朝の清掃時 御天場タクシーの毎朝出会う運転手との会話。
和夫は毎朝のルーティーンで、ホテル外周、駅舎、自転車置き場、派出所前とお社の掃き掃除をした。その後はホテル外周の蜘蛛の巣を釣り竿を改良した蜘蛛の巣取りを使って取っていた。
タクシー運転手が「おはよう! いつも偉いね」と言って和夫に近づいて来た。
「おはようございます。そんな褒められたもんじゃないですよ。ホテルを綺麗にするのは当たり前の事ですよ」と和夫が言った。
「依田さんが入社してから休み以外は毎日だもんね」
「社長との約束ですから」
「依田さんの顔を見ないと朝が始まらないからさ」
「こんなブ男の眠そうな顔を見てですか?」
「ブ男じゃないし若々しいよ」
「幾つに見えますか?」
「二十歳代は嘘になるけど、三十歳前半でしょ?」
「今年で四十歳ですよ」
「見えないな~!?」
「そうですよね~、脳味噌が足りないからでしょうかね~?」
「お宅のホテルのお客さんを山下湖まで乗せた時に、依田さんの事だと思うんだけど、夕食の時に親切で面白い男性のスタッフさんに良くしてもらったってさ」
「もし私の事だったら元気百倍で、今日も一日絶好調になりますよ」と和夫。
「依田さんはホテルのオバチャンたちにモテルんじゃないの?」
「そんな事無いですよ」
「うちの婆さんも依田さん見て『可愛い』って言っていたから」
「婆さんって?」
「かみさんだよ」
「奥様にヨロシクとお伝えください、今日も一日ご安全にお稼ぎ下さい!」と和夫は言い事務所に帰った。
*
カウンターの朝食のスタンバイ。
掃除を終えて、倉庫に行って牛乳とジュースの箱を台車に載せていると山中が来て「依田さん、おはようございます。先日はすみませんでした」と言った。
「えっ、私に謝っているの?」と和夫。
「はい」
「専務に預けたんだから私に謝るのはおかしいよ。それよりはもう持って帰っちゃダメだからね」
「はい、もう二度としません」
「山中さんの良い所はいつも元気でお客様に接しているところなんだから折角そんな良い所を持っているんだからこれからも頑張ってよ」と言った。
「はい」と返事をして山中は嬉しそうな顔をして倉庫から出て行った。
和夫は六十歳以上のオバサンを激励して何やっているんだろうと思っていた。
愛美が入って来て「おはようございます」と言った。
「おはようございます」と和夫。
「山中さんにも口の上手い事を言って、もしかして狙っているんじゃないの?」と愛美。
「勘弁してくださいよ。私だって選ぶ権利はありますからね」
「と、言う事は山中さんのような熟女はタイプじゃないのですね?」
「ま、そういう事かな」と言って笑った。
「今度の依田さんのお休みに合わせますから逢って下さいね」と愛美。
「はい、承知しました!」と和夫が言った。
愛美は和夫の後ろを付いてレストランに行き、それぞれのスタッフに、「おはようございます!」と言いに行った。
和夫は牛乳とジュースを所定の場所に仕舞って台車を倉庫に持って行き、その後昨夜に作っておいた、カウンターの注意書きをカウンターの所定の場所に置いた。
特に外国のお客様はディスペンサーや電気ポットの使い方が分からなくて、こぼしたり無駄にしたりしていたので和夫は(どうしたもんか)と考えて作ってみた。和夫がカウンターの中にいる時は、その度に説明するので問題はないが忙しくなってカウンターを出てホールを手伝った時に問題が生じていたからだった。意外とインバウンドのお客様も理解して下さり上手く使って頂いた。
ただ、残念な事に和夫が休みの日には社長の正和がカウンターに入った。休み明けにカウンターに入ると、これらが棚の中に置かれていて使ってなかった。社長は自分のやり方を通したかったのだと和夫は思っていた。
*
ライメンズクラブ定例会。
今日の朝食時は問題なく業務は進んだ。朝食の終了時に副支配人の品川が和夫の所に来て「依田さん、急で悪いですが今日の昼のライメンズのランチを一緒にやってもらえないですか? あ、賄いを食べてからで良いですから、それに残業代も出しますから」と言った。
「はい、大丈夫ですよ」と和夫。
「ありがとうございます」
たまにこのようなモーニングとディナーの間の時間に各種団体の会合が入る事があった。
今日の会合に勤務できるパートさんが居ないので急遽、和夫がスタッフに入れられたのだ。和夫の基本の労働時間は朝六時出勤で十時までその後、朝食賄いを食べて、中抜け休憩後十八時~二十二時までが一日の労働時間だった。たまに品川の計らいで疲れるからと早番は無いが遅番にしてくれる事があった。もっとも今までの勤務で一日だけだったが、それでもその優しい気持ちが有難かった。そんな訳で和夫は品川の事が好きだった。
和夫は賄いを急いで食べて品川にセッティング方法を教わってやった。各店でセッティング方法が違うのでこういう事は先輩に素直に教わった方が良い。二十名の洋食のコースでメインが肉料理だけの小さいものだった。
品川の指示で最後のホットコーヒーを淹れディスペンサーに移した。担当のスタッフは品川と愛美と和夫だった。
定刻になって会合は始まった。調理場から出てくる料理の皿は温蔵庫に入っていたので手で持つには熱過ぎた。温蔵庫の温度は恐らく九十度だと思った。
副支配人の品川が「アチーッ!」と言うと料理長が「こんなのも持てないのか?」と怒鳴った。和夫が持ってみても到底、テーブルまで持っていけない熱さだったので洗い場にあったワゴンを持ってきて十人分ずつ載せてサービスした。
品川が和夫の所に来て小さな声で「今までそんな事をしたら料理長は鬼のような顔をして怒鳴られていたのが、依田さんがやると何も言わないのが不思議ですよ」と言った。
和夫「だってあんなの熱くて持てないじゃないですか? たぶん料理長だって持ってお客様にサービスなんかできないですし落としたらそれこそ怒られるでしょ?」と言うと愛美が「依田さんは怖い者なしですね」と言った。
十人にサービスをした後に今度は調理場に顔を出して「シェフ~! あんなに熱い皿なんか持てないですよ~!」と言うと料理長は「すみません! 以後気を付けます」と言った。
またワゴンに載せて十人分をサービスした。ワゴンだと下げるのにも楽だった。重ねて持って行くと多部がニコニコして持って行ってくれた。
和夫は洗い場には高校三年の時に一年間、経験していたのでなるべく同じ大きさや形の物を重ねて渡していたからだった。それの方が洗う人にとってはやりやすいからだ。
*
ライメンズクラブ定例会で社長に副社長が落札したティールームの件の発覚。
和夫はライメンズクラブの会合は本当に面白いと思った。返事は「ガオー!」と叫ぶからだ。初めて訊いた人は驚いてしまう。お爺さんとお婆さんたちのステータスクラブなので、一般人の会合とは異質だ。更に社長の正和もこのクラブのメンバーなので、この会合に出て来たお爺さんとお婆さんは何かに付けて威張っていた。
和夫が今まで経験していた帝丸ホテルの経済同友会やロータリークラブの会合とは違った異質な雰囲気に思えた。ロータリークラブは一業種一社を守っていたが、ライメンズクラブはそこのところが緩いので同じ業者が入っていることが多い。基本はクラブ内で仕事を回し合っていることが多い。そしてたまに寄付をして、「ライメンズクラブ寄贈」と記されているのを良く目にする。
更にロータリーに入れなかった人がライメンズで拾ってもらうという感じだった。いずれにしてもメンバーの紹介が無いと入会できない。もっとも和夫はどちらにも入る事ができない貧乏人であるのだが。
その中の一人のお婆さんが社長の正和の横でお酌をしていた。何やら耳を澄まして聞いていると「社長の会社で山下湖畔の美術館のティールームの入札をして落札したんですってね?」と言った。
愛美も聞いていて目を白黒させていた。社長はそのご婦人が何を言っているのかが分からず愛想笑いを浮かべていた。
ご婦人はしつこく「うちも入札したんだけど、落札できなかったのよ!」と言った。
社長は、今度は理解して「それ、何の話し?」と訊いた。
ご婦人「だから言ったでじゃない、山下湖畔の山無県庁が新たに建てた美術館の中のティールームの話しよ!」
社長「うちが?」
ご婦人「そうよ、副社長が入札したその物件よ!」
社長は寝耳に水というような顔をし「うちが落札したの?」とまた訊いた。
ご婦人「私、余計な事、言っちゃったかな?」
社長「もっと良く聞かせてくれよ!」
ご婦人「この話しは実際に入札した奥様の副社長から聞きなよ。私じゃなくてさ」と言って話しを終えた。
またその中の一人のお爺さんが料理を一切食べずに酒ばかり飲んでいた。周りの人に「料理は下げちゃって!」と言われたので、和夫が「失礼します」と言って下げ出すと「この小僧が何やっているんだ!」と怒鳴られた。
和夫は「大変申し訳ございませんでした」と謝罪し料理の皿を、また目の前に置いた。
コーヒーの前のデザートを出す時間になった。事前に用意していた小さなデザートスプーンが何処を探してもなく一本足りなかった。同じ物がなかったので、その酒だけ飲んでいたお爺さんのデザートに、どうしてもアンバランスなお玉のような大きさのスプーンを置いた。このホテルにはデザートスプーンの数が揃わないのだ。
無い物は百円ショップに買いに行く。建物だけ立派で後は全て貧乏臭かった。本当に品の無い輩の集まりだと思って見ていた。酔っ払いのお爺さんは結局、酒だけ飲んで料理は全部残して千鳥足で帰って行った。
*
夕食のスタンバイと夕食の賄い。
この日はライメンズクラブの定例会の仕事をやって片付けをしたら夕食のスタンバイの時間になっていた。女子高生の指導で和夫はディナーのセッティングをしていた。
「このバットに氷を一段敷き詰めて来て下さい」と女子高生。
「は~い」と和夫。
「『は~い』って伸ばさないで『はい』にして下さい」と女子高生。
「はい!」と和夫は言って厨房に行き「シェフ失礼します!」と言い、製氷機の所に行き氷をもらった。和夫は帝丸ホテルでは高校生のバイトは居なかったので、若い子と話が出来てまた楽しかった。
「外からバットを出して下されば入れましたのに」と良太が言った。
和夫は女子高生に指差し「先生が行って来いって言うもんだからさ」と言って笑うと、「高校生ですよね」と言った。
「依田さんは高校生にでも使われるのを嫌がらないんですね」と良太が言った。
「自分より仕事ができる人は皆、先生だからさ。それに可愛いしね」と和夫が言った。
「そうですね」と良太は納得していた。
和夫はバットに氷を敷き詰めて持って行くと女子高生は「今度は調理場の裏の冷蔵庫からサラダを持ってきてください」と言った。
「はい、承知致しました!」と和夫は言って取りに行った。
「良く~ん、先生がサラダを持って来いって言うんだけどどれかな?」と和夫が言って訊くと良太は手を休めて教えてくれたので和夫は「ありがとうございます」と言った。
「依田さん、勘弁して下さいよ」と良太。
「何を?」と和夫。
「あっ、いいです」と良太は言って持ち場に帰った。
和夫がサラダを持って行くと、今度は「お刺身の盛り合わせが裏の冷蔵庫にあるので持ってきて下さい」と言われまた「はい」と返事をして裏の冷蔵庫に行き持ってきた。
このホテルは和食の板前がいるのに、刺身の盛り合わせは近所の魚屋から仕入れていた。
和夫は(何て効率の悪い事をしているんだろう)と思っていた。
その後、スタンバイが済み夕食が開始され、何の問題もなく終わった。片付けをして夕食の賄いを食べた。山形と愛美と和夫だった。
「山形さん家の裏が依田さんの寮みたいですよね?」と愛美が言った。
山形は大塚の旧宅の惨状を良く知っていたので「愛美さん、貴方のお父さんの社長は依田さんに凄く失礼だと思うんですけど」と余計な事を言った。
「はい、昨日、依田さんに惨状を見せて頂いたので」と愛美が言った。
「依田さんを呼んでおいて、それであんなゴミ屋敷に住まわせて整理整頓からゴミ集めでその後は捨てに行っているんだって知らないでしょ?」と山形。
「捨てに行くのも依田さんなんですか?」と愛美。
「はい、まぁ……」と和夫。
「本当にうちの社長と言ったら」と言って愛美が絶句した。
「山形さんは私の事を思って言って下さって有難いですが、愛美さんが悪い訳ではないので、ご飯時ですからその話しはもう止めませんか?」と和夫。
「あまりにも依田さんが可愛そうだと思ったしパート全員が私と同じ気持ちだし、依田さんの寮の同じ自治会の人も『あれは幾ら何でも酷いよな』って皆、言っているんですよ」と山形。
「私、穴が有ったら入りたいほど恥ずかしいです」と愛美が言った。
「本当にもう、この話しは止めましょう」と和夫が言って黙々と食事し先に食べ終わって、二人を待たずに「お疲れ様でした!」と言って帰った。
つづく
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