まずい。これは本格的にまずい、本物のまずさだ、そう判断せざるを得ない。先ほどの『演習』では空包を用いるはずだった。だが今のは、どう見たってトビアス――課長が実包で撃たれたのだ。監視塔から落ちる姿も見たし、トビアスを銃撃した若い兵士がその銃で自害を試みたのも疑いようもない。これは――まずい。ああ、まずいったらないよ。
米軍はロシア連邦軍として『演習』に参加していた。あの若い兵士は、ペレストロイカを推進した書記長当時のゴルバチョフへの造反であろう、反ロシアの名のもと課長を銃撃し、また自害したのだ。
あたりの騒擾は急激は昏迷へと急変した。開けた場所である。遮蔽物も何もない。それは解放軍側も同じで、射線に入ればお互いがお互いを殺し合えるのだ。米軍、解放軍双方、空包の突撃銃から実包を装填した護身用の拳銃へと武器を持ち換え、警戒しつつにらみ合いとなった。大部分の兵士を膠着状態で足止めをし、一部の兵士がトビアスの救護に向かった。
監視塔に近づくと、解放軍の兵士も拳銃を手に自害した味方の救護に向かっていた。米軍、解放軍双方ともに敵対の意思はないと口々にまくしたてながら、若い解放軍兵士、トビアスを回収し、そのまま一〇メートル以上、拳銃の実際的な射程距離から離脱するまで銃口を向け合ったまま移動した。
「いいか、撃つな。だれも撃つな!」係長も声を張り上げて情況を鎮圧化しようと試みる。襟首をつかまれてこちらまで引きずってこられたトビアスは、苦痛で顔が真っ赤になっていた。
解放軍の射程から味方の人員はすべて離脱した。
「トビアス! くそ、なんてこった。本当に撃つ馬鹿がいたとはな。おい、トビアス。こっちを見ろ。左肩を撃たれているが、見たところ貫通している。出血も少ないから、まず死ぬことはないだろう」
「はは、災難だよ、シフ。あと三センチ右にずれてたらベストで防げたのに。ああ、くそ! 痛い! ――監視塔で若い兵士が自害したようだが、生死は不明、あとは解放軍に任せよう。ああ、声が響く」
拳銃で武装した米軍兵士に取り囲まれ、チヌークはローターの回転をあげる。全兵員と小田親子、トビアスと課長が乗り込み、素早く点呼しヘリは離陸する。
「トビアス、病院に着くまでの応急処置をします。出血は少ないですが、骨をやられている可能性があります。絶対に動かないで。痛むようならモルヒネを打ちますが、どうします?」救護班の兵士が大声で叫ぶ。
「いや、モルヒネはいい。覚醒レベルを保ちたい。向井さん、驚かせてすまなかった。実は君の被弾は織り込み済みで、しかもリアリティを追求したくて——」
わたしは赤面する。
「ばっ、そっ、そんな、馬鹿なこといわないで下さい! わたし、漏らしそうだったんですよ――これでもしPTSDにでもなったら、訴えますからね」
「ははっ、やはり僕の見込んだ逸材だ。入庁時の君は本来、希望の省庁じゃなくて――人物本位で採用する公安庁にいるはず、だったところを山Pが、あれ、僕だっけ――その、僕が、僕が押し切って言向司に、ああ――うん、引っ張って、ああ、う――」
「あ、あの、ちょっと、課長? ねえ、ねえあなた、課長はどうなったんです? 課長、課長! ちょっと、ねえ!」
「もう、揺すらないで! 単純に失神したようです。血圧も十分にありますから、今のところは大丈夫。もうすぐ病院に到着の予定です。問題ないですよ、なんてったってトビアスですから」
当初、被弾した麻帆子と小田聡一親子、それから同じく弾丸を身体に受けた兵士らを救急病院へ降ろす手はずだったが、実際に降ろしたのは負傷したトビアスと付き添いの衛生兵だけだった。残りすべての人員は、西日に目を細めながらそのままバサに帰投した。
これでキティ・シェリー作戦は完了となった。
あとから聞いた話だ。
帰国した小田聡一は旭日大綬章、文化勲章の二章を同時に受勲するとの声明文を日本政府に提出した。叙勲は国事行為である。旭日大綬章、文化勲章を小田が受勲することで、日本政府は香港の民主化デモへ肩入れせざるを得なくなった。他国の内情、施策に対して、反対運動を起こしている邦人へ国として勲章を授与するのだ。――中国政府、香港治安当局からの反発は必至だが、小田はより強いバックを得たかったのだろう。収容所ではせいぜい死ぬことぐらいしかニュースは作れないが、叙勲を受けることで、日本政府を後に退けない領域まで引きずりこめる。これは、叙勲は、小田聡一が最後まで残していた切り札だった。
空包のみとしていた『演習』で、人民解放軍が誤って実包を用いた件について、アメリカ軍とロシア連邦軍は秘密裏に結託して罠に陥れた。かたや解放軍は資本主義的な性格の強い言向司の術中に落ち、中露の演習と信じ込んでいたというが、それもどこまで信用すべきか、わたしには計り知れない。
あれも思うに、日米中露もそれぞれの利潤――日本は小田聡一と香港の民主化を中国から勝ち得、アメリカは日本へ恩を売り、ロシアは中国への発言権を、それぞれ得ることになったのだろう。
しかし、中国はこのたびの『演習』で得るものは限定的だ。すなわち、資本主義的な国際社会に取り入ろうとする者たちの、運動のきっかけづくりとなる。この先を見据え、中国共産党から離反する者も出てくるであろう。その離反の際、風当たりや抵抗運動を弱める働きが、日米露によって行われる――その嚆矢となる『演習』であったのだ。かれら未来の造反組にも、強い権力を掌握している者がいた。一連の『演習』を失敗へと導いたことで、造反組の権力者はいとも簡単に中国共産党、人民解放軍内部に示威行動として見せつけられたのだ。
現在、米露は人民解放軍が実包を用いた事故に対し、その隠蔽を匂わせる交渉を進めているという。なにせ時任は実際に撃たれ、その銃創があるのだ。銃撃した若い解放軍兵士が現在、喋れる容態なのか定かではないが、今後何を話そうと、言向司の権力の前には塵のようなものだ。なにもかもでっち上げ、幻のような作戦だった。
麻帆子さんとわたしの連絡は、前ほど密ではなくなった。かの女もロースクールの山のような課題で多忙を極め、猫カフェのアルバイトも帰国して間もなく辞めたと老店長に聞いた。
榊係長はICPOのシンガポール総局へ戻ったと聞く。今ごろパソコンの前に弁当を広げているだろう。
一〇年計画で解体を進められていた企画調査課は、帰国して初登庁の時、すでにオフィスはもぬけの殻だった。言向司はまたどこかの省庁へ再編されたか、でも今のご時世なら民間に移管されているかもしれない。その長であった時任は今、どうしているのか皆目分からない。怪我が治ったのち、国内のほかの諜報機関に席を得たとか、多数の超法規的措置によって受けた減俸に嫌気が差し、どこか島国で舟遊びをしているとか、様々なうわさを耳にしたが、どれも本当のようでも、しかしどれも嘘のようでもあった。
わたしは公務員を辞めた。
簡単にいうと、キティ・シェリー作戦の危険手当が法外な額で、海外へ漂泊に出たり何年か寺に籠ったりすることも可能になったのだ。箝口令としても桁違いだったのだ。わたしは言向司の存在も活動も、何もかもを生涯にわたって黙っていようとすんなり決められた。
閉店間際、店のドアが開けられる。
「いらっしゃいませ」わたしは来店客に笑顔で応じる。「でも、きょうはちょっと黙っていようかな」
「――先、輩」陰鬱な表情。
「三〇分、ホットミルク?」
こくりとうなずいて、麻帆子は手を洗う。「そんなにやつれて見えます?」
「まあね。でもいいのよ。そういうひとのためにお店、引き継いだんだから」
手を洗い終えた麻帆子は慣れた様子で猫をかわしつつ、脱力してソファに同化した。
「せんぱあい、なんか、わたし疲れちゃって――」問わず語りに話す麻帆子に相槌を打つ。
「でも、それはわたしには解決できっこないよ、絶対」できるだけ音を立てずにカップを置く。麻帆子は疑念のこもった眼差しを床に投げる。
「だって、麻帆ちゃんの苦労、それも大きくて重いやつ。それが一発で解決されちゃ、むしろおかしいでしょ」
「まあ――そう、ですね」麻帆子は目を閉じる。
「だから、ここでは誰にも遠慮しないで振る舞っていいと思うよ、猫みたいにね。わたしはそう思う。では、ごゆっくり」
レジに戻ると、静かにすすり泣く声が聞こえた。引退した店長の手をちょっと借りたくなったが、それは必要ない、とただちに否定する。だって、猫の手は借り放題なのだから。
もう三〇分ちょっとで閉店だな。そう思っていると店のドアが開けられる。
「あ、いらっしゃ――ふふ。お久しぶり、本当に」
~fin~
あとがき
短くもないこの物語、さいごまでご覧いただきまして本当に感謝です。
ニュースで見てえらくタイムリーなころに書き始め、(おいおいやべえよこの部分……)と政治的にたいへんセンシティブだなぁ、という描写もあります。
果たしてお読みになった方の全てが冗談として笑って済ませられるか判断に迷った節もありますが、そこはみなさまのご寛容さにおすがりしたいと思います。
「で、けっきょくこれ何のお話?」となれば、「言向司」すなわち「荒唐無稽肆」です。
荒唐無稽-肆、荒唐無稽を売るお店。いや別におかねは取ったりしませんけどね。もし「このハチャメチャがすごい!」とかいうアワードがあったらノミネート……したらいいなあ。
さて――ほんの短い期間、向井しのぶに主人公になっていただきました。
かの女のリアクションを見てもあまり変化がないんです。
山本課長だろうと榊係長だろうとリー三等軍曹だろうとけらけら男だろうと。リアクション的には「いつもの不思議ちゃん」といえるのでは、と。
それだけ状況に即応してるんです。すごい。
と、いうわけで、また猫カフェで会いましょう。作者、猫アレルギーですけどね。んちゃ!
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