もし諸君に、他人の意識など気にしないという強い信念があり、そういう風に自分を変えるための時間の余裕があったとしても、一度この快楽を覚えてしまったら、もうそこから変化を望むことなどありえないだろう。
なぜなら、この快感を知ってしまった時点で、つまり、最高のタイミングですべてをぶち壊し、他人から嘲笑を受ける喜びを知ってしまった時点で、絶対に作家になどなれないことに気づいてしまうからである。
「意識とは何だ? さっぱりわかりやしない」という諸君のために、ここは一つ意識の話を、貴方がたの大好きな【評価】に絞って考えて見ることにしよう。評価とは、君たちが心の底から渇望してやまないあの☆や、♡や、応援コメントの事である。
評価というものは意識の一側面に過ぎず、更に言うなら、本当に素晴らしいものを書いておきながら、他人からはまったく相手にされないことにこそ、物書きの真の愉悦はあるのだが、その話は、今は脇に置いておくとしよう。
「他人からの評価など気にしない」
諸君らがどんなにそう嘯いてみたところで、諸君らの本心は誰かに褒められたくて仕方ない。相手がどんなボンクラであろうと――実際は人間ですらなく、ボットであるかもしれない訳だが――一つでも多くの、☆や♡が欲しくて仕方がないのだ。
たまにコメントでも付こうものなら、「コイツは、私のやりたいことなどちっとも分かってやしない」などと嘲りながらも、慢心の笑みである。レビューなど書かれた日には、もう天にも昇る気持ちだ。そして、つい先ほどまでの自分の信念などかなぐり捨て、もし自分の作品に関心を示したのでなければ歯牙にもかけぬボンクラ相手に、阿諛追従を繰り返すのである。
これはもう「読者を喜ばせるため書く」どころの話ではない。単なる奴隷だ。それほどまでに評価というものは、人の頭をおかしくする。僕は何度だって繰り返すが、他人がどう考えるかを意識しながら物を書くことは、それ自体が病気なのだ。
諸君らは他人からの評価がなければ、一文字だって書くことが出来ない病人だ。それは即ち、「本物の作家になることなど出来ない」という事と同義なのだが、諸君らはまだその事実に気づいていない。そしていつしか書くことを止めてしまう訳だが、他人からの評価が貰えないために筆を折ってしまう人間は、実はまだマトモである。
たとえば強烈な自意識の結果として、こんな人間だって生まれ得よう。他人の評価がなければ書くことが出来ない、あるいは出来たとしても、大したものにならない事が分かっている人間は、ある日突然、他人の作品を批評しだすのだ。
正確にいえば、それは批評という名の【悪態】である。
誤解を招かないように言うのだが、彼らのこの行動は【嫉妬】から来るものではない。もしそれが嫉妬から来るのであれば、彼らは作家にはなれないにせよ、マトモな人間に戻れるはずだ。しかし最初に述べたように、強烈な意識(≒他人からの評価)に捕らわれた人間は既に病気であり、「この病気を治すくらいなら、死んだ方がマシだ」と思うほどに、自意識過剰なのである。
では何故、「他人からの評価を受けたい。でも、作品は書けない」という人間は批評(という名の罵詈雑言)を始めるのか?
それは、『自分という存在が世間から黙殺される位なら、他人のアラ捜しをするクズとして、衆人の嘲笑や憎悪の対象にされた方がいくらかマシだ』と考えるからである。
彼らはいつも、必死になって世間で話題になっている作品を探す。そして、叩けそうな場所を見つけ、思いつく限りの卑語をもって罵倒する。当然その批判は的外れなのだが、もしその攻撃の対象が心の弱い作家なら、そんな彼らの下らぬ言葉だけでも簡単に筆を折ってしまうだろう。
勿論、書いてる本人も、自分の批評が取るに足らぬものであることは承知している。それでも彼らは、悪口を書くのを絶対に止めない。その意気込みを創作に向ければ、僕のような拗ね者の評価位は貰えそうなものだが、彼らは決してそうは考えないのだ。
さて、これは彼らをフォローするのではなく事実なので言うのだが、彼らとて、自分が愚かな行為をしていることは分かっている。生きているだけで周りの人々に迷惑をかけ、この世から消えた方が遥かにマシな存在であることは、ちゃんと自覚しているのだ。でなければ自分を苛めないし、後悔することも出来ない。
では、まっとうな人間と、僕のような病人がどこで分けられるのか? それは、病人はその反省や後悔や良心の呵責ですら、己の快楽のために行うという事である。的外れな批判を繰り返し、才能ある若い作家を潰したクズという汚名を受ければ受けるほど、僕らの苦しみは増してゆくのだ。そしてそれが、いつしか一種の呪わしい汚辱に満ちた甘い蜜に変わり、僕らに快感を持たらすのである。
これはすべて、強烈な意識(≒ここでは評価を望む心)に含まれている根本原則と、その原則から生ずる効果によって説明できる彼らの行動原理である。したがってこの場合、彼らがマトモに戻るなどということは到底あり得ず、仮に名誉棄損の訴訟など持ち出したところで、彼らの快楽がより深く増すだけだから、もうてんで手も足も出ないのだ。
しかし、もうたくさんだ。散々しゃべり散らしはしたものの、いったい何を説明出来たというのだ? 僕のいう快感は、どう説明されたのだ? 人が幸福を求める事を許容された生き物であるのならば、彼らがそうすることだって、同じように許されるべきだろう。いくらなんでも、『評価に取りつかれた人間には生きる資格すらない』というのは、言い過ぎじゃないのか?
ああしかし、最大多数の最大幸福こそが善であり、社会の目指すべき道だというのなら、僕らみたいな存在は当然消えてしかるべきなのだ!
いや、僕は説明してみせる。たとえ僕らが消えるべき存在だとしても『真実』に気づいてない奴らよりは遥かに賢く、また優秀な人間であるはずだ。そのことを、僕は証明せずにはおれない。
僕が筆をとったのも、つまりはそのためではないか!!
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