朝もいつも通りに一時間早くホテルに出勤し近所の清掃をした和夫だった。その後、浴室などに湯を供給するボイラーがあり、温泉の湯を貯めておくタンクがある場所にゴミや落ち葉などが散乱していたので纏めてゴミ袋に入れて掃除していた。その作業が終わりに近付いた時に後ろから女性の怒鳴り声が聞こえた。
「そんな所で何をしているの!?」と。
朝食のスタンバイもあったので早く終わらせなくてはいけないと思っていた和夫は振り向かずに「掃除しています!」と叫んだ。
「そんなの清掃業者にやらせなさい!」と言われたが「清掃業者なんか居たって居ないようなものだから私がやっているんですよ!」と叫んだ。
「私の言っている事が分からないの?」
和夫は(また、清掃業者の女社長のような文句を言う女だと思い)相手にせずに慌てて掃除していた。女がこちらに歩いて来るのが分かってはいたが、和夫は早く終わらせたかったので相手にせずに一所懸命に掃除をしていた。
その女は和夫の直ぐ後ろで「止めなさい! って言っているのが聞こえないの!?」と言われたので和夫は頭に来て「だったら! お前が率先してやれよ!」と言って箒をその場に投げ捨てた。
女は「その態度はなによ!?」と叫んだ。和夫は鬼の形相で後ろに振り返ると、そこには大久保愛美(おおくぼまなみ)が立っていた。
「依田さん、どうしてここで?」と愛美。
「大久保さんもどうしてここに?」と和夫。
「すみませんでした。恩人の依田さんが掃除をして下さっていたのにあのような生意気な言い方をして」
和夫は頭に来ていたので「本当に生意気でしたよ!」と言った。
「すみません、本当にすみません」と言って謝罪した。
「ここが大久保さんのお父上が経営していると言っていたのがこの会社だったのですね?」
「はい」
「大久保さんの結婚式が終わってお二人が三ヶ月に上る新婚旅行に行かれた後に、帝丸ホテルの総料理長の村下からこの会社に転職するように命令されたものですから」と言った。
「そうだったのですね。うちの父が帝丸ホテルの総料理長さんに無理を言ったと聞いています。その人が依田さんだとは知りませんでした」
「あ、すみません、朝食の準備に行かなくてはいけないので」と言い頭を下げてゴミを持とうとすると、数が多くて一人では持てず、それを見ていた愛美が「一緒に持って行きます」と言ってゴミ集積所まで行った。
*
朝のスタンバイ時のマヨネーズ事件勃発。
今日は外の掃除で愛美と遭遇して話しをした事でレストランに遅れて入った。既に富田と山下と大崎がスタンバイをしていた。皆に和夫は大きな声で一度に「おはようございます!」と言って挨拶しカウンターのスタンバイをした。
そこに大崎が来て「参りましたよ」と言った。
和夫は「どうされました?」と。
大崎はカウンターの中の棚の中からマヨネーズが入った器を出し「これ見て下さいよ」と言った。
「マヨネーズがどうしたのですか?」と和夫が言うと、大崎は器に入ったまヨネーズを割り箸で掻き回すと髪の毛が丸まって出て来た。
「それはどうされたのですか?」と和夫。
「『山下さんが言うには、富田さんが山下さんに対しての嫌がらせでやった』と主張するので富田さんに訊くと、『そんな下らない事、私がする訳ないじゃないですか、それこそ山下さんがやって私にそれを擦り付けているんじゃないですか?』と言われたんです」と大崎。
和夫のホテル勤務人生で起こった事のない事象なのでどうしたら良いか考えていて大崎に「とりあえず、この件は朝食が終わってから考える事にして、やっつけちゃいましょう」と言い、カウンターの棚に隠すと社長が見付けたら面倒なのでその下の床と棚の間の奥にサランラップをして隠した。
*
和夫が料理長を窘めた事について。
その後、今日は社長と副社長の代わりに愛美が出て来た。社長の正和が目に入れても痛くない程の可愛い一人娘の愛美と一緒の仕事だったので、朝食の最後まで社長は残っていた。
和夫は社長が帰った後にカウンターの片付けをしていると、愛美が「依田さん、お疲れ様でした。社長から聞いたのですが今度、建設する最高級ホテルの料理長としてご就職されたとか、でも社長がこのホテルのゼネラルマネージャーでと言ったのに平の社員でと言われたって言っていましたけど?」と言いカウンターの中に入って来た。
和夫は細かい話しは面倒なので適当に「はい、ホテルができるまでは平で良いと思ったもので」と言った。
愛美が和夫に馴れ馴れしく話している姿を山下と富田と大崎そして料理人たちが「何で? この人たち知り合いなの?」という顔で見ていた。
和夫は見られていることに気付いたので「大久保さん、カウンターの片付けが済んでいないので」と言い、ディスペンサーを洗い場に持って行った。
洗い場に行くとスーシェフの神田が出てきて「依田さん、専務と知り合いなんですか?」と訊かれた。
「いいえ今朝、掃除をしていた時に初めて会いました」と言うと、神田は「朝に会っただけなんですね」と言ったので「はい」と答えた。それを調理場の皆に伝えていた。ここは人の事が良く気になる人たちが集まっていると思い、田舎だから仕方ないのかもと和夫は思った。
和夫がカウンターに戻ると愛美は事務所に行った。事務所で愛美にパートのフロント女性スタッフの蓑田が和夫の話しをした。
「愛美さん、知っていますか? 依田さんは入社したその日に料理長とぶつかったんですよ」と蓑田が言った。
「えぇっ? そうだったの、で、どうなったの?」と愛美。
「依田さんはパートの富田さんが一人苛めをされていて見てられなくなって料理長を窘めたみたいで、そしたら料理長は家に帰っちゃったんです」と蓑田。
「それで?」と愛美。
「副支配人の品川さんが依田さんに『俺もこの前料理長と喧嘩したんだ』って自慢したんですけど、依田さんが『副支配人は料理長が居るからって賄いを取りにも来なくなって外に食べに行っているそうじゃないですか。そんなの負けを認めているようなもので、男だったら次の日も今まで以上に笑顔で普通通りにやってなくてはダメですよ』と言ったみたいで、品川さんは次の日から賄いを取りに行きましたよ」と蓑田は言った。
「依田さんは良い事をした訳よね」と愛美。
「はい、私たちもそう思ったのですが、依田さんが料理長を窘めた事を次の日に品川さんから副社長に報告して、その後社長に話しが行って社長から依田さんは「レストランの中で波風を立てたから」と言われ難題を突き付けられたので今、ホテルの掃除をしているのです」と蓑田が言った。
「それはおかしな話しよね」と愛美。
「私も他のスタッフも皆、そう思っていますよ」と蓑田。
*
マヨネーズ事件を副支配人の品川に相談、報告。
大崎が和夫のカウンターに来て「例のマヨネーズはどうしましょうか?」と訊いた。
「レストランの事件は本来なら料理長に話すのが筋だけど、山下さんは毎朝、料理長に付け届けをしている訳で、富田さんは私が料理長を窘める前までは苛めのターゲットにされていた訳で、この件を最初に聞いた人が、大崎さんで富田さんが苛めに遭う前までは大崎さんが苛められていたので、この件をストレートに料理長に話しても邪念が入って解決には至らないと思うので、ここは一丁、副支配人の品川さんに下駄を預けるのが一番良い方策だと思うけど、どう思う?」と和夫は大崎に訊いた。
「そうですね、そうしましょう」と大崎が言った。
「副支配人が出勤して来たら大崎さんがこれを持って見せて報告して相談してよ。その時に先程、私が話した料理長の件も一緒に添えて相談してみては如何ですか?」と和夫。
「そうします。副支配人は料理長の事も分かっていますから」と大崎。
「じゃぁ、そういう事で賄いを頂きましょうかね?」と和夫は言った。
和夫は大崎と同じテーブルで賄いを食べていると、大崎が「私もレストランの清掃をお手伝いしますよ」と言った。
「有難い言葉だけど、気にしないでゆっくり休んでよ。これは私と社長の問題だからさ」と和夫。
「えぇ~! それってどういう事ですか?」と大崎。
「上は皆、知っている事だしその内、皆の耳に入る事だから話すけど、私が入社した初日に料理長が朝も夕食前も富田さんの事を苛めたのを覚えていますでしょ?」と和夫。
「はい」
「で、富田さんの化粧の事だったですよね?」と和夫。
「はい」
「富田さんのお化粧は清楚で私から見ても美しかったですよね?」と和夫。
「はい、富田さんは色白で美人さんですから、薄化粧が良く似合いますからね」と大崎。
「そうですよね。私もそう思っていたんですよ。ところが料理長は、何が気に入らないんだか知らないですけど、その化粧の事で感情的に怒鳴ったじゃないですか。それも皆の見ている前でね。私は怒りで震えたんですよ。だから料理長に対して入ったばかりで生意気だけど見ていられなくなって窘めました」と和夫。
「はい、本当は立場を考えると私がしなくてはいけなかった事ですが、私も彼女の前に苛められていたので怖くてできなかったのです」と大崎。
「それは仕方ないよ。で、その事が副支配人から副社長へ、そして社長に話が行って、明くる朝に副社長から社長が私に話があると言って、レストランの中で波風を立てた事に対して社長が罰を与えるのはおかしいから君が自分で考えた罰を課してもらいたいって言われたから、掃除が行き届いてないホテルだったので、掃除をしようと思ってやっているんですよ」と和夫が言った。
「そういう事だったんですね。だったら社長は原因を作った料理長にも同じことを課さないとダメですよね。そう思いませんか?」と大崎が言った。
「そこは私が社長ではないから分からないけど、普通に考えたら大崎さんが言ったことが正解だと思うけどね。だからあんな訳の分からない料理長の苛めが長年、確かこのホテルが開業してからずっと直らなかったんだと思うんですよ」と和夫。
「料理長の苛めは本当に辛かったですよ。食べ物でやるんですよ」と大崎。
「どんな事をされたのですか?」
「賄いの時に私だけ食べさせないのです」
「料理人はどんな時も食べ物を利用したらダメなんですよ。誰人にも平等に食べさせなくては料理人とは言えないし、料理人失格ですね。その時は辛かったですよね?」と和夫が言うと大崎は涙した。
和夫は今後も、もし同じことを料理長がしたら絶対に許さないと決意した。
*
中抜け休憩時の清掃と寮のベランダの屋根付け作業。
相変わらず和夫はレストランのガラス窓の清掃をやっていた。それが終わると一回ホームセンターに行き、社員寮のベランダの屋根作りで足りない部材を購入した後に寮に帰ってからまた屋根付け作業をやった。
和夫は東京に居た時に友人宅のデッキが雨水で腐食して壊れたのを直してあげた事があり、DIYが趣味の一つでもあった。
プロの大工が見たら笑われるぐらいのレベルだが、作ることが好きなので止められないでいて、これもストレス解消の一環だった。
今日も中抜け休憩が終わる暗くなるまで頑張って作った。
隣の奥様が、「凄いじゃない!」と褒めてくれて、和夫は嬉しくなっていた。
*
夕食スタート。
今日は女子高生が居たので既に夕食のスタンバイが済んでいた。和夫は女子高生の所に行き「今日もスタンバイありがとうね!」と言った。この頃になると女子高生も和夫がお礼を言う事に慣れて言われるとニコニコして「どういたしまして!」と親しみを込めて言うようになっていた。
今晩のお客様は三十名だ。半数が外国の客で半数が日本人だ。スタッフは和夫、山形、富田、女子高生、そして愛美だ。大崎は最近、大型自動車免許を取る為に早番をやっていた。英語が堪能の山形と愛美がいるから今日は和夫の出番はないと思っていた。そう言えば、山形は夫もいるのに、何で夕食のパートをやっているんだろうと疑問に思った。あんな立派な家に住みローンも完済しただろうしと、余計な詮索は止めておこうと和夫は思った。
お客様が切れて手が空いた時に、和夫が洗い場に行くと、多部と鈴木がニコニコしていた。
和夫は多部に、「今日も化粧映えしているんじゃないですか? 元が良いから一層美しく見えますよ!」と「そうやって煽てても何も出ないよ!」と多部が言ったので、鈴木に聞こえ、他の人には聞こえない声の大きさで、「下のお口から粘々《ねばねば》のお汁が出ちゃうんじゃないの?」と言うと、「バカ言ってんじゃないわよ!」と言ったので「出ないよね、そんなに若くないもんね!」と言うと「コラァー!」と言い皆で大爆笑した。
鈴木は「依田さんって本当にエッチよね!」と言って笑った。和夫は鈴木にも「こんな話しを聞いていて鈴木さんも下のお口は大丈夫かな? だらしなくお汁を垂れ流してワナワナ開かしているんじゃないの?」と言うと「オバサンをからかうのは止めてよね!」と言いながら笑っていた。和夫はゲスな話をしたと少し反省した。
良太が調理場から出てきて「多部さんと鈴木さんは依田さんが来てくれるのを待っていたんですよ」と言うと、多部と鈴木が「良ちゃん、子供は余計な事を言わないの!」と窘められていた。良太は「はいはい」と言って調理場に帰っていった。一週間前とは全然違う明るい雰囲気になっていた。
そこに愛美が入って来て「皆さん、随分楽しそうじゃない? 私も入れてよ!」と言うと多部と鈴木はシラーッとして持ち場に帰って行った。
愛美は和夫に「私が来たら皆、居なくなっちゃった」と悲しそうに言ったので和夫は「経営者は仕方ないですよ」と言った。
愛美は続けて「依田さん、本当にごめんなさい。うちの社長が余計な事を言って、本当だったら料理長にも同じこと、いやもっと厳しい事を課さなくてはいけないのに、依田さんだけにさせて」と言った。
和夫は(愛美は社長や副社長とは違い、人の機微が分かる頭の良い子だ)と思い、含み笑いを浮かべただけでそれ以上は言わなかった。
*
夕食の賄い。
予約の客が全員帰って片付けが終わったので、山形と和夫と愛美で夕食の賄いを食べた。
「愛美さん、三ヶ月もの新婚旅行は楽しかったですか?」とイヤミにも取れる言葉で山形が訊いた。
「それが主人と喧嘩になって一ヶ月で帰ってきて東京に居たの」と愛美が言った。
「それにしても一ヶ月って流石、お金持ちよね」とまたイヤミっぽく山形が言った。
「パパが全額出してくれたから」と愛美。
山形は呆れた顔をして「そうなのね」と言った。
和夫は二人の会話を聞きながら無言で食べていた。
「依田さんは私と二人だけの時は良くしゃべるのに、今日は何もしゃべらないの?」とワザとらしく言った山形だった。
「えっ、そうでもないでしょ。いつもは山形さんが一人でしゃべっているんじゃないの」と和夫。
「そんな事無いわよ」
「何だか私がお邪魔だったみたいね」と愛美が言った。
「そんな事は無いですよ、気にしないで下さい」と言い続けて「新婚旅行は何処に行かれたのですか?」と和夫が訊いた。
「フランス、イタリア、スペイン、トルコと殆どヨーロッパです」
「外国はカルチャーショックを受けますよね。私も外国語が話せないのに会社から行けって言われて行ったのですが、税関で止められて、三時間以上出れなかった事がありましたから」と和夫が言った。
「そんな事があったの?」と山形。
「はい、で愛美さん、ご主人との喧嘩は仲直りしたのですか?」と和夫。
「それが出来なくて私だけこっちに帰ってきたの」と愛美。
「と、言う事は新婚早々、別居状態という事?」と山形。
「お恥ずかしいですが、そういう事になります」と愛美。
「でもご主人も愛美さんと結婚してから、会社を辞めて、この会社の常務に就任したのでしょ?」と山形。
「別れるまでの話しにはなってないのですが……」と愛美。
「それ以上は私ども社員に話しはしない方が良いですよ。私も山形さんも口が堅いから吹聴はしませんが一応、愛美さんはこの会社の役員なんですから、変な噂が出ると、融資を受けている銀行さんに対しても対外的にも問題になりかねませんから」と和夫が言った。
「いつも依田さんには守ってもらえて感謝しています」と愛美。
「えっ、それって、どういう事?」と山形。
和夫が慌てて「愛美さん、それはどういう事ですか?」と訊いた。
「余計な事を言ってしまったようで、ごめんなさい」と愛美が言った。
愛美は食事途中で席を立った。
「愛美さんを怒らせちゃったのかな?」と山形。
「それは無いでしょ」と言ってその話は終わらせて食事を食べて帰った。
帰宅したら多部から「明日、山下湖の無料駐車場に十一時半でお願いします」とLINEが入った。
和夫はOKスタンプで返信した。
和夫は嬉しかった。
ホテルの初日で、あんなに怖かった多部の巨乳のアラシックスティのオバサンとデートだからだ。
どうなるのかなぁ? と楽しみにしていた和夫だった。
つづく
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