猫カフェ大好き公務員女子、異動先は諜報組織!?

さよなら、すべての荒唐無稽な小説よ。
煙突
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企画調査課(榊係長はホントはええ奴なんや……)

公開日時: 2021年9月12日(日) 07:14
文字数:2,493

 どうしたものか。とりあえず辞令通り着任の事実がないと、いつまでたっても帰れない。

「ふん」

 不安を鼻息で吹きとばす。


「企画調査課――企画調査課――」

 そういえばネームプレートも賞勲局のままだ。異動直後だし、これはこれで見分けがつきやすいのかもしれない――あった。企画調査課のプレートが、学校教室のそれと同じように掲げられている。

「――すみません」がやがやとやかましい課内へ入る。わたしは入り口で姿勢を正す。


「お忙しいところ失礼します。向井しのぶ、本日付で賞勲局より企画調査課へ着任いたしました。よろしくお願いします」

 十度の敬礼。一呼間おいて、頭を上げる。

 

 ――だれも見ていない。パソコンをがたがたと打つ者、紙を吐き出し続けるコピー機、ひっきりなしに鳴る電話とその対応。

 声が小さかったのか。いや、忙しすぎたのか。それか――無視されたのか。

「あ、あの――」

「でかい声出すなよ、ねえちゃん」パソコンのモニターから目も離さず男性職員がいう。

『ねえちゃん』だと? この時点ですでにセクハラ案件である。しかしそこは武士の情け、わたしは背中に旗竿を入れる。


「本日着任の向井です。以後お世話になります。係長のデスクはどちらでしょうか」とよどみなくいう。

 男性職員はちら、と眼鏡越しに見上げ、「ここで合ってるよ、ねえちゃん」とにらんだ。いま見えたネームプレートでは、榊とあった。


 なるほどね。

 職員綱紀粛正、マナー講習、ハラスメント講習、その他再教育一式が必要かもしれないな。いや、そうであろう、そうに違いない。

 わたしが榊という者のグラデーションのかかったつむじを眺めていると、榊は「これ」と足元の書類箱を顎で示された。「今日中に読んで。帰るまでに覚えて」


「これは――」

 中を少し見てみた。雑然と詰め込まれたとしか思えない、紙束がどっさりとある。

「今現在と、過去五年間の叙勲辞退の希望者、そのリストと詳細」係長はやや口を開いたまま入力を続ける。「全部、紙ベースですか?」

 榊は眼鏡を外し、目薬を差しつつ話す。

「ああ――電子化は情報漏洩の基礎疾患。ちなみに、ここのLANは端末同士とコピー機だけで完結している。もちろんWi-Fiも飛んでないから、スマホも使えない」

「は、はい、了解です。ただ、係長。ここに来るまでの間、時任――さんより、小田聡一の案件で説明を受けております。それはどのように対処しましょう」


 係長はこれまでの動作すべてを瞬時に止め、椅子をくるりと回してわたしの方へ向き直る。

「それ、君の力でどうにかできる案件なの?」

 わたしは絶句する。

「ああ、もう。課長も変なのばっかり回して来ないでほしいんだがなあ。とにかく、うちの分掌の案件、あらましを理解してね。そうしたら自然に仕事もできるようになるから。卒後二年だか三年だか知らんが、少しでも早く使えるようにならないとこっちも困る。必要なサポートはするから。期待してるよ、向井さんよ」と係長は意外にもまっとうなことをいった。


 昼だ。

「向井」

「はい、榊係長」

「『係長』だけでいい。名前は省け」

「あ、はい。なにか不都合でも?」

「――カ行の連続」

「はい?」

「向井、おまえ舌っ足らずだろ。カキクケコがちゃんといえてないぞ。まあ、その、飯でも食ってこいよ。二時だ」 

 見れば係長はコンビニ弁当をデスクで食べていた。右手はマウスと割り箸、左手は資料とキーボードといった具合だ。

 たしかに外へ食べに出たいが、足元の段ボール箱を見やる。係長に与えられた資料の読み込みはややスローペースだ。榊係長に許可を取って書類箱やバインダーで整頓し直している自分の判断も仇となっている。仕方ない。仕方ないのでバッグからサンドイッチとぬるいカフェオレとを取り出し、資料の横に置く。読み込みながら食べる。



 夜。

 部署内で残ったのは私と榊係長だけとなった。「係長」

「なんだ?」

「その、時任さんが企画調査課の課長にあたるんですよね。時任課長に着任後のことは係長に訊けとうかがっています」

「だからまずその案件をすべて読ん――」


「種田和美、大学教授、副学長。七十三歳。文化勲章を辞退希望。理由として、遺伝子工学は発展途上であり叙勲は相応しくない、と。現在当課は文化庁を通じ、所属する研究室へ大きく予算を計上、再来年の秋の叙勲まで多剤耐性のスーパー雑草、これの除去法確立を目指しています」


「――椎野由美」


「椎野由美、六十九歳。瑞宝単光章を辞退希望。自治医大を卒業後、指定病院に九年間勤務。学費の免除が適用されたのちも、その病院で地域医療に携わる。のちに限界集落を周回して訪問医療を行うなどするも、パーキンソン病を発症し引退。辞退理由として、注射も打てないのに勲章をもらったってしょうがない、です。今現在、総務省と連携し、叙勲すればさらに僻地に特化した入試枠を自治医大に設ける、という条件を提示し、交渉中です」


 榊係長はやや押し黙り「それ、ぜんぶ覚えたの?」と尋ねた。

「そういう指示でしたので」

「一〇〇件以上あったんだぜ?」

「一一五件でした」

 榊はまたも黙り込み、「暗記力だけじゃやってけないよ、この仕事は」と腕を組んだ。

「はい。少しでも早く戦力になれるよう努力します」

 榊は脂の浮いた眼鏡を拭きながら「じゃあ、香港にいる小田の案件も目を通したんだな」とにらむ。


「娘を人質に取る案件ですね」

「向井、おまえな、おまえさらっというけどな、最初から最後まで非公開のものなんだぞ、この仕事は」

「はい」

「いや、はい、って――向井、あんた、やばい部署にいるって自覚あんの? 思想にしろ、やり方にしろ、うちは一番とんがってるからな」

「はい、説得がどうしても困難な場合は推薦自体、無効とすることも理解しました」

「――なんか調子狂うな。七時だ、もう上がっていいぞ。おれは少し雑用してから帰る」

「あ、はい。お疲れさまでした。明日もよろしくお願いします」


 たしかに一一五件、なにがなんでも叙勲させようとする気概があった。そういう職場なのだから、仕方ないだろう。だが、辞退希望への対処法はどれもおおむね理に適っており、別段荒っぽいことや、無茶苦茶なことはなかった。

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