
たとえば、僕の支援者の一人が、ドラゴンカーセックスものラノベを心の底から愛しているとすれば(そんなものが存在するのか、僕は知らないが)、僕は自分の趣味・嗜好をかなぐり捨てて、彼の心の健康を祝うはずだ。そして、僕は自分の盃に一滴の涙をそそいだ後、すべての『美しくして深淵なるもの』のために乾杯することでしょう。
その時僕は、この世の一切合切を『美しくして高遠なるもの』に変えてしまい、思いっきり穢らわしい性癖の中さえ、なにかしらの感動を見つけだすと思う。そして、まるで濡れた海綿のように涙っぽくなることだろう。
すべての価値を尊重するというのは、何も尊重していない事と殆ど同義なのであるが、諸君に何と思われようとも、この否定的な時代にこうしたスタイルで生きていくのは、この上なく愉快なことなのですよ!
……言葉遊びが過ぎた。これもまた、退屈を回避するための妄想の一つである。実際は、他人からどんな趣味嗜好を聞かされようと、何ら興奮しないに違いない。何をやっても他人の足を引っ張る僕が、誰にも迷惑を掛けずに楽しめることが、部屋に引きこもって妄想にふける事だったのだから。
確かに僕は退屈に耐えかねて、何度も人を愛したり、憎んでみたりしてみた。けれどもそれは、全てこの部屋の妄想で完結する事だ。何もしないのと変わりはない。そして、その「何もしない」ことに対する嘲りや侮蔑の声こそが、僕の快楽の源泉となっていることは、既に述べたとおりである。
諸君は「何もしない」と言っている僕が、こんなに饒舌であることを笑うだろうか? しかし、あらゆる賢者の直接にして、唯一の使命がこの饒舌にあるとしたらどうだろう? 空虚な議論をこねくり廻すことが賢者の証だとしたら、諸君は僕に頭を下げてくれるだろうか?
これはもう、悲劇ではなく喜劇である。勿論僕は、その生涯において、何一つ完成させることができなかった。その原因は言うまでもなく、「他人を喜ばせるために、書きましょう」というテーゼを単純に信じ込み、「評価という名の地獄」に捕らわれてしまったからである。
だから僕は、自然の法則がどうあろうと、万人がこのテーゼを正しいものだと判断しようと、僕の人生をかけてこれを否定しよう。でないと、僕に残された最後の復讐の手段である、【自虐】すら出来なくなってしまうからだ。
何度でも繰り返そう。他人の視線を意識してモノを書く行為は、すべからく病気である。その病気の行きつく先は自殺か、僕のようにじっと部屋に引きこもり、自らの妄想で自分を傷つけ、快楽を得るより他になくなってしまうのだ。
だからもし、この手記を読んでいる諸君が、今もなお小説を書いて生きていきたいと願うなら、やるべき事はただ一つだけである。
評価という名の軛を断ち切り、成功してる(ように見える)人間の、考え、推奨、ノウハウ等をすべて捨て、自分の心のままに本気で書くこと。
もしその作品が貴方自身の心を打つことが出来れば、きっと貴方のような人間の心も、同じように打つことが出来るはずだ。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!