徒然なるままに~長崎の晩餐

臨終に向かう長崎の在り方を食に求めここに残す
鶴崎 和明
鶴崎 和明

第九段 バーの琥珀

公開日時: 2020年10月28日(水) 04:25
文字数:1,516

 長崎で飲み屋街といえば思案橋しあんばし方面であるが、旧東浜町ひがしはまのまち界隈かいわいもまた面白い店が多い。その中の一つが「ソムパテ」であり、こちらでは洋酒に合わせてスイーツが楽しめるカジュアルなバーとなっている。本来であればこちらを紹介するのは店の趣旨として菓子などに合わせるべきなのであろうが、私の中ではあくまでも洋酒をたしなむ場として存在しているため、バーとなっている。ただ、若いマスターが供するスイーツはいずれも小洒落こじゃれ逸品いっぴんであり、定番の赤砂糖のクリームブリュレを筆頭に、季節に合わせて揃えられている。

 その中でシャンティ・ガフをやりながらミックスナッツを摘む私は異端もいいところである。ただ、こちらのシャンティ・ガフは比率もあってりんとしたたたずまいをしている。それが店に流れる端正な薫りと相まって私を魅了して止まないのである。それに、甘味を頂く際にはスパークリングワインでやることが多い。舌の上で幻想の世をうつつとするのを祝すのである。ゆえに、ボトルが一本空く。ゆえに、普段はシャンティ・ガフで余韻よいんを味わうのに止めるのである。


世を捨てる 甘さや今日も 酒をむ 酔えば良いよい 帰りは怖い


 店の戸を開けると、急な下り階段が並ぶ。そこでうつつに戻らねば三途さんずの川という別の幻想を目にすることになる。至れり尽くせりと言えよう。

 こうした新鋭でありながらも門戸もんこを広げる店がある一方、昔ながらのバーもまた確とある。鍛冶屋かじや町は崇福寺通そうふくじどおりにあるセラー・ランプライターはそうしたバーの一つであり、私が最も入れ込んだ店の一つである。闇に溶け込むシックな店構えは無言で人の心に語り掛け、赤寺あかでらを前に粛然しゅくぜんと控えている。しかし、中に入れば一面のコースターの群れと琥珀こはくの世界が広がり、男は穏やかに揺られる。

 私が初めて訪ねた際は、老齢のマスターと細君さいくん、それにご子息しそくの三人で切り盛りされていた。緊張してその戸を開き、カウンターに座ってもなお汗のにじむ手を握りしめた小僧はやがて一杯のカクテルを頼む。磨かれたシェイカーが中空を舞う。そのあでに息を呑む。永い一瞬が終わり、グラスに翡翠ひすいが満ちる。

 ギムレットはバーによって千変万化するが、私にとってのギムレットはこの一杯である。古式こしきゆかしくライムジュースを用いたその味は、フレッシュライムを用いた今の主流のそれよりも甘い。ただ、その甘美かんび耽美たんびとなり、細君さいくんの気の置けない語り口がララバイとなってうつつの世に別れを告げる。乾き物の小袋を一つ空けて摘まみ、まだ早いという戯言ざれごとを心でつぶやけば、憂さはいつの間にやらよいに消えた。時にのぞかせるマスターの笑みと、控えめながら豊かなご子息しそくの合いの手は見事であった。そして、長崎くんちの頃にきょうされた石榴膾ざくろなますがそうした記憶に精彩を加える。

 ただ、それを今目にすることはできない。私が長崎をつ前の夏に細君さいくん鬼籍きせきに入られ、それから一年半ほどしてマスターもあちらで店を開かれた。細君さいくん亡き後、気丈にもカウンタに出られていたマスターであったが、語らぬかげがその寂寥せきりょうを示していた。だからこそ、長崎を発つ前に心配をしていたものであるが、帰省のおりに話を伺い、私は手を合わせた。

 それからの私は長崎に戻る機会も減ったのであるが、おりを見てはこちらへと伺っている。今はご子息しそくが「マスター」として立ち、店を切り盛りされている。今のマスターの落ち着いた語り口は、先代ご夫妻の在り方とは少し異なるものであるが、琥珀こはくに彩られた空間を安らぎの場にするという点では変わりない。常にきょうされるギムレットこそフレッシュのものに変わったが、古式こしきのギムレットも頼むことができる。そして、そのシェイカーをふるわれるとき、先代の笑みがカウンターの前に浮かんだように見えた。


 夜の果てに 琥珀こはくの夢を 人は見る 翡翠ひすいはいの つなぐ浮橋

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