朝の出勤前。
和夫は昨夜、帰って来て穴居奥は何もしないで直ぐに朝まで寝てしまった。最近、の和夫は精神的に疲れていたので、自分の中では精神状態をニュートラルに持って行こうとして様々な試みをしていたが、男性は仕事が一番なので、何をやってもスッキリしないでいた。
まずは起きてシャワーを浴びながら歯磨き、その後髭を剃って洗濯をしていた。バスタオルで体を拭いてスマホの電源は入れたままで寝ていたが、熟睡していた所為か、気付かなかった。見ると昨夜から愛美のLINEと留守電が入っていた。
大久保愛美
「こんばんは、
帰宅して母と話しをしました
何で依田さんにあんなに
冷たくするのかを訊いたら、
冷たくした覚えがないと
言ったので、娘の私から
見ても、失礼千万だと思うと
言うと、「愛美、ダメよ。
貴女、茂雄さんと結婚して
いるのよ」と言われました
私は「ママ、何を考えて
いるの?」と言ったところ
「依田さん、依田さんって
煩いからよ」と言われて、
その後は話しになりません
でした
役に立たずにすみません」
和夫
「おはようございます
昨夜、疲れて寝てしまったので
返信できなくてごめんなさい。
やはり副社長は
答えませんでしたね
分かっていた事なので、
愛美さんは気にしないで
下さい、ありがとう」
留守電を訊くと、
「愛美です、こんばんは、もう寝ちゃったのでしょうか、この後にLINEしておきます」だった。
毎朝、ホテル周辺を箒と塵取りを持って歩き、最後にお社の周りを清掃して「幸福になりたい。」「災難は避けたい。」と願ってはいるものの、神様は「お前は人生の修業が足らん、もっと修業せぇ!」と言われているかのように、災難が降っては沸いている。人それぞれに幸福や災難を測る物差しを異にするにしても願う気持ちは共通していると思う。世の中は嫌な事があまりにも多過ぎて、良い事には中々巡り逢えない。少なくとも悪い巡り合わせには巻き込まれないようにといつも願ってはいるが。交通事故、火災、パワハラ、苛めなど増える一方だし、事件も多様化していると良く耳にする。
既に毎日のように身に覚えのない事で経営者から苛められている。まるで悪性のウイルスと紙一重で生活しているようなものだ。反対に呼び込みたい「福」は、それらのウイルスを自身に近付けたくない事だ。健康を維持して、日々楽しく生きる事ができればこんな幸福な事はないのだが、中々平凡には生きていけない。
東京で必死に仕事に明け暮れていた時期が懐かしい。「過去を振り返るな!」とは良く耳にするが、今は過去の楽しかった日々を思い、歯を食いしばって生きている和夫だった。
さぁ、今日も頑張って仕事しますか!
*
毎朝のルーティーン後に社長からの身に覚えのない三回目のお叱り。
事務所に行き、箒と塵取りを持って朝のいつものルーティーンを始めた。帰って来て蜘蛛の巣取りをしてタイムカードを押して朝食のスタンバイに向かった。既に山下と英子と大崎そして愛美がスタンバイをしていた。
和夫もカウンターのスタンバイをしていると、品川が来て「依田さん、朝のスタンバイが終わったら会議室に行って下さい。」と言われた。
和夫は「えっ、何で、ですか?」と訊くと、品川は「社長が待っていますので。」と冷たく言った。
その話しを愛美も聞いていて和夫に、「何かしたの?」と訊いた。
和夫「いや……、何もしていないと思うけど。」と言った。
朝食時のカウンターのスタンバイを終えた和夫は会議室に向かい、ICレコーダーのスイッチを入れた。
ドアをトントントンと叩いた。
「おー、入れ!」と社長。
「失礼致します」と和夫。
「久しぶりだな!?」
「はい、お久しぶりです」
「今日、君を呼んだのは人使いが下手だなと思ったからなんだよ」社長が言った。
和夫はまた身に覚えのない事を言われている気がして返事をしなかった。
「昨夜、新たなパートが入社したんだろ?」と社長。
「はい」
「何で帰したんだ?」
「『膝が痛いので帰りたい』と本人が言い出したので、品川さんのその事を告げると『使い物にならないなら』とご許可を頂き帰しました」と和夫は言った。
「品川が妻に報告したのはそんな事は言ってなかったぞ!?」と社長。
「事実ですので、そうおっしゃられても……」と和夫はその後の言葉を飲み込んだ。
「帝丸ホテルではその程度の管理をしていたのか?」と社長。
和夫は、その後は話しても無駄だと思って言葉を発しなかった。
「何で答えない?」と社長。
「申し訳ございません」
「君は本当に困った者だな?」と、続けざまに「なんで答えないんだ! 図星で答えらてないのか!?」と社長。
「私はこの件を入れて三回、身に覚えのない事で社長から、お叱りを受けています。本当はこのような事はしたくなかったのですが昨夜、西村さんから言われた言葉からICレコーダーに録ってあります。その一部始終を社長がお聞きになれば私が申し上げている事を信じて頂けると思いますが!?」と、極力低い声でそしてゆっくりと言った和夫だった。
続けて「私は料理長に意見を言った事で、社長は自分が考えた罰を与えなさいとおっしゃった事であの日以降、休みの日以外は全てホテル内外の清掃などを行っていますが、社長は私だけに罰を与えて、パワハラを実際にやっていた料理長にはお咎め無でした。あまりにも不合理な事だと思っており当然、納得はしておりません、この件に関しましても、私は強く訴えたく思っており、最悪は労働基準局に申し出るつもりもございます。」
社長は驚き苦虫を潰し、汚い物でも見るような憎しみを込めた顔で「君はそんな事をしていたのか!?」
「私はこのホテルに転職してからというもの、誠心誠意、業務に打ち込んでまいりましたが、身に覚えのない事で社長からお叱りを受けても証拠がなかったので反論ができませんでした。自分の身の潔白を主張するのはこれしかないと考えての事でした」
(この社長は、いつも副社長と感情的な口喧嘩をしているので直ぐにカッとなる性格のように思っていた)。
「だったら今、聞かせなさい!」と、社長。
和夫はICレコーダーを取り出してスイッチをOFFにしたがまたONにした。
「この俺との会話も録っていたのか?」と、社長。
「はい、録らせて頂きました」と和夫。
「困るんだよな!」
「何がお困りになられるのでしょうか?」
「う……ん、理由はないが気持ち悪いだろ?」
「僭越ですがお言葉をお返しするようで大変に申し訳ないのですが、私は今まで三回も身に覚えのない事で社長からお叱りを受けており、今日は帝丸ホテル時代の管理の事まで出されてお叱りを受けました。私の気持ちはどうしたら宜しいのでしょうか? 私は今回の件は帝丸ホテルに行きまして師匠にこの録音を聴いて頂き、村下総料理長に話しを通して頂き、ホテルに戻して頂こうと思っています。また先程も申し上げましたが、今までの度重なる私への嫌がらせやパワハラ等もこの録音を持って労働基準局に申し立て致します」
「それは勘弁してくれよ!」と社長。
「もう我慢ができません、未だ一ヶ月も勤務していないのに、これだけ濡れ衣を被されている事に私の精神が持たないのです」と和夫。
「そこを何とか、頼むから!」と社長。
「録音をお聞かせしなくても宜しいのでしょうか?」と和夫。
「君の気持ちは良く分かったから、今回の件も、そして前の二件に関しても、君がやってなかったと私は思うから穏便にしてくれないか、頼む!この通りだ」と言ってテーブルに両手をついて頭を下げた社長だった。
「社長がそこまでおっしゃるのでしたら、承知致しました」と和夫。
「分かってくれるか?」と社長。
「はい」と和夫は返事した。
「だったら今、その録音を消してくれ!?」と社長。
「申し訳ございませんが、これは私がこの会社に勤務している限りの保険ですので消す事はできませんのでお許し下さい」と和夫。
「では、君が我が社に勤務している間はその録音は外に出さないと約束してくれると言うんだな?」と社長。
「はい、お約束致します」と和夫。
「今日は済まなかった、戻っていいぞ」と社長。
「失礼致します」と和夫。
社長は和夫を「怖い奴」と思ったし、「今までの社員でこんな奴は居なかった」と思った。
*
社長と副社長の口喧嘩。
レストランでは朝食が始まっていた。
「としえー!」
「気安く名前で呼ばないで! って言っているでしょ!?」
このホテルでは何か問題が起こると朝に限らず、社長の正和とその妻である副社長の寿江による夫婦の口喧嘩が勃発する。
それもフロントの奥に位置する事務所やレストランの中なので、当然そこに居合わせた者の耳には全ての言葉が否応なしに入ってくるのだ。
今日は、謝罪するのが大嫌いで自信家で自惚れの強い社長が、和夫に証拠を突き付けられて言い負かされた事で頭に来ていた。
社長の正和は和夫を帰してから直ぐに事務所に行き、副社長に「お前、いい加減にしろ! お前の所為で俺が依田の前で手を付いて頭を下げて謝る事になっただろ! お前はいつも俺に嘘ばかり伝えやがって、この野郎!」
副社長も言われるまま黙ってはおらず、「何を謝ったって言うのよ!」
「依田はお前が言った事は全部嘘だって証拠を突き付けてきたんだぞ!謝るしかねーだろよ!」
「品川から聞いたそのままをアンタに伝えただけでしょ?! 私は悪くないわよ、悪いのは嘘を言って私に伝えた品川じゃないの! 私に怒鳴る事は無いでしょ!?」と副社長が応戦した。その事で社長は更に感情が高ぶった。
「品川、お前ふざけんなよ! 俺がどれだけお前に目を掛けてやっていると思っているんだ!」と社長。
「すみません、私は真実を副社長にお伝えしただけですので!」と品川。
「だったら何で俺が依田に謝罪しなくてはいけなかったんだ!? その意味を教えろ!?」
品川「申し訳ありませんでした!」とその場で土下座した。
「お前らの言っている事は今後一切、信用しねーからな! いい加減にしろ!」と社長。
愛美が中に入って、「もういい加減にしなさいよ、お客様にも聞こえているじゃない!」
「お前は黙っていろ!」と社長はカンカンになって怒って椅子を蹴っ飛ばして帰って行った。
当然、この事に寄り、副社長は自分を反省する事はなく、更に和夫を逆恨みする事になった事は言うまでもない。
*
朝食スタート 朝の賄い。
お客様の朝食では、社長と副社長の怒鳴り声は聞こえていた。
客から「ちょっと朝から煩いんじゃない?」とか”Be quiet because it's noisy ”との声が出て愛美が事務所に飛んで行った。和夫は(俺の事で夫婦喧嘩か、これで副社長の嫌がらせが収まれば言う事無しなんだが無理だろうな)と思って苦笑した。
愛美が帰って来て、「本当にいつもなんだから!」と言い怒っていた。和夫は(愛美と結婚していたら大変だったと思い胸を撫でおろし)また苦笑した。
(やっぱり家庭は穏やかに限る。社長と愛美は二世帯住宅とは言え、上と下で毎日、毎晩、あの声を聞いていたら気が変になってしまうだろうと思い笑っていると愛美が「何、笑っているの?」と訊いた。
「愛美の旦那の茂雄さんは大変だなと思ってさ」と言ってまた笑った。
「それより社長との話しは何だったの?」と愛美。
「今、ここでの説明は難しいよ」と和夫。
「中抜け休憩の時に何処かで会えない?」と愛美。
「ラブホ?」と和夫。
「嬉しいけど無理でしょ? だって抱いてくれる気がないものね?」と愛美。
「じゃぁ、ココス?」と和夫。
「御天場中央公園に十時半でどう?」と愛美。
「近いからね、OK!」と和夫。
レストラン自体は何の問題もなく終えた。
片付けが終わり、朝の賄いを食べた。
「依田さん、また社長に朝、呼ばれていましたよね?」と大崎。
「うん」と和夫。
「また品川さんが副社長に何かを告げ口して社長がって感じでしょ?」と大崎。
「うん、そんな所だったね」と和夫。
「社長は怒ると止まらないから大変でしょ?」と大崎。
「副社長に怒るような怒り方ではないけど、横柄でイヤミったらしくて嫌な感じだよ」と和夫。
「ごめんなさい」と愛美。
「愛美さんが謝る話じゃないよ」と和夫。
「そうですよ、最近の芸能人でも子供が不祥事をしても親は謝罪しない傾向ですから、親の不祥事で子供が謝罪するのはおかしいですよ」と大崎。
大崎さんは上手い事、言うね!?」と和夫。
「ホントだ。」と言って皆で笑い、「でもいつもあの調子だから嫌になっちゃうわよ」と愛美。
「確かに」と和夫。
「常務も大変でしょうね?」と大崎。
「俺もそう思うよ」と和夫。
「恥ずかしいわよ」と愛美。
食べ終わって食器を洗って、愛美との待ち合わせの時間の前までトーションを折っていて待ち合わせの二十分前にホテルを出た。
*
御天場中央公園で和夫と愛美が会う。
和夫は愛美との待ち合わせ時間の五分前に着いた。サザンのCDを聴いて待っていた。愛美が駐車場に着いて、和夫の車を探して見付けると隣に停めて和夫の車に乗り込んだ。
「サザンが好きなのね?」と愛美。
「うん」と和夫。
「和さんの、個人的な事はあまり知らないから、こういうのも新鮮よね」と愛美。
「俺も愛美の個人的な事は何も知らないから」と和夫。
「確かにそうよね」
「おいおい知れば良いよね」
「そうよね、で?」
和夫はCDを止めて録音を聴かせた。
ICレコーダーのスイッチをONにした。
+++++
ICレコーダーのスイッチを入れた音。
西村「すみません、膝が痛いのでこれで帰らせてもらいたいのですが?」
和夫「独断で決められないので、副支配人に聞いてきますので少し待っててください」
和夫の歩く音。
和夫「副支配人、すみません。西村さんから膝が痛いので帰りたいと言っているのですが、どうしたら宜しいでしょうか?」
品川「使い物にならないんだったら帰らせても良いんじゃないのかな」
和夫がレストランまで歩く足音。
和夫「副支配人の品川さんが帰って良いって言っているのでお帰り下さい、お大事にして下さいね」
ICレコーダーのスイッチをOFFにした音。
ICレコーダーをOFFにした。
「本当にうちのホテルって酷過ぎよね?悲しくなるわ」と愛美。
「とにかく、誰かを一人、ターゲットにして苛め抜くのが好きなんだよな。会議室の社長の話しを聞かせるよ」と和夫。
「うん。お願い」と愛美。
ICレコーダーのスイッチをONにした。
ICレコーダーのスイッチを入れた音。
ドアを「トントントン」と叩く音。
社長「おー、入れ」
和夫「失礼致します」
社長「久しぶりだな!?」
和夫「はい、お久しぶりです」
社長「今日、君を呼んだのは人使いが下手だなと思ったからなんだよ」
和夫はまた身に覚えのない事を言われている気がして返事をしなかった。
社長「昨夜、新たなパートが入社したんだろ?」
和夫「はい」
社長「何で帰したんだ?」
和夫「『膝が痛いので帰りたい』と本人が言い出したので、品川さんのその事を告げると『使い物にならないなら』とご許可を頂き帰しました」
社長「品川が妻に報告したのはそんな事は言ってなかったぞ!?」
和夫「事実ですので、そうおっしゃられても……」
社長「帝丸ホテルではその程度の管理をしていたのか?」
和夫は一旦、ICレコーダーを止めた。
「こんな感じで言われていたら、話しても無駄だと思って言葉を発しなかったんだよ」と愛美に和夫は言った。
「確かにこんなに一方的に言われたら、話す気も無くなるわよね」と愛美。
「スイッチを入れるね」と和夫は言い、ICレコーダーのスイッチを入れた。
「うん」と愛美。
社長「何で答えない?」
和夫「申し訳ございません」
社長「君は本当に困った者だな」
社長「君は本当に困った者だな?」と、続けざまに「なんで答えないんだ! 図星で答えらてないのか!?」
和夫「私はこの件を入れて三回、身に覚えのない事で社長から、お叱りを受けています。本当はこのような事はしたくなかったのですが昨夜、西村さんから言われた言葉からICレコーダーに録ってあります、その一部始終を社長がお聞きになれば私が申し上げている事を信じて頂けると思いますが!?」
和夫「私は料理長に意見を言った事で、社長は自分が考えた罰を与えなさいとおっしゃった事であの日以降、休みの日以外は全てホテル内外の清掃などを行っていますが、社長は私だけに罰を与えて、パワハラを実際にやっていた料理長にはお咎め無でした。あまりにも不合理な事だと思っており当然、納得はしておりません、この件に関しましても、私は強く訴えたく思っており、最悪は労働基準局に申し出るつもりもございます」
社長「君はそんな事をしていたのか!?」
和夫「私はこのホテルに転職してからというもの、誠心誠意、一所懸命に業務に打ち込んでまいりましたが、身に覚えのない事で社長からお叱りを受けても証拠がなかったので反論ができませんでした。自分の身の潔白を主張するのはこれしかないと考えての事でした。」社長「だったら今、聞かせなさい!」
ICレコーダーを取り出してスイッチをOFFした音。
直ぐにまたONにした音。
社長「この俺との会話も録っていたのか?」
和夫「はい、録らして頂きました」
社長「困るんだよな!」
和夫「何がお困りになられるのでしょうか?」
社長「う‥‥‥ん、理由はないが気持ち悪いだろ?」
和夫「僭越ですがお言葉をお返しするようで大変に申し訳ないのですが、私は今まで3回も身に覚えのない事で社長からお叱りを受けており、今日などは帝丸ホテル時代の管理の事まで出されてお叱りを受けました。私の気持ちはどうしたら宜しいのでしょうか? 私は今回の件は帝丸ホテルに行きまして師匠にこの録音を聴いて頂き、村下総料理長に話しを通して頂き、ホテルに戻して頂こうと思っています。また先程も申し上げましたが、今までの度重なる私への嫌がらせやパワハラ等もこの録音を持って労働基準局に申し立て致します」
社長「それは勘弁してくれよ!」
和夫「もう我慢ができません、未だ一ヶ月も勤務していないのに、これだけ濡れ衣を被されている事に私の精神が持たないのです」
社長「そこを何とか、頼むから!」
和夫「録音をお聞かせしなくても宜しいのでしょうか?」
社長「君の気持ちは良く分かったから、今回の件も、そして前の二件に関しても、君がやってなかったと私は思うから穏便にしてくれないか、頼む!この通りだ。」
和夫はICレコーダーのスイッチを消し、「あの社長がテーブルに両手をついて頭を下げたんだよ」と和夫は言った。
「信じられない。うちの社長が人に頭を下げるなんて!? だからあんなに怒っていたのね。あんなに怒っている姿なんか見た事ないし椅子を蹴っ飛ばして帰るなんて初めて見たから」と愛美。
和夫はICレコーダーのスイッチを入れた。
和夫「社長がそこまでおっしゃるのでしたら、承知致しました」
社長「分かってくれるか?」
和夫「はい」
社長「だったら今、その録音を消してくれ!?」
和夫「申し訳ございませんが、これは私がこの会社に勤務している限りの保険ですので消す事はできませんのでお許し下さい」
社長「では、君が我が社に勤務している間はその録音は外に出さないと約束してくれると言うんだな?」
和夫「はい、お約束致します」
社長「今日は済まなかった、戻っていいぞ」
和夫「失礼致します」
++++++
「これが、今日の話しだよ」と和夫。
「本当にごめんなさい」と愛美。
「折角、来たんだから外を歩こうか?」と和夫。
「うん」と愛美。
歩くと誰も周りには居なかった。
和夫は愛美の手を引き、木陰に連れ込み彼女の背中を樹に沿わせてキスをした。
愛美も和夫の唇をむさぼるように重ねた。
「和さんが愛しています。だから……」と、愛美。
「キスだって本当はダメなんだから、後はちゃんと旦那と離婚してからだね」と和夫。
和夫は溜まっていたので、本当はしたかったが愛美だけにはその気持ちを押さえていた。
他の人妻だったら多分していると思っていた。
「は~い」と不服そうに返事した。
暫くディープなキスをしていた。
*
中抜け休憩時。
裏の山形さんは先日の夕食の会話で、お隣の重田さんの奥様は、今日の立ち話で、「夏休みが嫌いなの、イライラするのよ」と言った。
和夫「何がイライラするのですか?」と訊いた。
二人は「息子たちが帰って来るからよ」と答えた。
お二人ともに大学生の息子さんの母親だ。夏休みは東京や関西の大学に行っている息子さんたちが帰って来るという。本当は久々に顔を見せてくれる可愛い息子たちで楽しみに待つ気持ちが強いはずなのに、その先が嫌なのだと言った。
「お父さんよりも大きな図体で家の中で一日中ゴロゴロしているから」とか「夜になると何処かに行ってしまう」とか「クーラーのある部屋を独り占めしてしまう」とか、暑くても懸命に働く特に山形さんは、子供の為に夜のパートをしているぐらいなので余計に腹が立つのだと思った。夏休みだからと言って目の前でルーズな生活をされているとやりきれない気持ちになると言った。高い学費、生活費、アパート代などを工面している親の気持ちになればイライラするのも分かる気がする。
和夫は大学に行きたかったが、三兄弟の長男という事で諦めさせられ、調理師学校に行きその後は働いた。そんな大学に行っている子供たちを見ると羨ましさも募るし、その親たちの愛情が深い事にも感心した。
和夫も帝丸ホテル時代に嫌というほど経験した、実力主義の調理師の中でも確実に学歴社会の波が押し寄せていた事も事実だった。全ての世界が確実に学歴社会へと移行しているのが分かった。大学を出ていなかった和夫にとっては、嫌な世の中に移り変わっていくものだなと思い奥さん方の愚痴を聴いた。
その後の和夫は昼寝をした。時間になって夕食のスタンバイにホテルへ向かった。タイムカードを押していると、品川が来て、「依田さん、自分はそのつもりではなかったんですが、何だか副社長が社長に変な報告をしたみたいで、すみませんでした」と謝った。
和夫「別に気にしていませんから、お気になさらないで下さい」
愛美がその会話を聞いていて和夫にウインクした。
そんな話しをしていたら昨夜、途中で帰った西村が事務所に入って来て、「すみません、昨日のパートの給料をもらいに来ました」と言った。そこにいた社員全員が呆気に取られたが、愛美が直ぐに計算して支払い、西村は帰って行った。
「あぁー、びっくりした。俺が西村さんだったら取りに来られないな、さすがだよな」と和夫が言った。
「肝が据わっているから、あれだけ太れるんだろうね」と品川が言った。
「さぁ! 今日も頑張ろうっと!」と言って和夫はレストランに向かった。
ホールのスタッフに挨拶をして、洗い場に行くと多部と鈴木が居た。
和夫「今日も多部さんは化粧乗りが良いんじゃない? あーこんなに素敵な熟女を抱きたいよ!」と言った。
「依田さ~ん、お願い抱いて~!」と多部もふざけて言った。
「私も~」と鈴木も言ったので、和夫は「仕事、仕事、あ~忙しい!」と言いながら調理場に行った。
和夫が挨拶する前に、全員で「おはようございます!」と言われたので、和夫も元気良く「おはようございます!」と言いカウンターに行きスタンバイをした。
*
夕食と夕食の賄い、そして帰寮。
今日の夕食は四名が二組と二名が一組そして外国のご婦人が一名だけだった。十一名のバイキングなのであっと言う間に終わるのかと思っていたら、外国のご婦人の一名がずっと本を読みながらたまに外を見てゆっくりと食事をされていた。
和夫はご婦人なので、女性スタッフに相手をしてもらいたくあまり近くには行かないようにしていた。しかしそのご婦人は何かと用を見付けては和夫を呼んだ。和夫は苦手な英語を話さなくてはいけないと思って気が重くなっていた。
"Isawyoucleaningtheareaaroundthehotelthismorning."
"Isthatso"
"Whyareyoudoingsohard?"
"Becauseitisapromisewiththepresident"
"Myhusbandisalsoenthusiasticabouthiswork,it'slikehediedfromoverwork."
"Istayedatthishotelamonthbeforeherdeathandhaddinneratthisseat."
"Isthatso,it'sanostalgicmemory."
“SoI'mhereagain,don'toverdoyourwork,becareful.”
"Thankyou,becareful"
"Thankyouforthefunconversation"
"Youarewelcome"
"Goodnight"
"Goodnight"
最後のお客様だったので、他のスタッフは片付けをしていたので、お帰りになられた後は直ぐに夕食の賄いだった。
「今日の休憩時間で隣の奥様が先日、山形さんが愚痴っていた事と同じ事を言っていましたよ」と和夫。
「何の事?」と山形。
「大学生の息子さんの話しですよ」と和夫。
「あれね、本当に頭来ちゃうわよ、だって私はこうやって夜にパートに来ているのはあの子たちの学費や生活費の足しになればと思ってやっているのに、あの子たちったら全然、そういう事を理解していないんだから」と山形は未だ怒っていた。
「私も大学時代はスペインだったので親の苦労は分からなかったから」と愛美。
「ちゃんと分かってあげてよ、社員やパートを泣かしてでも搾取していた社長なんだからさ」と山形は言って舌をペロッと出した。
「それを愛美さんに言ったら可愛そうなんじゃない?」と和夫。
「でも事実でしょ?」と山形。
「ご飯が不味くなるから、その話しはもうやめましょうよ!」と和夫。
「これからは社員やパートの事をちゃんと考えられる将来の社長になるよう、愛美さんは勉強していくんだもんねぇ!?」と和夫が言った。
「はい、頑張ります!」と愛美。
和夫はまた黙々と食べて帰寮した。
つづく
読み終わったら、ポイントを付けましょう!